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【中編小説】金色の猫 第18話(全33話)#創作大賞2024

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読了目安時間:約3分(約1,600字)

 ダルさんの喫茶店で働くというおもわくは、虚空を揺蕩い儚く霧散した。個室へ散らかった遣り切れなさを振り払い、予定より早くネットカフェを出た。昼下がりの空は高く冴えわたり、ビルの外壁へ反射する銀の光が鋭く網膜を刺す。まぶしさで顰め面になりながら、俺の足は自然とあの古書店へ向いていた。
 古書店のある路地裏へ差し掛かったとき、店先で五十円均一の棚へ文庫本を並べる店主の影が見えた。旧い知り合いを見つけたような愉しさが込み上げ、走り出したい気分だった。逸る足を抑えきれず競歩になり、勢い余って店へ入ろうとする店主とぶつかりそうになる。「すみません」店主は顔を上げ、そして一度戻したあと、ふたたび俺を見た。
「あ、あんた……須東零四風すとうれいしふうの兄ちゃんか」
 店主の視線が俺の頭から爪先をすばやく流れる。俺は二週間前と自分の見た目が変わっているのに気づき、小さく声を漏らした。
「そ、そうす」ひとつに束ねた髪を触る。
 店主はなにか言いたげに口を開いたが、すぐに「入るか」とだけ言って店の奥へ消えていった。

 天井近くまで積み上げられた古書を仰ぎ見ながら、くすんだ赤いタイルの上をしずしず歩く。しずかに息を吸い込んだら、古紙のいかめしい匂いがする。ありあまる時間を含んだそれに、俺は爺さんからもらった青いキャップをおもった。棚から適当な一冊を手に取り、ざらついた表紙を撫でたとき、自分が本を愛しくおもっているのに気づいた。
「あの……!」つい大きな声が出て、心臓が跳ねる。
 帳場の奥にいた店主が勢いよく飛び出してきて、めずらしく声を張り上げて応える。持っていた分厚い本を棚へ戻し、店主へ歩み寄った。
「と……ここで、働かせてもらえませんか」
 目の前にいる店主は俺の胸ほどの背丈しかなく、嗚呼、この人はこんなに小さかったのか……戸惑いながら数歩下がる。上目遣いにこちらを見るウイスキーを垂らしたような瞳は濃く、熟成された大きな時間を感じた。それはここへ積み重ねられた古い書物と似て、そのものの大きさを遥かに凌ぐ威光を放っていた。
 筋肉が震えるほど心臓が高鳴り、その音が耳の奥へこだまする。店主は白髪交じりの眉を顰め、伏し目がちにどこか一点を見つめていた。振り子時計が厳かに時を刻む音が本棚へそっと吸い込まれてゆく。
 やがて蝶番ちょうつがいの軋むような音が聞こえ、「ん……だめだ……」店主が低く唸った。そして俯いたままおもむろに踵を返し、そろそろと帳場へ戻っていく。「そうすよね……」思いがけず情けない声が出たのに驚き、本棚から薄い本を取って誤魔化した。
「……悪いな。なにぶん老いぼれが趣味でやっている小さな店だ。人を雇う余裕はなくてね」
 黒い羽のはたきを手に店主が横へ来て、綺麗な本棚を掃いながら申し訳なさそうにつぶやく。
「や、ちょっと言ってみただけなんで。大丈夫す」
 不器用に笑った俺の手元を見て身を硬くし、店主は「……まあ、なんだ……たまに、そういうのも置いてある」と苦笑いした。右手に視線を落とせば、こちらへ股を広げる下着姿の女と目が合った。どうやら先ほど手にした薄い本は昭和のポルノ雑誌だったらしい。「あ、勉強になり……ます」俺はそれを元あった場所へしっかり返した。

 それからしばらく店内をぶらぶら見て回り、気になる本も数冊あったものの金を使う気には到底なれず、俺は出入口へ歩き出した。
 店先の窓から見える街並みには夕暮れが滲んでいて、まぶしくもないのに目を細める。やわらかな木製の引き戸へ手を掛けたとき、乾いた草履の音が背後から慌ただしく近づいていてきた。振り返れば、肩で息をする店主の姿があった。
「……あーー、そうだ……ひとつだけ、ひとつだけ当てがあった。私の友人だ。書店をやっている。そいつのところでついこの間、若いのが一人辞めちまったらしい。兄ちゃ」「なんでもします」店主が話し終えるのを待たずに、俺はその小さな体躯へ詰め寄った。店主はうろたええながら「ああ……まあ、そう急くな」と二三歩下がり、俺に待つように言い残してふたたび店の奥へ消えていった。

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