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我慢とがんばりを取り違えていた

ここ数日「こんなにがんばったのに何もない」「これ以上がんばれない」って気持ちに支配されていた。

引きこもりから10年がんばって、この会社での最高評価を取っても何もなかった。満足も何も。
これだけがんばったのに。なんでオレがこんな思いをしなきゃいけないんだ。そんな思い。

おかしいと感じながらも、人に当たったりわめいたりした。しなくてはおさまらなかった。

一度全部吐き出したあと、がんばりではなく「我慢」だったんだなと気づいた。この10年力を注いできたことが。

がんばりと我慢は重なる部分がある。自分がしたい行動を制限し、未来のために負荷をかける行為。

そこは同じ。しかし我慢の場合は「させられている」という要素が強くなる。我慢を強いられている、という言い方は一般的だろう。

誰かや何かによって不当に我慢を強いられている。だからこそ大きな見返りを求める。そしてその価値に達しなかったら「何もなかった」と切り捨てる。そんな思考回路だった。

がんばりはもう少し能動的だ。目的のために制限するだけでなく、主体的に行動もする。自分で動いている意識があるから、目的を達成しなくても過程で手に入れたものを評価できる。

そこまではっきりと分けることはできないだろうが、要は僕にとって「不当に我慢を強いられてきた」という意識が強かったということ。それがわかっていろいろなことがつながった。

「こんなにがんばったのに」「これ以上がんばれない」は、「こんなに我慢してきたのに」「これ以上我慢はできない」ということだった。これが僕の本音だ。
不当に扱われたという意識があるから、おかしいと感じてても人に言わずにいられなかった。

そして、言う相手がいること自体がこの10年で得たことだった。
そうなんだよね「何もなかった」なんてないのに。4年前に知り合った友達に愚痴を言いながらずっと何か変だと感じていた。ほんとごめんなさい。

誰かによって我慢を強いられてきたから、誰もが羨む理想を手にしなくてはいけない。仕事も趣味も恋人も。そんな理想に縛られて、そこから外れるものは無価値としていた。

最近仕事で高評価を得たけど、満足感がなかったことで「がんばったのに何もなかった」という考えが吹き出してきたのだろう。進んだからこその痛みだ。

我慢とがんばりは似ている。力の範囲を制限することで、より強いエネルギーを一点に集中することができる。それが壁に穴に開ける威力となった。やりたいことも言いたいことも我慢して仕事をしてきた結果だ。どういう意識だろうが得たものはある。

思い返すと引きこもりから脱するために「とにかく仕事で認められる」ことを目標とした。あのときはそれが必要だった。

そして引きこもりを誰かや何かのせいにしていた。だから我慢しているという意識がずっとあったのだと思う。
あのときはそれが必要だった。家から外に出るために、何かをガソリンにしなくてはやってられなかった。

こんなことに気づくまで10年もかかったのかよ。書いていてイライラしてきた。もうそれでいい。我慢することはない。結束バンドが外れたんだ、感情も拡散する。そのすべてにOKを出そう。

そう、OKを出すワークも役に立っている。そして話を聞いてくれる人達がいる。拡散する感情を出す先はたくさんある。本当にありがとう。このnoteを読んでくれている人も。

しばらく落ち着かないんだろうなあ。でも今は安心して情緒不安定になることができる。一つの場所に全部の感情をぶつけなくていいから。
この感情たちがどこに着地するかわからないけど、我慢するよりもずっといい。徐々に頭と心を一致させていこう。

我慢もがんばりも良い悪いではなく、ブレンド具合が重要だと思う。それは後で考えるとして、今はブラックで味わっていきたい。

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