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色のない世界

灰色だ。世界が灰色に見える。モリッシーはそういう風に言っていた。「毎日が日曜日みたいで、毎日が沈黙していて灰色なんだ」と。灰色、たしかにそういう風にも思える。でもぼくには色そのものがなくなっていっている感じがする。全部工場の単純作業みたいになっていく、最近ではずっと好きだった読書ですら色がなくなって、そういう作業になった。こうやってぼくの世界から色が消えていく。最後には何も見えなくなってしまうのだろうか。

世の中は大晦日だってことで、友達と飲みに行ったり、寺に行ったり、テレビで特別番組をみたりして普段と違うっていう雰囲気をだそうとしている。昔はぼくもそういう雰囲気の「色」を感じ取ることができていて、夜遅くまで起きていていいことにワクワクしていた。あぁ、このワクワクっていう感情はもう全くない。中学を卒業して受験して高校に上がるくらいの頃に鬱になって、(診断を受けたのは大学を浪人してからだったけど今のこの感じはこのころから始まったものだ)そのあたりから僕の世界から、割れた砂時計から砂が零れ落ちるみたいに、色が消えていった。

ぼくには「毎日が全く同じような日で、毎日が色のない世界なんだ」っていう感じがする。その色はずっと減り続けている。楽しかったSF小説は読まなくなったし、ゲームもしなくなったし、アニメもほとんど見なくなった。昔は、これらを見たりやったりしているときはいろんな色が見えていたように思う。前は憂鬱な時は泣いていたけど、今では涙も出なくなった。涙は色のない色だ。その色すらもぼくから、ぼくの世界から無くなったんだ。

色、こんな陳腐な比喩で書いたぼくの世界は当然言語で語り得るようなことじゃない。言語で語り得るのは世界の事実、そして起こり得る事態だけだ。幸福な人と不幸な人の世界は全く異なっている。世界の中で起こる事実じゃなくて、世界全体が、世界そのものが別になっていることは言葉では伝えきれるようなことじゃない。だから、この文章を理解する人は僕と同じような境遇にある人だけだろう。コウモリであるということがどのようなことであるかなんてことはぼくにはわからないのだから。

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