【第2部5章】戦乙女は、侵略にまみえる (11/16)【光明】
【臨死】←
「この不気味な世界……たしか一度、見たか……?」
いくつもの次元世界<パラダイム>を渡り歩いたアサイラの経験からいっても異様としか言いようのない光景を見まわしながら、小さくつぶやく。
「たしか、セフィロトの『社長』と戦ったときに……リーリス?」
黒髪の青年は、『淫魔』とも呼ばれるゴシックロリータドレスの女の名を口にする。返事はない。
詳細に説明されたわけではないが、おぼろげな記憶に頼れば、この空間は自分自身の心象世界らしい。少なくとも、リーリスはそう言っていた。確か……
「内的世界<インナーパラダイム>。そのように呼ぶ者もいる場所じゃて」
第三者の、しかしどこかで聞き覚えのある声を耳が拾い、アサイラはとっさに振りかえる。ひび割れた空の下、血と肉の海のうえを誰かがこちらへ歩いてくる。
黒髪の青年は、目を細める。腐肉の海を渡って近づいてくるのは、薄くなった白い髪に長いひげをたくわえ、くたびれた衣に身を包んだ老人だった、
髪型や装束の仕立ては、陽麗京やイクサヶ原といった次元世界<パラダイム>のものに似ている。足下の水面には、右向きの螺旋のような波紋が広がる。
「やあ、ひさしぶりじゃて。御身、壮健であったか?」
老人は右手をあげて、親しげな声音で語りかける。アサイラは初対面のはずなのに、以前、出会ったことのあるような奇妙な既視感を覚える。
「じいさん……何者か?」
「まあ、待て。不佞は、名乗るほどの者でなし……それよりも、御身が置かれている状況を知ることが肝要じゃて」
黒髪の青年の問いを、白ひげの老師はさえぎり、言葉を続ける。老人の眼光が、ぎらりとアサイラを見すえる。青年は思わず、あとずさる。
「御身はいま、死に際の走馬燈を見ているようなもの。いわゆる臨死体験じゃて。体感時間はかぎりなく緩くなっているが、止まっているわけではない」
アサイラは口をつむぎ、老人の言葉に耳を傾ける。自分の身に起こったことを、少しずつ呑みこんでいく。
「察しているようじゃて……つまり、御身は殺されかけている。このまま手をこまねいておれば、いずれ死ぬ」
「俺は……どうすれば、いいか?」
「まだ生きる気力はあるか! けっこう、けっこう……なに、単純なことじゃて。御身、いまここで死なずにすむ程度に強くなれ」
白ひげの老師は血と肉の海を渡りきり、コンクリートの建築物の屋上に到達する。青年と老人は、建物の左右両脇に立って対面する。
「前回は確か……片脚に指一本であったかのう?」
どこか懐かしむような目つきで、白ひげの老師はつぶやく。
「では此度は、そうじゃな……階段を、二、三段飛ばすことになるが、火急ゆえ……両脚と腕一本で行くぞ」
老人はどっしりと腰を落とし、左腕を背にまわし、右手のみで構えをとる。アサイラがまばたきをしたすきに、翁は老いを感じさせぬ力強さで一息に駆けこんでくる。
「グヌ!」
アサイラは、とっさに徒手空拳の構えをとり、応戦する。老人はそのときすでに、まるで瞬間移動したかのように青年の眼前にいる。
反射的にガードの体勢をとろうと動く両腕をかいくぐり、老人の右手はアサイラの身体に接触する。
「ほれ!」
「ヌギイッ!?」
白ひげの老師はすくいあげるような掌底を、黒髪の青年の腹部に叩きこむ。アサイラは逆流する胃液を口からまき散らしながら、放物線を描いて吹き飛ばされる。
(血の海に、墜ちる……か!?)
為すすべなく宙を舞うアサイラの眼下には、見渡すばかり腐肉の海が広がっている。見る間に高度が下がり、赤黒い水面が近づいてくる。
「グヌウ……ッ?」
ぶよん、とした予想外の感触が、黒髪の青年の身体を受け止める。奇妙な手触りに、思わずアサイラは周囲を見まわす。
「呆けているひまはないのじゃて。いつまでも、浮いていられるわけではないぞ? 沈めば、引きあげられる保証もなし」
屋上のうえから、白ひげの老人が黒髪の青年に声をかけてくる。
アサイラの身体から、老人が血の海を渡ってきたときと同様に右巻きの螺旋の波紋が生じているも、同時に少しずつ身は沈みはじめている。
「ヌウ……ラアッ!」
黒紙の青年は勢いよく身体を起こすと、ぶよぶよとした感触の足下を蹴りながら、白ひげの老師が待つ屋上に向かって駆けこんでいく。
「意気はよし、猶予はなし……不佞の好みではないが、厳しめにゆくぞ!」
アサイラと老人は、激しい打ちあいを開始する。黒髪の青年の双拳に対して、白ひげの老師は片腕一本にも関わらず、その体術の勢いは老人のほうが激しい。
「ウラララアッ!」
「いまこの瞬間に すべてを生きよ……危険を孕みし病んだ魂は、戦いに安息を求める。万物は、己も知らぬ傷ついた心は、敵を求め暗闇を彷徨う……」
黒髪の青年は、嵐のような勢いで連続して拳を叩きこむ。白ひげの老師は右腕一本ですべての打撃をさばいたのみならず、数発のカウンターまで返して見せる。
「よいか? まず第一歩に、あたりまえのことを意識せよ。いずれ、意識せずともよいほどに……さすれば、光明も見いだせよう」
「グヌウ……ッ」
よろめき、早くも呼吸を荒げはじめたアサイラに対して、老師は汗ひとつ浮かべず、涼しげな声音で語りかけた。
→【再起】
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