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【第2部31章】落ちてくる、この空の下で (5/24)【内念】

【目次】

【再粘】

「誰もいない……いや、そうでもないか……」

 不気味な内的世界<インナーパラダイム>をまえにして、アサイラはつぶやく。記憶にあるかぎりでは、己の精神の最奥を以前に訪れたとき、一度はリーリスのナビゲートがあり、もう一度は出自不明の老師の出迎えがあった。

「……かえせ」

 割れた空の下、血肉の融けた海から、黒髪の青年は消え入るように虚ろな声を聞き止める。

「……かえせ……かえせ、かえせ」

 音源は、ひとつではない。アサイラを包囲するように、360°から苦しげなうめきが響く。赤黒い水面に、ぽつぽつよ水泡が沸きはじめる。

「かえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせ」

 地を満たす膿汁のなかから、無数の影が浮かびあがってくる。シルエットこそ人型だが、その姿は声音同様に虚ろでおぼろで、顔かたちや出で立ちすら不明瞭で、判別しがたい。

 黒髪の青年は、コンクリートの建物のうえで身構える。周囲の人影たちは、かえせかえせ、と意味不明なことをわめき続けている。

「まるで、カエルの大合唱か……言いたいことがあるなら、はっきりと順序立てて言ってみたらどうだ?」

 ぴしゃり、とアサイラが言葉を放つ。虚ろな影たちが、一斉に黙りこむ。人型の1体が、無数の同類たちを代表するように、黒髪の青年のまえへ歩みでる。

「われわれを、かえせ……おまえが、このまましねば、かえることが、できない……」

「……俺だって、死にたくて死にかけているわけじゃあ、ない。外でなにをしていたか、見ていたんだろう。そんなことも、わからないのか?」

 アサイラの言葉を理解したのか、していないのか、正面の影は前進して、コンクリートの足場のうえに登る。どこか苛立つように、全身を震わせている。

「おまえが、ちから、およばない……かえれない、というのなら……われわれが、このからだを、つかう……!」

「黙れ」

 おぼろげな影が腕を伸ばそうとした瞬間、黒髪の青年は、短く鋭い声音で一喝する。眼前の人型が、動きを止める。包囲する亡霊たちが、明確な敵意を放ち、一触即発の空気が満ちる。

 アサイラは、直視しようとすると頭痛を覚える、脳の中にこびりついた妄執的な思念を、あえて直視する。己の故郷、『蒼い星』への帰還という、当然のように思っていた自分の行動原理を、あらためて内省する。

「なるほど……そういうことか」

 黒髪の青年は深く息を吐きつつ、つぶやく。自傷したかのように、横隔膜がにぶく痛む。それでも、これは自分が直視せねばならない傷跡だと理解する。

「いままで俺は、『蒼い星』へ帰らにゃあならない、と自分で思いこんで疑わなかったが……違うな? 俺の内側に潜りこんでいた、おまえらが、かえせかえせ、と大合唱していたわけか」

 アサイラは鋭い頭痛を覚えると同時に、思考がクリアになる感覚を味わう。脳をおおっていた、余計な膜がはがれたような気分だ。

 眼前の人型の目も鼻も口もない顔を、黒髪の青年は双眸に明確な意志の光を宿して、にらみつける。眼前の影は気圧されて、一歩、退きそうになるも、踏みとどまる。

「そうだ。われわれが、かえるために……ただ、それだけ、のために……おまえは、そんざい、している……ッ!」

「黙れ、と言っているのが聞こえないのか──ッ!」

 ふたたび、アサイラの怒気のこもった声が、コンクリート建造物の屋上のうえに響きわたる。虚ろなる影たちの包囲網が、わずかに後退する。

「なにをするか、何者であるか……それは、自分で考えて、自分で決める。誰だって、そうだ。俺だって、そうする」

「かぁぁえぇぇせぇぇ──ッ!」

「──ウラアッ!」

 背後から、亡霊のひとりが飛びかかってくる。黒髪の青年は振りかえることもなく、相手の襟首をつかむと、投げ飛ばす。眼前の人型に衝突し、ふたりぶんの影がコンクリートの屋上に転がる。

 アサイラは、一瞬だけ、己の右腕に視線を落とす。グラー帝の圧倒的膂力によってミンチにされた利き手は、まだ内的世界<インナーパラダイム>では健在だ。

 一方、黒髪の青年の鋭い体さばきを見た周囲の亡霊たちは、屈服させるための実力行使が難しいことを理解して、ざわつきはじめる。

 悪辣な、しかし、どこか哀れな虚ろなる影たちを見て、ふと、アサイラは『伯爵』が持っていた『世界寿の種』のことを思い出す。仮死状態に陥った次元世界<パラダイム>が、いずれ復活する日のために排出した脱出カプセル。

「なるほど、そういうことか……あれが種なら、さしずめ俺は、『蒼い星』の卵といったところか」

 かつて故郷への帰還の道を聞き出すため、旧セフィロト社の社長と対峙したとき、あの老骨は「『蒼い星』は滅びた」と言っていた。

『伯爵』の言葉とあわせて考えれば、アサイラ自身が、『蒼い星』という次元世界<パラダイム>の滅亡に瀕して創り出された脱出カプセルということになる。少なくとも、つじつまはあう。

「おまえたちの言う「かえせ」は……「帰せ」であると同時に、『蒼い星』を「返せ」であり、自分たちを「孵せ」……といったところか?」

 黒髪の青年は、包囲網を敷く亡霊たちを一瞥しつつ、つぶやく。虚ろな影たちは、憐れみを誘うように、すすり泣くように、肩を震わせている。

「いいだろう……俺は、『蒼い星』へ帰る。俺がたどりつけば、滅んだ『蒼い星』も、よみがえるんだろう?」

 アサイラは、にやりと笑い、明確に宣言する。誰に言われたからではない、自分自身の意志だ。人型たちが、一斉に動きを止め、黒髪の青年のほうを向く。

「……だから、おまえたちは俺に力を貸せ。無事に『蒼い星』へ、たどり着けるように。『蒼い星』を、復活できるように」

「おお! おお!!」

「もちろんだ……もちろんだ!」

「かえろう、かえろう……ともに、かえろう!!」

 虚ろなる影たちは、口々に歓喜のうめき声をこぼす。赤黒い水面にひざを突き、アサイラに対して頭を垂れる。

 内的世界<インナーパラダイム>の主である黒髪の青年は、力強く2本の足で立ち、割れた空の向こうにのぞく星々を見据えた。

【下降】

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