【感想】ニッポン2021-2050 データから構想を生み出す教養と思考法

猪瀬直樹、落合陽一両氏の共著『ニッポン2021-2050 データから構想を生み出す教養と思考法』を読みました。

全体の基本的な構成として、猪瀬氏が都知事時代等に感じた課題を、落合氏がテクノロジーを活用しどう解決していくかを提示していく。

以下に本書(ニッポン2021-2050)を読んで感じたことを記載するが、本書章節にそった構成ではない点、及び著者の訴えたい点に必ずしもそぐわない点にご注意頂きたい。

1.行政が抱える問題

猪瀬氏は実際の東京都知事、副都知事や政府アドバイザーとしての実務経験から、行政や自治体の抱える問題を的確に指摘し、また、本書の中でも時に持ち前のアイデアで解決を試みた事例があるのだが、そのやり取りの中で行政が抱える体制、精神構造の問題点が浮き彫りになっている。

本書を読んでいて、日本の抱える問題で一番い解決すべきは、行政の在り方なのではないかと考えてしまう。

例えば、第3章の『数値とデータで霞が関文学と対峙せよ』では、猪瀬氏が参画した地方分権改革推進委員会で、国家公務員3万5千人削減の改革案において、その改革案の官僚による校正作業における言葉のマジックによって3万5千人削減案が無効化され製本される事態となっていた。この言葉のマジックを霞が関文学というらしい。後に猪瀬氏が別紙を用意することにより、更に3万5千人削減案を上書き(有効に)することで対処したが、何故に官僚は削除したのか?

猪瀬氏が全体を通して指摘するには、官僚は省益を優先し、また過去事例に執着する点を挙げている。これは日本を全体としての全体最適より、省での個別最適を優先する構造となっているともいえる。

私個人としては、省益を優先する構造は改善してほしいところではあるが、行政が過去事例を踏襲する点は、ある程度は必要であると考えている。行政サービスや法規制が常に可変的であれば国民への周知徹底が困難になり、国家基盤が不安定で危ういものになる。

ただ、第3章の『目的を忘れたルールに縛られるな。30代への期待』の駅構内での納豆版売における規制にあるように、規制本来の問題(目的)は既に無効化(テクノロジー等により解決/納豆パック)されているにも関わらず、その問題が既に顕在化していない状況下においても、30,40年前の古びた規制に縛られ杓子定規に対応しようとする行政の在り方にも問題がある。

ようは行政の主な仕事は言葉遊びであり、また多くの国民、及び行政はその言葉に縛られているともいえる。なんとも虚構であり、ときに暴走したゴーレムのようではないだろうか。

猪瀬氏は行政の規制先行の体質にも言及している。確かに規制先行の体質は現在のグローバル化、及び日進月歩で技術革新が起き、更に高度成長期/人口増加時代に作られた法規制の多くが、上記の駅構内での納豆販売でもあるように世の中に弊害を与えている事例もあるだろう。

個人的には規制先行に関してもある程度は許容する必要があるのではないかと考えている。これは民主主義が抱える弊害の一つとも言えるのではないだろうか。規制なくある特定の市場を開放した場合、必ず倫理的に問題があるグレーな対応をする者が出てくる。後からグレーな対応を規制しようにも、既にその業態が経済的に巨大であれば、強力なロビー活動により政治家が骨抜きにされ、法規制が実施できず問題が野放しにされる事象が発生する可能性もある。例については言及しないが(怖いので)、思いつく人もいるだろう。

ただ、先にも記載したように、高度成長期/人口増加時代に作られた法規制の多くが既に時代にそぐわなくなっているものが多いのではないだろうか。

インターネットもスマートフォンもなかった時代の法規制など、既に社会構造が異なった現代に適用して不具合が出ないはずがない。

平成29年5月26日、民法の一部を改正する法律が成立したが、今後のグローバル化と、情報通信を筆頭に始まりつつある世界のボーダレス化の波を踏まえ、既存の成文法では対処できない事例が多々出てくるのではないかと、個人的には考えている。

2.輸出産業としての少子高齢化社会

落合氏は、今後本格する可能性のある地方自治体の財政破綻、医療/介護問題、所有者不明の土地問題、都市への人口集中促進に伴う地域人口のタイプ別の特色と課題など、テクノロジーでどのように解決するのかについて提示している。

例えば、介護問題は5G通信網サービス開始で遠隔診療/介護で対応できる。所有者不明の土地/空き家問題はブロックチェーンを活用することにより解決し、逆に空きリソースを有効に活用出来る。など。

落合氏は本書の中で、以下のように書き記している。

『テクノロジーフォビアにならないこと。ロボットフレンドリー、テクノロジーフレンドリーであること。』

そして、今後労働人口が減少する日本においては、テクノロジー導入に対しネガティブな圧力が掛かりずらく、逆に労働問題を解決することで輸出産業としての資源リソースとして活用することを提案している。

少子高齢化で抱える様々な課題をテクノロジーで解決することができれば、これから少子高齢化を迎えるであろう世界の国々に、逆にそのノウハウが、世界に輸出できる有効な資源になるのではないかということだ。

3.地方のテンプレ化、都心の多様化

第2章の『現代人の心象風景は”ドラえもん"』というのは、直球で面白い例えでした。実際には、私の世代でも空き地に土管がある風景を見たことがない。でも心象風景としていつでも思い描くことができる。

一方、猪瀬氏は我々日本人が心象風景のシンボルとして「富士山、太陽、松、海」思い浮かべる件について言及している。確かに私自身も日本のシンボルとして思い浮かべる事が出来る。この心象風景が植え付けられた理由について猪瀬氏は、明治期からの近代化の過程で作り上げられたナショナリズムの力でよるものであり、身近な里山の風景ではなく、「富士山、太陽、松、海」など、「日本らしい風景」「日本のシンボル」が『共通の記号』として流布された結果であると。そして、三島由紀夫を例に、そこには『即物的な実態はありません。』という。確かに実際の富士山や松、梅、海を全てを常に身近に感じる事ができる人は日本人でも稀だろう。映像や写真、書籍、歌、絵画等を通して繰り返し植え付けられた記号であり、我々日本人特有のイデアにも似た共通概念。そして、その共通の記号、共通概念を通して、日本という国に帰属意識を芽生えさせ、日本人という自覚を養うナショナリズムの力、またはナショナリズムを養う上で日本人に求めた共通概念と記号ともいえる。

更に情報通信という強力なテクノロジーを利用したのがマスメディアであり、その一例が『現代人の心象風景は”ドラえもん"』を人々の心に植え付ける結果となった。

そして、『ドラえもん』の中にはテンプレート化された登場人物、生活様式があり、私たち日本人、特に50代以下の世代には大きく影響していると考えている。

それについて、第2章の『東京オリンピックで見せるべきは『近代の超克』』にて、コンビニ、ショッピングモールによる生活様式のテンプレート化の潮流を垣間見ることができる。『いまは栃木に行っても、群馬に行っても、茨城にいっても全部イオンモールでできている青春風景』との描写があり、これは生活様式のテンプレ化が進んでいることを示唆しているように思える。

これについて、第2章の『オリンピック招致で伝えた東京の『聖なる無』』にて猪瀬氏が言及しているが、アメリカ発の画一性の極致でコンビニ(ここではコンビニにて)もその延長線上にあるという。アメリカという多民族国家であるからこそ発達した統一フォーマットによる画一化された生活様式は企業にとっても効率的であり、日本人にとっても共通の生活様式をある程度の地方(過疎化が進んだ山村や島等は例外として)であれば共有できる。

逆に都心程ショッピングモールに行く機会はないが、東京の予測によると2025年まで東京全体の人口は伸びるといわれている。これは地方程生活様式のテンプレ化が進み、東京に代表される都心程生活様式の多様化が進んでいくことを示唆してるように思える。

だとすれば、テクノロジーの恩恵において情報のフラット化、インフラの平準化を進めなければ地方から破壊的なイノベーションは生まれ辛く、都心からのアップダウンによる文化の発信が顕著化していくように思えた。VR、ARでも良くホログラムでも良い。5G通信網が普及すれば可能になるであろう人の時間軸と距離に制限を受けずにコミュニケーションが取れる世の中。IOT、ドローン、自動運転(物流)等の活用により、都心と変わらないサービスの享受。そうならなくては地方はより一層衰退していく危険性があるのではないだろうか。

4.ポリテック

第3章の『ポリテックで日本政治を変えよう』で落合氏が日本の統治構造を「デットロック」と例えている点が面白いと。12省庁の縦割りで省益を優先する構造を喩えて呼んでいる。これの解決する方式として、ポリティックスとテクノロジーを掛けて『ポリテック』と小泉進次郎氏が呼称してはどうかと。行政は基本的に固定的であり、社会問題を能動的に解決する能力は立法を司る政治にあるが、今までは社会問題に対し即物的な対処より人を制する事に重きを置いている。そこで、その課題解決をテクノロジーと政治を掛け合わすことで、政治の課題をテクノロジーで解決し、テクノロジーの課題を政治で解決する。立法を司る政治が能動的に対処し、その分野のビジョンを明確にすれば、それに沿って行政と民間が動き社会問題を解決し、または新たな需要と供給を創出していく。

その為には官産学が相互に協力し、政治家のITリテラシーを高めていく必要があり、それを怠れば民、学双方にとって自らの首を絞める結果となるのではないだろうか。

ポリテックの概念を取り入れることが出来なければ、これからの少子高齢化社会が本格化する日本にとっては、政治×テクノロジーによる能動的な課題解決を放棄し、国民全体が大きな課題を解決出来ずに徐々に体力を奪われ衰退していくことを享受する結果となることを、懸念してならない。

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