見出し画像

言葉にしなくても良いじゃないの

私は話すのが好きだったり考察したりするのが好きだけれど
本来は言葉にしなくてもいいじゃないのと思っている人間である。

正確には、言葉にしたほうが絶対に良いのだけれど、なにかもったいないな、と感じてしまう。


例えば絵を見たとき、歌を聞いたとき、映画を観たとき、絶景に訪れたとき。
とても感動した、とても感銘を受けた。


いやーよかったね、最高だったね、また見たいね、聞きたいね、来たいね、となった時ふと思う事がある。


それらのどこがこんなにも胸を打ったのだろうと。


この絵のどこが素晴らしかったのか、
この歌のなにが心地よかったのか、
この映画のどこが良くて泣いたのか、
この景色はなにが美しいとさせているのか。


良いと思った瞬間部分を、どこが良かったかを言葉にできる人。

この力はとても良い力だと思う。分析をするということなんだろう。

何かもの作りをしている人がキャッチをする事が出来るのは、
そこを分析し、要素を見つけていくからだと思う。

正直にそれは本当に考えるべきことだし、絶対に良いことだと思う。

私自身これには大賛成だし、実際にやっているからこそ
なにかもったいない。


私がこれを行っているときの感覚としては、例えをめちゃくちゃメルヘンにするならばレインボーのふわふわのわたがしを思い浮かべてほしい。


何かに感動した時の私の心の中は、まさにレインボーふわふわわたがしである。


明確な輪郭は無く、風が吹けば左右に揺れる。
そんなふわふわな心の浮かれ具合。


しかし分析するときは、そのふわふわなわたがしを
包丁でズドンズドンと切っていき、袋詰めしてる感覚に近い。


かつてのわたがしが小分けの袋に分かれていく。
そうすることで持ち運びやすく、レインボーだったものが色分けされ、なにで構成されていたかも見分けがつくのだけれど。


そこにかつての輪郭の無かった、風に揺れていたわたがしの面影はなくなっているような気がする。


なにかわからないけれど虹色に混ざり合って美しかった、
あの雄大さを損なっていくような気がして、この行為がなんだかもったいない。


そう思いながらも、私は小説を書くため、
レインボーなわたがしにズドンズドンとこれからも包丁を刺していかなければならない人生なのだなぁ、と思いましたとさ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?