「暇と退屈の倫理学」

常々退屈ってなんだろう、とおもっていた。ここ何年か仕事はめちゃくちゃ忙しかったりしたけど、頭の中は退屈で、この感覚はなんだろうと漠然と思っていた。暇と退屈ってセットなはずなんだけどなぁ、と。色々あって、暇も手に入れてしまったタイミングで図書館で見つけた時には、「お!」と思わず声が出てしまった。

ざっくりまとめると、退屈はいつ生まれたのかみたいな退屈の歴史と、退屈ってじゃあどんなもの?どんな種類があるの?みたいな話をハイデッカーの退屈論をメインに分析しているのと、倫理学なので、じゃあその退屈をどう生きていくのか、という感じ。

ハイデッカーって難解で「存在と時間」なんて何度トライしても半分も読めたこと無いけど、やっぱり面白いこと考えてる人なんだな、と失礼ながら思った。本を読む事は巨人の肩に乗ること、という言葉を聞いたことがあるけど、自分で読まなくてもこうしてハイデッカーに触れられるのはラッキーだ。そして多分ハイデッカー好きなんだろうな自分。

私なりの理解をざっくりまとめる。順不同。

「暇」はすることがない時間のこと。「退屈」とは主観的なもので暇でも暇でなくても持て余して満足でない状況のこと。正常な状態、もしくは正気であるのは、退屈をいなし、日常に戻り、円を描くように生きること。何かの奴隷になることで退屈は忘れられるが、正常ではない、正気ではないということ。

退屈をいなす、ということは、人間を楽しみ、自分が取りさらわれる瞬間(夢中になる瞬間かな)を待ち構えること。しかしそこには訓練(私は教養ともとらえた)が必要。それは楽しむ訓練であり、その瞬間から何かを受け取る力を鍛えること。思考し続けること。すなわち退屈の苦しさすらも思考し探索することで、世界が広がる。そしていつの間にか退屈は消え、日常に戻る。

最近清田隆之さんの記事でも読んだが、日々去来する気分や感情、不安定さ、安定すらも簡単な言葉でやり過ごさず、因数分解することで思考を深めて正体を見極める。そういうことの繰り返しで思考を深め、楽しむ、受け取る訓練を重ねることが、退屈をいなしながらより良く生きるということなのかなと。

私自身はというと、人よりも恐らく退屈が耐えられない。そこから逃れるために、常に何かを探している。ある種の刺激ジャンキーだ。適当にそれなりに出来ることは退屈で自分の中でどんどん価値が下がっていく。そして次々に新しいミッションを探している。そのサイクルは2−3年。短い。要は、退屈をいなして、日常に戻ることができない。なぜこうなるのかというと、やはり思考が足りない、すなわち受け取る能力が低いということなのかなと。私は刺激をただただ消費するだけで走り去る。そこには満足はないし、次の刺激を求めるのみだ。恐らく自分に必要なのは、新しい刺激ではなく、自分自身の中にある簡単な言葉に覆われてしまって見過ごされている数々の不安定さや感情の亡霊と向き合うことなのかなと。




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