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取り逃がし案件について

多くのアーティストも発掘、育成した来たのですが、それと同じくらい争奪戦に負けて獲得出来なかったり、出会うタイミングが合わなかったり、僕の見る目がなかったりという事で契約にいたらなかったアーティストも多数いました。そういうアーティストとの思い出を書こうと思います。
まず最初はザ・ブルーハーツです。彼らのとの出会いは1986年の札幌の野外イベントでした。リハをなんとなく見ていたのですが甲本ヒロトさんが転がしのモニター・スピーカーを指差して「これ邪魔なんで退けてほしい」と言って驚きました。そしてライブ本番はぶっ飛びました。

会社に帰ると早速すごいバンドを見たと報告したのですが見た目も汚く、演奏も当時の感覚で言うと下手、音楽性はパンクというと誰も興味を示してくれませんでした。
ですが、いつの間にか彼らの噂は広がり、動員も鰻登り、そういう状況になると、頑張って獲得して来いという感じになりました。
そうなってくると僕は新人のディレクター、頑張って地方のライブを見に行ってメンバーと少し話せたような記憶もあります。浅川マキさんがマネージメントの代表と付き合いがあるというので仲立ちをお願いしたりまでしました。でも新米のディレクターなかなか相手にはされませんよね。
結果、他社と契約しました。でも、ここで社内で「加茂というのはなんか新しいアーティストに鼻が利く」のではないかという評価をもらえた気がします。

スピッツとの出会いは定かでには覚えていないのですが、当時担当していたバンドのギターがスピッツのメンバーと懇意だった事もあり、何度かライブを見ていたと思います。「このバンドはすごいかも」と思ったのは彼らのインディーズでのファースト・アルバム「ひばりの心」を聞いた時です。早速、マネージメントを決まっていたのでアプローチをしたのですが、これもほぼポリドールとの座組が決まっていたのでお断りされてしまいました。

当時は実はウルフルズもポリドールとの争奪戦になっていたのですが、ポリドールはスピッツを獲得したのでウルフルズの獲得競争から降りたという記憶があります。どこかでスピッツが東芝EMI、ウルフルズがポリドールという世界がマルチバースの中にあるかもしれません。

オリジナル・ラブもピチカートVに田島貴男が参加している時にすごいと思って田島さんにも会い、話をしていたのですが当時の上司が「声が好きではない」と言われ、それを言われたら元も子もないと思うのですが、交渉をやめてしまいました。その後、別の部のディレクターがアプローチして東芝EMIと契約。大成功したのは言うまでもありません。

フリッパーズ・ギターはそのオリジナル・ラブを乃木坂のインクスティックというクラブに見に行った時、まだロリ・ポップ・ソニックという名前で出演しているのを偶然見ました。その印象は「センスが抜群に良いけれど歌と演奏が下手すぎる」という物でした。

客席に当時から懇意だった後に彼らをプロデュースする吉田仁さんがいて「このバンド、日本で今一番好きだ」と言ったのを覚えています。後にロリポップ・ソニックの音源を聞く機会があったのですが、素晴らしさ驚きました。でもその時は既に遅しですね。

だんだん記憶の扉が開いてきたのですが当時はバンド・ブーム全盛、KUSUKUSU、カステラ、筋肉少女帯、電気グルーブ、ボガンボズとかもアプローチした記憶があります。
特に筋肉少女帯の大槻ケンヂさんとはかなり話し合った記憶があります。キャラクターは最高だけれど音楽的にどうプロデュースすれば良いのかビジョンが浮かばずのままま時間が過ぎ、他者と契約してしまいました。

ミッシェル・ガン・エレファントのライブを新宿のライブハウスで見て驚き、フライヤーに書いてあったチバさんの自宅の電話し留守電にメッセージを残したような記憶があります。その後にギターが脱退したという話を聞き「決まったらまた見に行こう」と思っていたら他者との契約が進んでいました。

クラムボンとの出会いは、当時育成していたスーパーバタードッグの永積くんが「後輩のバンドを一度見て欲しい」と言われ彼らがいつも練習している、演奏が出来るスナック?みたいな場所に行きました。可能性を感じた僕はデモをレコーディング。当時の僕は育成の専任で自分ではデビューをさせる事は出来ない立場だったんです。なかなか担当したいというディレクターが現れず、他社に行ってしまいました。

RADWIMPSも彼らのインディーズの音源を聞き、これはすごいと思い、関係者をたどって行ったらなんと東芝EMI現在も彼らを担当している渡辺君に行き着きました。そして彼から「僕がやるんで手を引いてください」的な事を言われたのを覚えています。でも結果を思えばそれで良かったと思います。

星野源さんともきっかけは思い出せないのですが、SAKEROCKで活動している頃、メイルでやり取りをする関係になりました。
知り合いの映画監督が「キャッチボール屋」という映画でサントラを担当してくれるミュージシャンが誰かいないかと相談されてSAKEROCKを推薦してサントラが実現しました。

2006年に大人計画フェスティバルというイベントがあり、そこで星野さんにお会いしたのですが、その時の「加茂さんに見られると思うと緊張しますね」と言われたのは、今となっては恐れ多いです。

その後渋谷B.Y.Gで主催したイベントにも弾き語りで出てもらったのですが50人がソールドアウトし「人気があるなぁ」と思ったのを覚えています。
その頃、僕は彼はてっきりSAKEROCKでインディーズで活動を続け、ソロを本気でやるとは思っていませんでした。ある日彼がソロ・デビューするという話を聞き、音源の素晴らしさに「ソロで歌いたいんなら早く言ってよ」と思ったのは言うまでもありません。

グループ魂もアプローチしました。大人計画の大ファンの僕は1995年の彼らの初ライブから見ていて、当時のレーベルから移籍を考えているという話を聞きアプローチしました。
他者に決まった時に宮藤官九郎さんから二股で契約出来るのであれば東芝EMIとも契約したいと連絡が来たのは嬉しかったです。

当時indigo la Endで活動していた川谷絵音さんも多分デモを送ってくれたのだと思いますが連絡を取り、下北沢にライブも見に行きました。当時は同系列のギター・バンドが多く、何か抜ける個性がないかと思っているうちに疎遠になってしまったのですが、後に僕が担当する田中茉裕ちゃんといSSWを気に入ってもらい、彼の主催するイベントに呼んでくれました。その時に僕の事を覚えていてくれて、これも嬉しかったです。

羊文学もデモを聞いて、彼女たちがリハーサルをしているスタジオに行きました。メンバーは高校3年生で制服でした。「これから受験なので」というような話になり、一段落ついた頃にまた連絡しようと思っていたら疎遠になってしまいました。

Da-iCE の工藤大輝さんにお会いした時に「加茂さんにデモを送った事があるんです」と言われました。「なんか失礼な感想を送ってませんでしたか?」と聞いたら微妙な顔ではぐらかされました。本当にすいません。この場を借りて改めてお詫びします。

他にも、MOMDO GROSSO、大森靖子、きのこ帝国、ヒグチアイ、椿屋四重奏、yonigeも可能性を感じてコンタクト取ったのですが、理由はいろいろなのですが話が先には進まなかったです。
本当にみなさん懺悔したいと思います

ですが今もミュージシャンを目指すアマチュアの音源はいつもで大歓迎なのでSNSでDMで送ってください。聞かせてもらいます。





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