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「はじめてのウィトゲンシュタイン」

「はじめてのウィトゲンシュタイン」を読んでいる。
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000912662020.html

 なぜかここ数ヶ月私の周りでウィトゲンシュタインがやたら出現していたので、手に取ってみた。きっと訳がわからないだろうな、と想像していた。ウィトゲンシュタインの生涯を追いつつ、彼の思想を読み解いていくものだ。まだ第一章を終えたところで、想像通りよくわからないのだけど、思ったより面白い。

  ウィトゲンシュタインが「論考」を書いた目的は何か。それは、「有意味に語りうること」と「有意味に語りえないこと=語ろうとしても無意味になってしまうこと」との間に境界線を引く、ということである。

 最初に結論が来るとそういう心構えで読めるから、好きだ。
 面白いと思ったところをいくつか。長くなりそうだ。

P.57
 世界の存在も、これと同じ意味で「超越論的」である。つまり、宇宙や太陽系や石ころや本や机が存在するのに時間的に先行して、世界が存在するわけではない。それらが存在するときに必ず示されているもの(=それらの存在が必ず反映しているもの)、それが世界の存在である。その意味で世界の存在は、世界内に様々なものが存在する可能性の条件なのである。
 そして、そうであるがゆえに、論理についてと同様、世界の存在についても、我々は語りえない。「世界が存在する」とか「存在する」「ある」というのは、実のところ何ごとも語っていない(=有意味な命題ではない)。

「語りえない」のもの。

P.85
 このように、永遠の相のもとに世界の可能性の一切を等しく見下し、一切を神秘や奇跡として見るという生ー認識の生ーを送る者、それをウィトゲンシュタインは「現在に生きる者」(TLP.§6.4311)とも呼んでいる。
 彼の言う「現在に生きる」こととは、未来に背を向けて刹那的に生きる、などということではなく、世界に生じうる一切の事態を現在形において捉えつつ生きるということだ。言い換えれば、過去も未来もない、無時間的な生を生きるということにほかならない。
 P.86−87
 死は人生の出来事ではない。人は死を経験しない。
 永遠というものが、時間の無限の持続のことではなく、無時間性と解されるならば、現在に生きる者は永遠に生きる。
 我々の生には終わりがない。我々の視野に限界がないのと同様に。(TLP.§6.4311)

永遠の相のもとに生きる者ー<永遠の今>としての現在に生きる者ーには死は存在しない。その者は終わりのない認識の生を送る。それゆえ、私に対する不安も存在しない。それだけではない。この者には恐れも希望も存在しないし、悪しきこともよきことも存在しない。

 これがウィトゲンシュタインの見出した「人間にとっての極限的な幸福、救いの可能性」らしい。

 私の諸命題は、私を理解する人がそれらを通り、それらの上に立ち、それらを乗り越えて、最後に、それらが無意味であることを悟ることによって、解明の役割を果たす。(言うなれば、読者は梯子をのぼりきったら、それを投げ棄てなければならない。)
 読者は私の諸命題を葬り去らねばならない。そのとき、読者は世界を正しく見るだろう。(TLP.§6.54)

 少しづつではあるが、古代ギリシャから、西洋哲学までの一連の流れをなんとなく読んできてみて、この考え方は新鮮で面白かった。(どう面白かったのか語る知識はなく、なんとなく面白いのだ)思わぬものにぶつかったような、そういう感覚だ。

 まだこの本の第1章だけなのだが。最後まで読めるだろうか。面白いけれど、どんどん追いつかなくなりそうな予感。。
 同じ作者の「論理哲学論考」も借りてきたので、これもちょっと楽しみでもある。

 


 


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