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骨朽ちるまで 後

翌日、私は機械的に春人君の家へと向かった。
「灯里ちゃん、いらっしゃい」
いつも通り、お母さんが迎えてくれる。
笑顔を作ってくれているのを、ひどく痛く感じた。
お母さんの目元には暗くくまが出来ていて、きっとなかったはずのしわが増えている。
どれだけ眠れていないのかがわかってしまう。
「そのまんまにしてあるから。灯里ちゃんなら、きっと春人も許してくれるかなって。私はなんだか、まだ部屋に入れないのよ」
「お邪魔します」
良い人だった春人君。彼の事を私はたくさん知っている。
甘いものが苦手で、ケーキを食べる時は珈琲が必要な事だったり、
映画が好きで考察をするのが好きだったり、寝癖は決まって左の後頭部にしか出来ないことだったり。
たくさんたくさん知っている彼の、知らなかった部分を見つけに、私は彼の部屋に来た。
最後に来たのはたった一週間前だ。彼の部屋で映画を観る事になり、一緒に見たDVDが机の上に置きっぱなしになっていた。
「外に借りに行くのが良いんだよ。観るのが楽じゃないから、観るのに気合を入れられるんだ」
そう言って週末に良く一緒に借りに行っていた。
その日に見たのは、邦画のミステリーだった。殺人を犯した犯人が自首をするシーンが印象的だった。
「自首をする事件が、僕は一番悲しいよ」
「それは、どうして?」
「自首をするって、自分のした事に気づき悔やむって事だと思う。まぁ、逃げられないと諦めてする人間もいるけどね。自首をせずに永遠に逃げ回っているやつは終わってるよ。けれどそうして悔やむ、こんな言い方をしてはいけないんだろうけれど、悔やむ心を持っている人間は、本当にその一瞬の衝動を超えられたら、違った未来があった人達な気がしてさ」
「…」
「その一瞬を超えらる何かが彼らに起きていたらって考えると、とても悲しいんだ」
「それは、犯人の事を思って悲しんでいるの?」
「そうだね―――そう。僕は犯人の事についてのほうが、想いを巡らせる事が多いかもしれない」
超えられたかも知れないほんの一瞬。
犯罪ではなく自殺だけれど、春人君はそれを迎えたのだろうか。
一息ついて、部屋の中を見渡してみる。
片付けられていないけれど、汚いとかではなく、彼なりのルールがこだわりだと言っていた。
壁には好きな映画のポスター。本棚には幾つもの図鑑、文庫本、洋書や漫画。
目を閉じ息を吸うと、彼の匂いがした。
あぁ、懐かしいと言えない程に、本当に一週間前のまんまだ。
布団の下に彼はいつもノートを隠していた。
 私はその事に気が付いていたけれど、彼が私が話さない部分に触れなかったように、私もそうであるべきだと見せてもらおうとはしなかった。
わかっていた。
このノートに、彼が書いていた小説があるのだと。
もう、良いかな。見ても良いかな。
ここに私の知らなかった春人君がいる気がして、手を伸ばした。
端の折れた、表紙が所々擦れている。
ページを開いた。
タイトルと、その下に続く文章。
その次のページにも、タイトルと、文章。
どれも一ページにも満たずに、次の話を書いている。
端に添えられた設定を見ると、どれも不遇な主人公が陽の目を浴びるまでの話を書きたいのだとわかる。
文章には言葉遣いや表現、彼の声や、区切り方で頭の中で再生できる程に彼を感じる。
けれども、書きかけては辞め、完結しているものは一つもなかった。
「…あ」
ページを捲る手を止める、たった一つの言葉が焼き付いた。
『灯里』
目を逸らした。動悸がして、怖くなった。
一呼吸をして、目を閉じた。
私は、きっとこれを見るために今日此処へ来たのだろう。
見落とさないよう、見逃さないよう、溢さないように読み始めた。

『僕には世界が大きすぎて、悲しすぎてたまらない。偉い大人達は全てを知っているかの様にテレビで話す。一つを手に入れるために零れ落ちていく物に見向きもしない。人にやさしく。毎日の様に夜散歩をする。ぐるぐると。一人でいると世界は広く、朝になり学校へ着くと途端に狭い。皆をまとめ上げるのは難しい。僕もみんなと休み時間はふざけたいのに、注意をしなくてはならない、気まずくなる。裏であの子の事が嫌いだと言っていた奴は、次の日には仲良いフリして登下校。努力が足りないと言う。成功者はみなやれば出来るという。やっていないだけ。努力や才能なんて関係ないほどに、只その場に生まれただけで決められてしまう事が幾つもある。それを知らない幸せな人。僕に何が出来る。このぬるま湯から何が言える』
『線が見える。僕らはみな横並び。よどんだ世界で、苦しみを感じ合える、寄り添い合える。皆が向こう側へわたりたい。抜け出したい。ここにいるみんなに届くものを作りたい。けれど向こう側へ渡ってしまったら、もう僕はあちら側の住人になってしまう。その瞬間に、今ここにいる皆の事を真にわかりあえる事はなくなる。抜け出したいのに、抜けだせば、本当に大事な人達とは違ってしまう』
『どうしたらみんな優しくなれるのかな。でもみんなに優しくしなくちゃいけないのかな。その人にはその人の正義というけど、でも本当に間違っている事もある気がする。人を殺したりとかは、どんな理由でもしちゃいけないって思う。思うけど、わかる。わかる事がある。そうしなくちゃだめなんだって事。どちらの事も気にかかって、どちらの事も救えない。不遇な家庭環境、幼少時代の虐め、極度な孤独。どれでもない。どれでもないんだ自分は。どちらの事も思っている気がしていて、どちらの為にもなれない僕は』
『もう、どう生きればいいかわからない』


『灯里と付き合ってから、眼が良くなった様な感覚がある。なんだか空は明るくて、風は気持ちが良くて、食べ物はおいしい。灯里は今日怒っていた。栞ちゃんが約束をどたきゃんしたのだと言っていた。申し訳ないけれど、怒っている時の灯里は面白い。眉毛がつんとして、あぁ、怒っているなってまっすぐわかる。灯里とプリクラを撮った。僕は正直写真が苦手だし、人混みが苦手だ。無理やりにいいでしょ、と連れ出されてしまった。レンズに向けてポーズを取ることが出来なかった。出来上がった写真の僕はぎこちなくて、灯里に落書きされて。でもすごく笑ってくれた事につられて笑ってしまった。えくぼに指を刺された。最近はまっているらしい。タイタニックを初めて見たらしい。大号泣していた。これが本当にあったんだ、って自分を重ねていた。本当に、表情が豊かな人だと思った。僕が怖がっていた世界は、灯里といれば、怖くなかった』
『灯里といれば、視界が晴れやかで、僕も人間らしくいられる気がする。好きになって良かった』


文章はこれで締められていた。
手紙とも言えない日記とも言えない、春人君の言葉と感情の記録。
溢れて、溢れる、涙が止まらない。
文字は滲んでもう読むことが出来ない。
わかってた。彼が人一倍繊細だった事。
彼との会話は私が考えることも感じた事もない数々で、こんな人出会った事が無いと嬉しくて。
けれど私が彼の好きな所は、彼の脆かった所だったのだ。
あの日遺骨を写真に撮ったのは、春人君の死を静止させたかったのかもしれない。
死んだ事実が、実感として進んでいかない様に。
彼の精神を感じられない物質となった骨に、生きていた彼を閉じ込めたのか。
悲しみに蓋をして涙にした栓が、解けていく。
あぁ。
あぁ。
やだなぁ。
ノートを抱えてうずくまり、陽が暮れるまで、私は泣いた。 



「もういいの?」
「はい、ありがとうございました」
「ううん。私もようやく、春人の部屋を整理できるわ。灯里ちゃんがまず部屋に入るべきだろうなって、なんとなく思っちゃったのよ」
「私も…来てよかった。あの」
「ん」
「春人君の骨を、一つ貰えませんか」
「…灯里ちゃんあの時」
「写真に残した時。春人君の死が実感に変わっていくのを私は咄嗟に止めたかったんだと思います。写真にすれば、もうそれは変わっていく事は無いから。止めた一瞬に永遠に生きられるのかなって」
「…」
「でも私はそれじゃあ駄目なんです、きっと。あの人が私の好きだったところは、楽しんで苦しんで、なんだかんだ進んでいく私だから。その骨が脆くなって、朽ちていくのと一緒になら、私も春人君の死を進めていける気がするんです」

雲一つない暗い夜空。
漏れて聞こえてくる家族の会話。この街ですら知らない人間が、知らない時間を過ごして生きている。
そんな考えなかったような事を考える。
春人君と私は確かに付き合っていた。
好きになって良かったと書いてあった。
私もさ、きっと春人君が想像もつかない程、あなたの事が好きでよかったよ。
大好きだった。
傍から見れば平凡な、私たちにとっては世界のすべて。
そんな世界は幾層にも重なっている。
―――きっと、ほんの一瞬だったんだ。
彼の骨を触りながら家まで歩く。
硬く、軽く、触れる程に彼の死を感じる。
気を緩めれば、視界はすぐに滲んで、空を見た。
春人君はこの空を何色に例えただろか。
生きねば。
生きなくちゃ。
せめてこの骨が朽ちるまで

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