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みらいの校則についてすごくよく考えてみた。

新しい時代の学校のみらいの校則として相応しいことはただ一つ「がんばりを認めよう」であると私は考えている。

どうしてそう考えるに至ったか、経験をもとに書いていきたい。


私は苦手なことが多かった。運動すること、絵を描くこと、物を作ること、字を書くことなどが不得意といえるレベルを超えてできなかった。

苦手なことについて努力をしなかったわけではない。一生懸命に逆上がりの練習をしてもやはりできないのではあるが、体育教師からは「やる気がないからできない」と否定された。

たぶん逆上がりをしたいという気持ちはクラスの誰よりも強かったと思う。

なぜならできないから。

できないのは恥ずかしいので頑張る。
でもできない。
できない人は誰よりもできないことに劣等感を感じているので、できるように努力するものである。

やる気は十分ある。

それなのに「やる気がない」と言われるのは悲しかった。
ただ子どもの頃は先生に反抗するなんてとんでもなく、ただ下を向くだけであった。

図工の時間についても同様で、描いた絵や作った作品も教師から嘲笑されることが多く悔しい思いをたくさんした。

できないことについて劣等感や諦念が強くなっていき「どうせやっても無駄」という気持ちが培われてしまった。
私の人格の根底には「努力しても無駄」というものがあり、大人になった今、それは違うと理性では分かっているがなかなか抜けないのである。

それは学校生活で醸造された根深いものなので、大人になっても「努力しても無駄」という思想は完全に払拭することができていない。

その一方で私が得意なことについては全くもって努力せずにできて、それを賞賛された。
かなり適当にやったとしても得意なことはできるので、表面上は頑張ったように見えるのだろう。

ここに「努力すること」と「できること」のねじれが生じる。
「努力してできなかった」ことは嘲笑われて、「適当にやったけどできたこと」は賞賛されるという経験が増えれば、「努力しても無駄」という思想が育ってしまうのは自明だろう。

確かに学校はできないことをできるようにしていく場であるので、できた結果が評価されるのは分かっている。

しかし教育とはできないことをできるようにすること以上に、健全な人間形成がされる場であるべきだ。

それを示すようように、数年前から文部科学省は日本の子どもの自己肯定感が低いことに危機感抱いている。
例えば以下のような資料を作成して現状分析をしている。

このように文部科学省も日本の子どもの自己肯定感が低いという、人間形成に関する問題を大きく受け止めているのである。

私のように「努力しても無駄」というのは自己肯定感の低さの表れであると思う。

そして自己肯定感の低さはがんばったことが評価されるのではなく、できたことのみ認められるということに起因しているように思う。

頑張ったことが評価されれば、何事も頑張ろうとする人間性が形成される。

逆に頑張ってもできない、そして否定されるという経験が増えれば、頑張らない人間が出来上がる。
心理学用語に学習性無力感という言葉があるが、まさにこれで「やってもやっても実らない」ことが多くなると人は頑張らなくなるのである。

そしてこの無力感は自己肯定感の低下につながり、私のように「頑張っても無駄」と考えてしまう人間になってしまう。


だから私は新しい時代の校則として「がんばりを認めよう」を挙げた。

そしてこの新しい校則は生徒が守るものではなく、教師がまず守るものという点が古い時代の校則とは最も異なる。

新しい校則とは子どもに押し付ける前に、教師が守って模範を示すものだと私は考えた。

生徒には厳しい校則を押し付けて、教師は平気で体罰をしたり、職員室でタバコを吸い酒を飲んだりするというような昭和時代の学校は変なのである。

まずは教師が「がんばりを認める」ということをする。これは生徒をよく見ていなければ難しい。

できていなくても努力しているのか、できていないのは努力していないせいなのかを見極めるには生徒を理解する確かな目が必要だからである。

従来通りできてきたことのみを評価するのは結果だけを見ればいいので簡単であるが、「できていなくても努力していること」はその生徒の全てを知っていなくてはできない。

しかし難しくても、教師がそれを見極めることが正しいという規範を示すことではじめて生徒の中に「がんばりを認めよう」という価値観が出来上がるのである。

新しい校則はまずは教師が守ることから始まる。生徒には厳しく髪型や服装を規定しておきながら、教師はヨレヨレのスーツの上にジャージを羽織り、足元はスリッパというようなだらしないダサい格好でいるというような時代はとっくに終わった。

まずは教師が正しい姿を見せて、それを生徒が自然に真似して自己肯定感が高くなるような人間に育つようなシステムを構築することが新しい校則に求められていると私は考える。

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みらいの校則

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