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【第■章】仙郷は此処にあり (2/3)【老師】

【目次】

【仙郷】

「やれやれ。不佞が相手をしてやらねば、気がすまんようじゃて」

 老人は、静かな声音でつぶやく。転倒の衝撃で呆けていた漆黒の獣は、我に返ると、とっさに起きあがり、バネのように跳ねて間合いをとる。

「グヌウウゥゥゥ……」

「御身、そうおびえるな。不佞は見てのとおり、ただの無害な老体じゃて」

 うなり声のよう奇怪な音を立てる無貌の怪物に対して、ようやく釣り人は向き直りつつ、悠然と立ちあがる。

「んむ……不佞も、たまには身体を動かすのもよかろう。御身の憂さ晴らしにつきあおう、ということじゃて」

 真っ直ぐ背筋を伸ばした長い白ひげの老人は、右脚で一本立ちになると、右腕をまえに伸ばし、人差し指を突き出す。まるでフラミンゴのようなシルエットだ。

 高層ビルほどの高さはある岩山の下に針を垂らす釣り竿は、さながら曲芸師のように左手のひらのうえに乗せられたまま、不動のバランスを保っている。

「来い、けだもの」

「グヌゥラアァァーッ!!」

 老人が、挑発するように笑う。無貌の怪物は、弾かれるように動き出す。左右の拳を、眼前の釣り人に向かって連続してくり出す。

 白ひげの翁が人差し指の先端で、ちょんちょん、と漆黒の獣の手首をつつく。それだけで怪物は、ぐにゃり、と身をひねられたかのようにひるみ、動きを止める。

「どうした。御身の鬱憤は、この程度か?」

「グヌギギギ……ッ!」

 脚元がよろめき、転倒しそうになった無貌の怪物は、どうにかバランスを維持する。呼吸を整える間すら惜しむように、ふたたび老人に殴りかかる。

「そうそう。その意気じゃて」

「……グヌギアァァ!!」

 にい、と口角を歪ませた老人は、片手片足で漆黒の獣を待ち受ける。右の拳を突き出し、左腕を叩きつける。頭突きを繰り出し、転びそうになりながら蹴りを放つ。

 白ひげの翁は、無貌の怪物の連撃を人差し指一本で、悠々といなしていく。ほんのわずかな接触を受けるたび、漆黒の獣の体勢が崩れていく。

「グヌア──ッ!?」

 ついには体幹のねじれが限界に達し、無貌の怪物は足を滑らせるように転倒する。

 対する老人は呼吸のひとつも乱れる様子はなく、左手のひらのうえに直立する釣り竿は、ブレることなく不動の釣り合いを保っている。

 漆黒の獣は、獲物をまえにした猫のごとく瞬間的に立ちあがると、前傾姿勢で白ひげの翁をにらみつける。

「脅しのたぐいは、無用じゃて。示すなら、体術にてやってみろ」

「……グヌウラアアァァァ!!」

 ひときわ大きな咆哮をあげると、無貌の怪物は老人に向かって突貫していく。

 チョップ、ショルダータックル、ヘッドバット、ロー、ハイキック、怒濤の攻めが白ひげの翁に襲いかかる。

 漆黒の獣に相対する老人は、微塵も狼狽する様子はなく、人差し指一本のみで無数の打撃を軽々とさばいていく。

 無貌の怪物もまた、白ひげの翁の奇妙な体術に対して少しずつ、確実に適応を示していく。接触のたびに躯体に加わる螺旋状のベクトルに対して、踏みとどまる。

「グヌゥアッ!」

 コマのように回転する身体を逆に利用して、漆黒の獣は、老人の顔の側面に裏拳を叩きつけようとする。翁の指の腹が、怪物の前腕のうえにそっと置かれる。

「……ヌギイッ!?」

 まるで間接を極められたかのように体勢を崩し、漆黒の獣は前のめりに倒れこむ。老人は、粗雑な怪物を悠然と見おろす。

「まだまだ、じゃて」

「グヌウーッ!」

 悔しげにうめいたかと思うと、漆黒の獣は飽きることなく跳ね起き、白ひげの翁に四肢を叩きつけていく。老人は、相変わらず指一本で、それをいなす。

 摩天楼のごとき岩山の頂で、翁と獣の奇妙な組み手が続けられる。

 無貌の怪物は、相も変わらず老人に一撃すら与えられないが、転倒するまでの時間は立ちあがるごとに、目に見えて長くなっていく。

「……筋はよい」

 表情を変えることなく、白ひげの翁が小声でつぶやく。左手のひらのうえで直立する釣り竿は、相も変わらず天を突き、倒れるどころか、揺れることすらない。

「息子がいれば、このような心持ちであったか……?」

 漆黒の獣の拳をいなしながら、老人はゆっくりと語り始める。相手が聞いている気配は、ない。独り言だ。

「不佞には、一人娘がおった……魔術には天賦の才を持つ子であったが、身体は華奢でな。このような修行を課すことは、できなかったものじゃて」

 無貌の怪物は、体幹のねじれを利用して、大振りの右フックを放つ。老人は、指先で触れることで、拳の軌道をそらす。

「なかなかに……楽しい」

 白ひげの翁の顔に、柔和な微笑みが浮かぶ。漆黒の獣の体勢が、大きく崩れる。右肩の向こう、老人の死角から体毛鞭は振りおろされる。

「だが、小細工は無用じゃて」

 翁は、人差し指を立てる。老人の身に触れる直前、闇色のワイヤーが奇妙に波打つと、逆方向に回転して、持ち主であるはずの怪物の躯体にからみつく。

「……グヌギイッ!?」

 悲鳴のようなうめき声をあげて、漆黒の獣は岩山のうえに倒れこむ。老人は、背後をあおぎ、谷川の方向を見やる。

「……むっ」

 ぴくぴく、と釣り糸が引いている。釣り人が意識を向けると、竿は微動だにしないまま、糸のみが生きているかのように、螺旋を描きながら数百メートル巻きあがる。

 川魚の背が陽光を反射し、鮮やかにきらめく。老人が手を振ることなく、獲物は釣り針からはずれて、自ら岩山のうえに落下する。

「グヌウウゥゥゥ……ッ!!」

 自らの身体にからみついた剛毛ワイヤーを、無理矢理に引きちぎった漆黒の獣は、立ちあがると同時に、白ひげの翁に向かって突進する。

「意気軒昂、けっこう。しかして、己の限界を自覚することも肝要じゃて」

 老人の指先が、カウンターのごとく無貌の怪物の額を突く。漆黒の獣の肉体は、車輪ように空転すると、大の字に倒れこむ。

 疲れ果てたのか、無貌の怪物は荒く胸部を上下させつつも、起きあがる気配はない。老人は、霞の向こう側の谷川から、さらにもう一匹の魚を釣りあげた。

───────────────

「御身が焚き火を踏みにじってくれたおかげで、熾しなおすのに手間取った。夕餉の支度も、遅くなろうものじゃて」

 踏みつぶされて、一度は消えかかった熾火をふたたび燃えあがらせると、老人は一本、また一本と薪となる小枝をくべていく。

 太陽は地平線に三分の二ほど沈み、空は黄昏の色に染まっている。焚き火の明かりがなければ手元が見えない程度には、あたりを夜闇がおおっていた。

 勢いを取り戻した炎を挟んで、漆黒の獣が腰を降ろし、不思議そうな目つきで火の揺らめきを見つめている。

「獣であらば、そのまま喰らうのであろうがな。火を通してから食するのが、人というものじゃて」

 老人は、まだ日が高いうちに釣りあげた二匹の魚に、口から小枝を突き刺し、焚き火のそばに立ててあぶる。

 待つことしばし、川魚の表面がぶつぶつと音を立て始め、肉と脂の焦げる美味そうな匂いが漂ってくる。太陽は完全に身を隠し、上天には星が瞬き始める。

「……食べごろじゃて」

 満足げな表情を浮かべて、老人は、ふたつの焼き魚を焚き火のたもとから取りあげる。無貌の怪物は顔をあげて、白ひげの翁の所作を眺める

「ほれ、御身のぶんじゃて。そのなりで、ものは食えるか?」

 老人は、同席する相手に向かって、焼き魚の片方を投げる。焚き火を飛び越えるような放物線を描いて、それは獣の手のひらのうえに納まる。

 熱く焼かれた川魚の身が、無貌の怪物の体表を焦がす。髪をあぶられたような煙と臭いが立つも、漆黒の獣に苦痛を感じるような様子はない。

「いただきます」

 奇妙な相席者を気にする様子もなく、夕餉への感謝を律儀に口にすると、老人は焼き魚を背中側から食べ始める。

「グヌギイ……」

 無貌の怪物は、小さくうめくと、自らの口元をおおい隠す体表を無理矢理に引きはがす。夜闇の色の繊維の下から、口腔が現れる。

 眼前の翁の真似をするように、漆黒の獣は焼き魚を貪りはじめる。少しばかりのあいだ、老人と怪物は黙々と夕餉を咀嚼する。

「んむ、豊味。満足、感謝」

 身はもちろんのこと、目玉から内蔵まで、骨とヒレ以外をきれいに胃袋のなかに納めた老人は、自分のかたわらに転がっていたクルミをふたつ、拾いあげる。

「……どれ」

 右手のひらのなかで、白ひげの翁は堅果同士をぶつけあわせる。

──コオォォ……ン。

 木製の打楽器をたたいたような、澄んだ音が夜闇に沈む奇岩に響く。老人の手のうちで、時計回りの螺旋を描くように風が踊る。

 次の瞬間には、銘刀の刃でなぞったかのように、ふたつのクルミの殻は淀みひとつないきれいな断面で割れている。

 漆黒の獣は、その一部始終を蒼黒の瞳を見開いて、興味深げに凝視している。老人は、怪物の視線を気にとめる様子もなく、堅果の中身を美味そうにつまむ。

「……御身も、やってみるか?」

 クルミの内側を半分ほど食べたところで、いまさらのように老人が顔をあげる。前屈みになっている怪物に対して、焚き火の炎越しに堅果をふたつ、投げて渡す。

 漆黒の獣は、ひゅん、と右腕を振って、空中のクルミをつかみ取る。両手にひとつずつ堅果をつまむと、怪物の瞳はそれをまじまじと見つめる。

 老人がしたような、片手のひらのなか割る小器用な真似は無理と判断したのか、漆黒の獣は両手を使って、火打ち石をぶつけるような構えをとる。

──グシャアッ。

 無貌の怪物が勢いよくふたつの堅果をぶつけると、厚い殻は中身ごと粉々に砕け散る。

「グヌウ……」

「はははは。御身には、まだ早すぎたようじゃて」

 漆黒の獣はくやしげにうめき、白ひげの翁は屈託なく笑う。

「不佞のクルミ割りは、曲芸のようなものだが。身をめぐる『霊力』を使いこなせば、こういったこともできる。頭のすみにでも、おいておくことじゃて」

 老人の講釈を聞いてか聞かずか、無貌の怪物は砕け散ったクルミを拾いあげると、殻ごと無理矢理に咀嚼し、嚥下していく。

「獣のような食いっぷりじゃて。だが、施しを無駄にせんという心意気は、感心」

「グヌア……」

 漆黒の獣は、堅果の残骸を一通り呑みこむと、昼間の剣呑な気配とは別物のように間の抜けた、あくびのごときうめき声をあげる。

 大立ち回りの疲労に加え、食事による満足感のおかげか、無貌の怪物は身を丸めて横たわる。漆黒の獣は、すぐにいびきを立て始める。

「明日も、早い。夜更かしをせんというのも、なかなかの心がけじゃて」

 自分の子供を見つめるように目を細める老人は、焚き火の勢いを整えると、枯れ草と動物の毛皮で己の寝床に身を横たえ、丸くなる。

 夜天にまたたく無数の星が見おろすなか、小さな炎を中心として、点対照の図形を描くように、白ひげの翁と漆黒の獣は穏やかな眠りのなかへと落ちていった。

【一歩】

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