癒しと冒険、心に広がる海。
もし仕事のことやお金のことなど、何も考えずに住む場所を決められるなら、わたしは迷うことなく、奄美大島を選ぶだろう。
九州南方海上、鹿児島市と沖縄本島のほぼ中間に位置する、奄美大島。
他では絶滅した生物が残っていたり、その島独特の固有種がいたりと、東洋のガラパゴス諸島とも呼ばれる、奄美大島。
原生林や珍しい動植物、美味しい郷土料理も魅力だが、わたしにとって奄美大島の一番の魅力は海だ。
コバルトブルー、翡翠色、エネラルドグリーン、瑠璃色、群青。
持てる限りの色の言葉を、出し尽くしてもあの、澄んだ空と海の色を、わたしは言い表せない。
寄せては帰る波と砂浜に消えていく繊細なレースのような、泡。
沖にいくにつれ、徐々に濃度を増す海の色。
陸から海を眺めているのも至福だけれど、わたしは、一刻も早く海と一体になりたいと気持ちが逸ってしまう。
数年前、海の世界に憧れて、ダイビングのライセンスを取った。
ダイビングは、呼吸を気にせず、自由自在に海の中を動ける分、準備や制約も多い。重いダイビングスーツや器材、酸素ボンベ。
一日の中で身体にかかる気圧の負担を考え、ダイビングをしてから数時間は飛行機に乗ることができないし、海に潜れる時間も酸素の残量のことも考慮すると、長時間潜れない。
というわけで、特に準備がいらず、身一つで潜れるシューノケリング。装備は、水中眼鏡と水着の上に長袖のラッシュガードとマリンシューズのみ。
もちろんダイビングには、ダイビングにしかない魅力はあるが、奄美の海でのシュノーケリングにはまってしまった。
砂浜から、沖へと歩みを進めると、すぐに足は海底から離れる。
平泳ぎの要領で、ゆっくりと手足を動かす。肌を柔らかく押してくるわずかな水の抵抗が、今わたしは海の中にいるのだ、と実感しうれしくなる。
そう、この感覚、とどこか懐かしさで胸いっぱいになる。
この感覚は、身一つで、潜るシュノーケリングでしか味わえない気がする。
しばらくすると、小さな魚たちが泳いでいるのが見えてくる。深さが増すにつれ、魚の種類が増えていく。
そのうち上から、魚たちや珊瑚を眺めているだけでは物足りなくなって、
出来るだけ身体を垂直にし、下へ下へ潜る。珊瑚は、様々な魚たちの住処となっており、黄色、オレンジ、青色、目にも鮮やかな魚たちがいる。本当に見ていて飽きることはない。
そして呼吸が苦しくなり、浮上する。
ああ、マーメイドのように、自由に水中で息ができればいいのに。
なんと奄美では、ついていれば、亀にも出会える。亀はすごい。どんな魚ともまた違う感動があるのだ。近くで悠々と泳ぐ様は、見惚れる。
亀についていき、しばし一緒に泳ぐ。もちろん速度は、亀になんてかなうはずがないから、すぐに引き離されてしまうのだけれど。
昔話の「浦島太郎」で、竜宮城への遣いが他のどの生き物でもなく、亀だったのは何だか妙な納得感がある。
「早朝イルカが、泳いでいたことがあったよ。」
泊まったお宿のオーナーさんが、発した言葉に、心拍数が上がる。
あのイルカが?あの愛らしくて憧れのイルカが?
いつの日か、自然の中で泳ぎまわるイルカが見れたりするんだろうか。
ますます、憧れは募ってゆく。
この世に、美しいものや面白いものなど、心動かされるものは、きっと無限にある。
歴史ある精巧な建築、時代や画家ごとに味わいが違う、美術。精密な工芸品。
素晴らしい音楽や映画。シェフが趣向を凝らして作った料理。
でも、五感で、触れ感じられるものは、何にも代えがたい。
わたしを構成する細胞という細胞が、震える。今、ここにいる喜びに震える。
自然に触れることは、深い癒しと未知なる冒険なのだ。五感に響いた圧倒的な体験は、時間が経とうが、心にあり続ける。
澄みきった海が、目の前に広がり、ゆらゆらと波に抱かれる心地良さ。
別世界のたくさんの生き物たちと一緒に過ごせる幸せ。
ふとしたときに、思い浮かび、そこに身体を預けたくなってしまう、無条件に癒される場所。
誰かにとっては、それが緑豊かな山なのかもしれないし、
黄金色に輝く田んぼなのかもしれないし、
一面の花畑なのかもしれない。
わたしにとっては、それが海。奄美の海。
行きたいときに、すぐ目の前に広がるコバルトブルーに飛び込んでいけたら。
思い立ったときに、砂浜に座って飽きるまで寄せては返す波を眺め続けられたら。
1日の終わり、眠りに落ちる数分間、わたしは胸の奥にしまった海をそうっと取り出し、心を満たす。
ーいつか叶うその日まで。