【第■章】仙郷は此処にあり (1/3)【仙郷】
──ピイィィ……ヒョロオオォォォ。
柔らかい日差しが降り注ぐ蒼い空から、悠々と天を舞う猛禽の鳴き声が響きわたる。周辺には、尖塔のごとき、細く高く直立する天然の奇岩がいくつもそびえる。
岩山の狭間には、薄絹のようなかすみが満ちて、自生する樹々の緑とあいまって、幽玄な景色を作り出している。
白い霧の底では、自然の石柱群のあいだを縫うように渓流が清水をたたえ、ときおり、背中を輝かせる小魚が水面を跳ね、雫をまき散らす。
仙郷という言葉が似合うような奇岩群、そのひとつ、いただきの平らになった場所に、一人の男があぐらをかいて腰を降ろしている。
皮ふの露出した頭頂、崩れかかった髻、あごのしたに長く白いひげをたくわえた老人だった。顔に刻まれたしわが、彼の歩んできた人生の長さを物語る。
「楚々、揚々」
白い小袖を身にまとった仙人のごとき老人は、穏やかな青空を見あげつつ、微笑み、小さくつぶやく。
その手には釣り竿が握られ、針につながる糸は、はるか下方の岩山の根本……渓流の水面まで伸びている。
老人の背、奇岩のいただきの中央には、熾のくすぶるたき火があった。
「……キキイ!」
いたずら好きの子供のような鳴き声をあげて、一匹のサルが、薪となりそうな小枝を抱えて岩山を登ってくる。誰に命じられることもなく、たき火のそばに枝を置く。
「うむ……」
老人は、サルに対して孫に向けるような笑顔を向ける。獣は、一瞬、背筋を正したように見える。
「キキイッ!」
サルは、満足したように一鳴きすると、奇岩を駆けおりていく。先客と入れ替わるように、小さな動く影が老人の視界のすみに見える。二匹のリスだ。
つがいか、兄弟のようなリスは、膨らんだ頬袋のなかからクルミを取り出し、老人のかたわらに並べていく。釣り人を見あげ、小首をかしげる。
「うむうむ」
老人は、リスに向かって礼を告げるように会釈する。二匹の小さな獣は、うれしそうにその場でくるくると走りまわる。
仙人のごとき風貌の翁は、穏やかな表情を顔にたたえて、なにを見えるでもなく視線を正面に向ける。
──ピイイィィィ……ッ!
突然、甲高い猛禽の鳴き声が、平穏を切り裂く。少し遅れて、樹々の枝に止まっていた小鳥たちが、一斉に跳び去っていく。
二匹のリスは、硬直したように背筋を伸ばし、耳を立てて様子をうかがう。
「……グヌギイィィアアァァァ!!」
次に響いてきたのは、およそ獣のものとも思えない奇怪な咆哮だった。周囲の空気が、びりびりと振動している。
動物というものの吠え声は、敵対者を威嚇するためか、同族とコミュニケーションするためのものだ。この咆哮は、そのどちらでもない。
「ギヌウゥゥアアァァァ……ッ!!」
ふたたび、怒声が響きわたる。先ほどよりも、近づいている。自然環境に生きる獣が持つことはない、激情と憎悪に満ちあふれている。
あるいは、耐えがたい苦悶に対するうめき声に似ているかもしれない。
二匹のリスは、逃げ隠れるように、岩の透き間のなかへと駆けこんでいく。しかし、老人に動じる様子はない。何事もなかったかのように、釣り竿をにぎり続ける。
「……グヌギイィィ」
やがて、奇岩の断崖を登り、咆哮の主が、老人の座るいただきに姿を現す。およそ動物には見えず、人の姿でもなければ、伝承に語られる幻獣とも似つかない。
四肢こそ人や獣と同じ数だが、まるで墨で塗りつぶしたかのように全身は黒く染まり、顔には口や鼻、耳といった体腔すら見あたらない。
生物らしい器官といえば、無機質に周囲の景色を映し出す蒼黒いふたつの眼球程度のものだ。無貌の怪物──そう形容するのが、ふさわしいような存在だった。
「これは珍客じゃて。いや、御身からすれば、不佞のほうが珍客か?」
老人は、漆黒の獣に背を向けたまま、独り言のようにつぶやく。
釣り人よりもひとまわりは大きい屈強な体格の獣は、常人であればその場で腰を抜かすような殺気と悪意をたぎらせながら、怪物はゆっくりと間合いを詰める。
「さて、御身……何者じゃて?」
「グヌギィイイァァアアア──ッ!!」
老人の誰何をかき消すように、漆黒の獣が咆哮する。怒声にまぎれるように、ひゅんひゅん、と風を切る音が響く。
無貌の怪物から伸びた体毛が、細く、長く、強靱なワイヤーのごとく宙を舞っている。漆黒の獣は、釣り人に対して、剛毛の鞭を振るう。
「……グヌ?」
影法師のような顔を、怪物はわずかにかしげる。老人の首を断ちきるような軌道で振るったはずの体毛ワイヤーだが、手応えはない。
漆黒の獣に背を向けたまま、釣り人は動じることもなく、竿を傾けている。無貌の怪物は、剛毛の鞭を引き寄せ、勢いをつけるように回転させる。
風切り音の響かせながら、黒い嵐のような螺旋が巻きおこる。
「グヌラアァァーッ!」
今度は縦方向、背骨を両断するように闇色のワイヤー鞭を振りおろす。ずどんっ、と岩が砕ける音が響く。さきほど同様、老人には命中していない。
老人が、なにかをした様子は微塵もない。にもかかわらず、自分の身に危害が及ぶことは決していない、と確信しているかのように釣りに興じ続けている。
「……ヌラアッ! グヌウラアッ!!」
怒気と苛立ちをみなぎらせ、無貌の怪物はやみくもに体毛の鞭を釣り人へと打ちつける。結果は、すべて同じだ。まるで霞を相手にしているかのように、命中しない。
「グヌギギギ……ッ!」
口のない顔から、歯ぎしりのごとき奇妙な音を立てつつ、蒼黒の双眸が眼前の翁をにらみつける。漆黒の獣は、どすどすと荒い足音を響かせ、駆けはじめる。
「血気盛んは、若者の特権じゃて……だが、なにごとも過ぎたるはいかん。鳥や獣がおびえておるぞ」
「グヌウゥアァァーッ!!」
意に介する様子もなく焚き火を踏みにじり、無貌の怪物は老人の至近距離まで詰め寄る。ハンマーのように拳をにぎりしめ、ふりあげる。
漆黒の獣の前腕が、釣り人の側頭部めがけて、叩きおろされる。ようやく、老人が身じろぎする。右腕を空に向けて、人差し指を立てる。
「グヌウ──ッ!?」
無貌の怪物が、目を見開く。釣り人の指先が、獣の手首に触れた瞬間、漆黒の体躯が重量を喪失したかのように空転する。
刹那、ずどん、と大きな音が岩山に響く。気がつけば、無貌の怪物は仰向けに倒れこみ。その鉄拳が老人の頭部に到達することはなかった。
→【老師】
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