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【第2部31章】落ちてくる、この空の下で (1/24)【摩天】

【目次】

【第30章】

「──雨が、止んだか」

 アサイラは、ぼそりとつぶやく。次元巡航艦『シルバーブレイン』の上部甲板前方、ほぼ艦首の上方で、座禅を組むように座っていた黒髪の青年は、閉じていたまぶたをゆっくりと開く。

 船体を包みこむ不可視の力場、スピリタム・フィールドによって、アサイラの身体はスコールのごとき激しい雨粒から守られ、濡れてはいない。

 空をおおっていた黒雲が、現れたときと同じく見る間に晴れていく。陽光が射しこみ、雨上がりの独特の匂いが立ちのぼる。

『たたっよたったたた。アサイラお兄ちゃん、本艦は『塔』を射程距離に捉えたということね!』

「……そうか」

 耳にはめこんだ導子通信機から、『シルバーブレイン』の艦長代理を務めるララの、何時とも変わらない快活な声が聞こえてくる。

 黒髪の青年は、ゆっくりと立ちあがる。右手のひらをひさし代わりにして、逆光となっている前方を見やる。船長席に背を預ける少女の言ったとおりだ。

 先刻まで豪雨のカーテンにおおわれていた最終目的地点、グラトニアの最重要拠点である『塔』は、いまや、天を突く威容を己の目ではっきりと確かめることができる。

 雨上がりの澄んだ空気のなか、陽光に照らされし出された超巨大建造物は、神々しいような、おどろおどろしいような、奇妙きわまりない形容しがたい姿をしていた。

「ふうぅぅ……」

 アサイラは、へその下に力を入れて、意識して深く息を吐き出す。頭上では、細切れになった雲が『塔』の天頂を中心にして、大きく左向きに渦を巻いている。

 まるで空そのものが落ちてくるような途方もない重圧は、眼前の巨大建築物の放つプレッシャーと一体化しているような感覚を覚える。

 無数の次元世界<パラダイム>を股にかけて旅をしてきた黒髪の青年にも、初めて経験するような現象が、いままさにこの地で起きている。

(リーリス。そちらは、どうか? いま、どこにいる?)

(いま、『塔』内。電源が落ちちゃってエレベーターが使えないから、全力で階段を登っているところだわ! どうにか屋上までたどりついて、アサイラを援護するから……!!)

(了解。それまでは、どうにか持ちこたえてみるか……)

 黒髪の青年は、言葉を出さずに胸中で会話をする。通信相手は、精神のリンクを形成した長き旅の協力者であり、『淫魔』の異名を持つ女、リーリスだ。

『あぁー! フロルくん、なんで医療室から勝手に出てきているの!? 主治医の見地としては、絶対安静の容態ということねッ!!』

 アサイラとリーリスの念話は、導子通信機から響くララの悲鳴で打ち消される。

『ぐ、つぅ……たとえ、戦えなくても、グラー帝の行く末を……僕は、見届ける義務が、あるんだよ……』

 艦長代理の少女と言葉を交わす、少年の声が聞こえる。『塔』へ向かう途中に収容した、ふたりの負傷者の片方。たしか、名前はフロル・デフレフと言ったか。

『もう! ララは、これからアサイラお兄ちゃんのナビゲートに専念しなくちゃいけないのに……というか、鎮静剤を打ったのに起きているということは……あのお姫さま用に処方した活性アンプル、勝手に自分で接種しちゃったということね!? ああ、信じられない!!』

 ひとしきりわめき散らした艦長代理の少女は、息を継ぐと、甲板上のアサイラに対して話しはじめる。

『えーっと。アサイラお兄ちゃん……周囲の導子圧が異常に高すぎて、センサーがまともに機能していないんだけど……光学カメラの映像では、『塔』の屋上に人影あり! グラー帝で間違いないということね。フロルくんも、そう言って……ああ、もう、とりあえずオペレーター席に座って、じっとしてて!!』

 戦闘が始まれば不利となる逆光の位置を避けるように、『シルバーブレイン』は右方向へ旋回しつつ、『塔』へと慎重に接近していく。

 艦首が西陽から逃れて、黒髪の青年も超巨大建造物の屋上に立つ人影を視認する。

 頭髪は、日光を反射してアメジストのようま輝きを放つスパイキーヘア。たくましく引き締まった上半身は諸肌をさらし、精緻な金糸の刺繍が施された赤い布……トーガのみを巻きつけている。

 向こうも、こちらを認識していることが、視線でわかる。紫色の眼光が、はっきりとアサイラをにらみつけている。

「こいつが……グラー帝、か」

「いかにも」

 誰に言うでもない黒髪の青年の小さなつぶやきに、『塔』のうえで仁王立ちする偉丈夫が、はっきりと響く声で応答する。

 グラトニアの専制君主の敵意が、アサイラへと向けられる。次元世界<パラダイム>の天蓋へ届かんばかりの巨大建造物そのものが、まるでグラー帝となったようなプレッシャーが青年の肩にのしかかる。

 だが、それでもアサイラは、動じることも、臆することもない。いままでも、無茶なら、いくつも重ねてきた。難題なら、いくつも乗り越えてきた。明確な意志の光を宿した双眸で、黒髪の青年は専制君主をにらみ返す。

「ふむ……」

『塔』のうえに立つ偉丈夫が、なにか解せぬ、といった様子で小首をかしげる。アサイラは、艦首のうえで徒手空拳をかまえる。

「余をまえにして、汝の言動……一言以ておおうのならば、奇妙であり、不敬であり……また、無知である」

 完全に戦闘態勢となった黒髪の青年を歯牙にかける様子もなく、グラー帝は大股で足を踏み出す。アサイラへ近づくように屋上を横断し、『塔』の縁へと到達し、歩幅をゆるめることなく、なお前へ進む。

「グヌ……ッ!?」

 黒髪の青年は構えを維持したまま、己の目を疑う。ブリッジで同様の光景を見ているはずのララの、ごくり、と息を呑む音が通信機越しに聞こえてくる。

 諸肌にトーガをまとった偉丈夫が、空中を『歩』いている。そこに舗装された道でもあるかのような何気ない足取りで、なにもない宙を進んでくる。

「なんだ、これは……転移律<シフターズ・エフェクト>か!?」

『違う……こんな現象が起こるなんて! 魔法<マギア>でも、技術<テック>でも、もちろん転移律<シフターズ・エフェクト>でもなくて……グラー帝の構成導子量が、存在の『圧』が大きすぎて、重力を、世界法則を相殺しちゃっているということね……ッ!!』

 ブリッジのララが悲鳴じみて声をあげる。アサイラは、左右の拳の握力を強め、腰を落とす。いつでも動けるよう、五感を研ぎ澄ます。額を、冷や汗が伝う。

「然り」

 導子通信の内容を聞き取ったかのように、偉丈夫は短く言葉を発する。黒髪の青年へと、次元巡航艦へと迫る虚空の歩が、少しずつ速まっていく。

「余は、グラトニアの頂点に君臨する皇帝。世界の規律のほうから、主に頭を垂れるのは……一言以ておおうのならば、真理である」

 威風堂々とした声音で、グラー帝は言ってのける。なにが眼前にあろうと、なかろうと、かまうことはないといった様子で、グラトニアの専制君主は迫ってきた。

【皇帝】

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