見出し画像

小説「ターコイズブルーのお月さま」2章

二章
14
2025年9月19日金曜日、夕方になると涼しい風が吹いてきた。
制服の上から薄手の白いパーカーを着てサトウは“うみねこ”の扉を開けた。
私服に着替えて、エプロンをつけると、
おじさんは簡単な引き継ぎをサトウにして店を出る。
サトウがアルバイトにくるようになってから、
おじさんは夕方出かけて、近所の子供相手の空手教室を開き始めた。
意外なことにおじさんは空手が得意だった。
サトウは、おじさんが出かける3時間ほどの間、毎日“うみねこ”のカウンターに立つようになっていた。
サトウは天窓を見上げた。
店の天窓から空が見える。
日がくれるのが早くなった。

サトウは“うみねこ”のカウンターに立つと、
まず冷蔵庫の中身をチェックする。
四国からきたおくら、
大分からきたピーマン、
ラトビアからきたパスタ、
ベトナムからきたコーヒー豆。
それから、コーヒーカップをひとつずつチェック見て、グラスをチェックする。
どれも素晴らしく手入れが行き届いている。
サトウは、おじさんが磨いた素晴らしい食器を見るのが楽しみだった。

15
俺は、夏休みの終わりにサトウと仲直りしたが、昔のようにずっと一緒ではなく、なんとなく別々に行動するようになっていた。

俺は、放課後、久しぶりに喫茶店“うみねこ”の扉を開けた。
「おお、コウジひさしぶりだな」
サトウが、カウンターの奥から右手をあげた。
「サトウ、ブラックコーヒーをくれ」
俺はカウンターに肘をついて一人前の大人の顔をして、
サトウにブラックコーヒーを注文した。

サトウは、ぎこちない手つきで、コーヒー豆を取り出して、お湯を沸かし、粉末のコーヒー豆に湯を注いだ。
コーヒーの香ばしい匂いが立ち込める。

本当のところ俺はせっかちで、自動販売機の缶コーヒーの方が好きだ。
買った瞬間コーヒーの蓋をすぐ開けてそのままゴクゴクしたい派だ。
しかし、サトウがおそるおそるコーヒーを入れる様子が面白くて、わざとじっくりサトウの手元を見るために、ブラックコーヒーを注文する。
そのうち“うみねこ”おじさんが帰ってきて、
サトウのバイト時間がおわった。
「コウジ、そこにいろよ」
久しぶりにサトウがウキウキした顔で言った。

サトウは、奥に引っ込み、ずっしりと重そうな機械を出した。
「“うみねこ”のおじさんに借りた。8ミリのフィルムカメラだ。アナログを極めた撮影機械だ。これがあれば、俺たちにも立派な映画が撮れる」
サトウが話した。
「そんなのなくても、スマホで撮れるじゃないか」
コウジは言った。
「この機械はフィルムに直接風景を焼き付けるんだ。俺は便利でも簡単でもない、このでかい撮影機械でとったフィルムこそ本当の映画だと思うんだ。だいいち俺はスマホも携帯電話も持っていない」
サトウは言った。

「本当の映画ってなんだよ」
俺は言った。
きっと“本当の映画”ってセリフも誰かの受け売りだ。
サトウの話は、理屈っぽく、話し出すと止まらなくなる。
99パーセントが誰かの受け売りだが、たまに1パーセント自分で考えた、とてもいいことをいう。
自分でそれに気づいていないのが残念なところだ。
「8ミリのフィルムは100年たっても、手で触れられる。そこが好きだ」
サトウは言った。

「サトウ、ちょっとこれ数日借りてもいいか」
俺はサトウに言った。
サトウは頷いた。
サトウはまだアルバイトがあったので、
俺は8ミリカメラを鞄に入れて一人で店を出た。

ちょうど西の空を見ると夕日が沈むところだった。
俺は、自転車に乗って、川沿いの堤防に向かった。
俺たちはここから沈む夕日を見るのが好きだった。
堤防に着くと俺は自転車を降りて、草の上に座り、機械の側面を開けて8ミリフィルムの銀がみを口で破って、機械にフィルムをセットした。
そして沈んでいく夕日に向けて8ミリカメラを向けた。
8ミリカメラの小さな穴を覗くと長方形に切り取られたファインダーから夕日が見えた。
同じ風景が、カメラ越しに見ると全然違う。もうすでに映画みたいだ。
シャッターを押すと、
カシャン、と一度だけ音がして、その後、機械は動かない。
一回ずつしかシャッターが下りない。
俺が困っているとファインダー画面の中、ニシムラ・トモコが写っえいるのが見えた。
カメラを外すと、ニシムラ・トモコが笑っていた。
ニシムラは、俺の前まで来て、8ミリカメラの横のつまみを回した。
「これで撮れるよ」
「ありがとう」
俺は言った。
「試しに私を撮ってみる?」


ニシムラはそう言うと、逆光の太陽を背中に、くるりと体を回転させた。
スカートがふわりと揺れた。
ニシムラは太陽を浴びながら、優雅にステップを踏んだ。
俺はニシムラの動きに合わせて、カメラを動かした。ファインダー越しのニシムラはまるで別人に見えた。
ニシムラが調整してから、ぎこちない機械音をさせながらカメラは動き続けている。
西の空が真っ赤になり、ニシムラがもう一度太陽の方を向いた、逆光にニシムラの細い体が影となってフィアンダー越しに見えた。
俺は、夢中でニシムラの姿を追った。やがて3分たちフイルムが尽きた。
カメラを外すと、そこにいつものニシムラがいた。
「昔うちに、そう言うカメラあったから・・」
ニシムラは言った。
「言っとくけど、わたし、カメラ向けられたら誰にでもポーズ取るわけではないからね」
ニシムラは、そう言うとさっさと家に帰ってしまった。


16
2025年9月22日月曜日
その日、俺は進路指導のために、進路指導担当のサエキ先生に呼ばれた。
二学期、すでにサエキ・ユウセイ先生は水泳部顧問ではなくなっていた。
「スミダ、残念だが、俺は所用で学校を休職する。かわりに二学期から来ている、モトキ先生が進路指導担当になる。お前の卒業見届けられないで残念だよ」
サエキ先生は足を組んでリラックスし切った態度で俺に話した。
俺みたいに、箸にも棒にもかからない成績の生徒には、
サエキ先生もテンションが上がらないのだろう。
「うちの卒業生に航空機パイロットになった生徒がいて、そのツテで航空学校から募集が来てるんだけれど、受けてみないか」
サエキ先生は意外な事を言った。
俺は少し驚いた。
「考えてみてくれ」
サエキ先生はなんだか嬉しそうだった。


17
2025年9月25日木曜日
例年、夏休みが終わったらあとはひたすら冬やすみを目指すだけだ。
だが今年はなんだか二学期が名残りおしかった。
今年は運動会も、文化祭もない。

すっかり秋も深まって来た。
サトウは、長袖シャツを来て、相変わらず“うみねこ”のカウンターで三角コーナーを掃除したり、
納豆のパックについた納豆菌の使い道について悩んだりしていた。
おじさんが空手教室から帰って来たので、おじさんの分と自分の分のコーヒーを入れた。
サトウの入れたコーヒーを飲みながら、おじさんは、自分のいない間の店のことをサトウから引き継ぐ。
今日はペルー産のコーヒーだ。
サトウはコーヒーを飲んでから、
水槽のめだかに餌をやりに行った。
最近、めだかの水槽掃除や、餌やりもサトウの役目になっていた。
「おじさんこの、めだか、名前あるの?」
「めだかに名前なんてないよ」
「じゃあ、名前つけてもいい?」
「それだけはだめ」
おじさんは珍しくだめを出した。

からんと扉のベルがなり、水玉のゆったりしたパンツに白いシャツを着た、小柄な女性が入って来た。
「サトウくん、ひさしぶり」
女性は、黒い帽子をとって言った。
ペットショップで働いている、シイノキ・ホノカだった。
傍に、仔犬のモイがいる。
サトウがよく散歩に連れていっていた仔犬だ。
ホノカがモイをいう名前をつけた。
「サトウくん、エプロン姿にあってるね」
ホノカは丸い瞳で、サトウをみて微笑んだ。
「父さん、久しぶり」
おじさんは、小さく会釈した。
「えええっ??」
サトウは、驚いておじさんと、ホノカを交互に見た。
「私、この人の娘なんだ。別々に暮らしてるけどね。姉さんもいるんだけど、消息不明」
ホノカ笑った。
少しよそよそしい家族の紹介に、サトウはわずかに違和感を感じた。

「ホノカさん、何か飲みますか?」
サトウは聞いた。
「ブラックコーヒーに、サンドイッチ、ピクルス増量でお願い」
ホノカは言った。
サトウは慎重に、コーヒーを淹れ、ピクルス3枚入れてマスタードをかけ、ハムとスクランブルエッグを挟んでホノカのカウンターに置いた。
「ありがとう」
ホノカは微笑んだ。

それから、プラ容器に水を入れて、モイの前に置いた。
モイは、美味しそうにペロペロと水を飲んだ。
サトウはモイの横にしゃがんで、モイが水を飲む姿を見ていた。
自然に笑顔が出て来た。
ホノカはおじさんに言った。
「父さん、連れてきたよ、この子だよ」
ホノカは、おじさんに丁寧な笑顔を見せた。
おじさんがサトウに言った。
「この仔犬、うちで飼おうと思うんです」
おじさんは言った。

サトウは、しゃがんだままモイの背中を撫でた。
とても柔らかい。
「ホノカさん、この子、散歩に連れて行ってもいい?」
サトウは、言った。
「いいよ、わたしもいくよ」
ホノカは残りのコーヒーを飲み干した。
「ご馳走様。とても美味しかった」
ホノカはおじさんに代金を払った。
サトウはホノカと一緒にモイの散歩にいくことになった。
二人は、夕方の川沿いの道を歩いた。
「ホノカさん、よくここで練習してるでしょ」
サトウは言った。
「見られてたんだ。声かけてくれたらよかったのに」
ホノカは笑った。
モイがおしっこしたので、二人してペットボトルの水を後にかけた。
夕方の穏やかな時間だ。
自転車で帰宅するサラリーマン、サッカーの練習をする子供たち、ベンチで空を眺めるおじさん。
そんな中、サトウとホノカは二人で並んで堤防に腰かけた。
ホノカは、モイを自分の膝に載せた。
モイはホノカの膝で丸くなり気持ち良さそうにしている。
「ホノカさん、ピクルス大好きなんですね。ぼくは苦手なんですよ」
サトウは言った。
ホノカはサトウを見て言った。
「そうね・・実をいうと昔好きだった人が、ピクルス好物だったの。一人でひと瓶食べちゃうくらい。だから私もピクルスが好きになったの」
「もし、その人がピクルス嫌いなら、ピクルス嫌いになってた?」
「そうね、多分そうだと思う」
ホノカは言った。
「ホノカさんは、まだその人の事が好きなんですね」
サトウは言った。
ホノカは少し寂しそうに微笑んだ。

18
「というわけだ」
サトウは、俺にペットショップの仔犬が、“うみねこ”にいる理由を話した。
「サトウ、よかったな」
「ああ、仔犬の居場所ができてよかった」
サトウは、わかっているかいないか、的外れな返事をした。

19
2025年9月26日金曜日。
その日は、霧みたいな朝からずっと降り続いていた。
サトウは学校が終わってから“うみねこ”に行った。
サトウが暗い路地を抜けて、“うみねこ”の階段を降りると店が空いている時間なのに半分だけシャッターがおりたままになっていた。
中は小さな明かりしかついていなくて、かすかにレコードの音がする。
サトウはドアを開けた。
鍵はかかっていない。
ドアを開けると、床におじさんが倒れていた。

俺はその日、たまたま“うみねこ”に向かっていた、
そこで呆然と立ちすくむ、サトウを見つけた。
俺は、倒れているおじさんを見つけた。
「サトウ、救急車だ」
俺はサトウに怒鳴った。
サトウは、店にあるダイヤル式のレトロな電話の受話器をあげた。
サトウは手元が震えている。

「これどうやって使うんだ」
いつもは冷静なサトウがパニックになっている。
俺は。十円玉を財布からかき集めてサトウに渡した。
「これを入れて、ダイヤルを回せ」
サトウはなんとか電話をかけた。
五分ほどで救急車がきた。

普段、人のいない“うみねこ”の入り口の周りに人だかりができている。
のっそりした眠たげな表情の救急隊員が車から降りて来た。

サトウは震えていた
「去年、俺の親父も同じふうに倒れたんだ・・」
サトウの涙が、ポタポタと、床に落ちた。

眠たげな消防士が、サトウの頭を撫でた。
「坊主レコードの片面がおわつてない。多分倒れてそんな時間はたってないよ」
サトウが耳を澄ますと、レコードから綺麗なピアノの音がまだ聞こえていた。
おじさんは、意識不明のまま、救急車に乗せられて行った。
近所にサイレンの音が響いた。
店にモイだけが残された。
サトウは、モイを抱いて、その晩は“うみねこ”のテーブルに伏せて眠ってしまっていた。

サトウが朝、目覚めると背中にイチゴの模様の毛布がかけてあった。
サトウは目を覚ましたものの、立ち上がる気力がなかった。

そのうちドアが開いて、野菜の段ボール抱えた人が入って来た。
「君がサトウくんか、野菜もって来たよ」
八百屋さんらしい。
「マスター大変みたいだな。でも心配すんな。今日の野菜冷蔵庫に入れておいた。ピクルスも漬けとけよ」
八百屋さんは、メモをくれた。
「ここにピクルスのレシピあるから、後で試してみな」
八百屋さんは笑った。
サトウは、必死で身体を起こして、カウンターに立った。
ドアの鈴が、からんと鳴ってホノカが入って来た。
グレーのパーカーを着ている、今日はラフな格好だ。
「コーヒーのとっても良い匂いがしたから、来ちゃったよ」
眠っていたモイが、びくんと跳ね起きた。
ホノカはモイの背中をそおっと撫でた。
サトウは、フラフラになりながら三人分のコーヒーを入れた。
コーヒーの水滴が落ちていく様を見ているとだんだん目が覚めて来た。
そして、冷蔵庫からピクルスの瓶を出して、
パンをトースターに入れた。
八百屋さんが立ち上がって、野菜の束から、新鮮なレタスと、トマトを取り出した。
「今朝とれた野菜だ。うまいはずだ。たぶんうまい」
サトウは、三人分のコーヒーとサンドイッチをテーブルに並べた。ピクルス増量で。
「俺、まだ配達あっから、これもらってくわ」
八百屋さんはカバンからジップロックの袋を出して、サンドイッチを入れた。
サトウは、自分のコーヒーを飲み干して、学生服に着替えた。
「サトウくん、モイはしばらくわたしが面倒見るわ」
ホノカは言った。
「じゃあ、わたし仕事いくね、学校ちゃんといくのよ」
ホノカは、モイを抱いて振り向くと、
とびきりの笑顔でサトウに微笑んだ。


その日、サトウはスイミングの朝練を休んで、そのまま学校に来た。
俺もサトウも、学校でおじさんの事は一言も話さなかった。
「俺、学校が終わったら、3時間だけ“うみねこ”を開けるよ。野菜があるし、いつもの詰碁おじさんがくるから」
サトウは、精一杯明るくいった。

20
2025年9月27日土曜日
土曜日、サトウはその日は朝から“うみねこ”を開けて午後8時に“うみねこ”を閉めて簡単な夜食を作って病院に行った。
病院に行くと、ホノカがいた。
サトウはホノカといっしょに病室に入った。
おじさんは目を覚ましていた。
おじさんは意識が戻ってもうまく話せないようだった。
サトウは、おじさんの隣に座って、店の様子を話した。
おじさんは、サトウは一言話すたびに、小さくまぶたで頷いた。
「おとうさん、大丈夫?」
ホノカが、心配そうにおじさんに声を掛けた

そのうち、お医者さんが看護師さんとやってきた。
背の高い、体つきのガッチリとした医者だ。
全身、真っ黒に日焼けしている。
去年、サトウの父親が入院した時と同じサメジマ医師だ。
「君たち、シイノキさんは大丈夫だから、早く帰りなさい」
医師は冷たく事務的に言った。
サトウとホノカは仕方なく病室をでた。
あとで看護師さんがサトウを追いかけてきた。
「気を悪くしないでね。ああ見えて先生、腕は最高にいいのよ」
看護師さんはすまなさそうに言った。


2025年9月28日日曜日。
俺はその日、大学の模擬試験のためにライバル校の東南高校に行った。
サエキ先生にこれだけは受けろと言われたのだ。
トモコとサトウは専攻クラスが違うので今日は俺一人だ。
東南高校の急な坂道を自転車を押しながら歩いていると、
坂を登って来た赤いスポーツカーが俺の隣で止まった。
「お前、帽子持ってないのか?それと学生服のボタン閉めとけ」
車の中から、女性が降りて来た。
黒いスカートに、ジャケット、肩まである長い髪、真っ赤な口紅。
新任の、モトキ・アメ先生だった。
「あ・・はい。帽子は忘れました・・」
俺は、制服のボタンをしめた。
帽子は忘れた。
「今からライバル校に行くんだぞ!それじゃナメられる!気合入れていけ!」
モトキ先生は言った。
そして車から西南高校の帽子を放り投げて車に乗って行ってしまった。
俺は、モトキ先鋭から借りた帽子をかぶって呆然としながら東南高校の校門をくぐった。
俺は受験票を確かめて、座席に座った。広いすり鉢型の教室に
試験用紙を持ったモトキ先生が入って来た。
試験監督はモトキ先生だった。
「今から、問題を配る。時間になるまで開けないように」

モトキ先生は黒い髪を揺らしながら教室を見渡した。
「不正行為は、学校に通報の上、厳重に処罰します。はじめ!」
モトキ先生は鋭い目で教室全体を見ながら言った。
俺が、回答を書いていると、からだの横を、黒いスカートのモトキ先生が通り過ぎた。
ほんのり花の香りがした。
俺はクラクラした。
勘弁してほしい、
俺は思った。

次の日、は進路指導の日だった。
進路指導室を開けると、新しい進路指導担当のモトキ先生が座っていた。
「スミダ・コウジです!入ります!モトキ先生!よろしくお願いします!」
俺はそういって進路指導室に入った。
「スミダ・コウジ。お前、かなり成績やばいな、これではよろしくできんな。かえれ。
お前が、学内10番以内になったら、話聞いていてやる。じゃあな」
俺は先生の前で、10秒で回れ右して進路指導室をでた。
「なんだ、あいつ」
俺は進路指導室を出て一人事を言った。

2025年9月30日火曜日
俺はそれでも勉強する気になれず、暇があれば、8ミリカメラを抱えてあちこちを歩き回った。
サトウは水泳、学校、アルバイトとやることがありすぎる。
俺は一人で行動することが多くなった。


「スミダ、今日は相棒のサトウはいないのか?それにしても、いやにレトロなカメラ持ってるな」
学校の休み時間、俺が机にカメラを出していると、イチノセが俺に声をかけてきた。
イチノセは国立理科系クラスで、学業も超優秀で、俺なんかとは住む世界が違う。
そのイチノセが急に俺に話しかけてきたので驚いた。
「ああ、フィルム式の8ミリカメラだよ。やたら金がかかるが、本物の映画が取れる・・らしい」
俺はサトウの受け売りのセリフを言った。
理系のイチノセはカメラに興味を持ったのかもしれない。

俺は、試しにイチノセに聞きてみた。
「イチノセ、聞いていいか?学校の成績って、どうやったら上がるんだ」
イチノセは笑った。
「俺は成績優秀なスミダは想像できんが・・俺は中学の時から毎日、とにかく毎日午前2時まで机に向かっている。なぜだかわかるか?」
俺は首を横に振った。
「親父が一度自分の会社を潰しているのを見たからだ。だから俺は親父の失敗から学ばないといけないと思っている。でないと親父が報われない。だから俺は勉強するんだ。俺は逆に自由なお前が羨ましいよ。俺は真面目だけが取り柄だからな」
イチノセは言った。
「スミダ、勉強のことなら、空手部のカタヤマに聞いてみろよ。あいつ、この半年で随分成績あげて来てるから、あいつの方が参考になるかもしれない」
俺は、イチノセに礼をいい、カタヤマに会いに行った。
3年1組の教室でカタヤマが熱心に英語を勉強していた。

カタヤマは俺をチラリとみると、すぐに勉強に戻った。
カタヤマは、“三分勝負のカタヤマ”と異名を持ち、空手の試合は常に3分で勝負をつける。
3分の試合に起承転結をつけるのがカタヤマの戦い方だ。
「カタヤマ、成績をあげるのにはどうしたらいいんだ」
俺はおそるおそる声をかけた。
カタヤマは俺の目をジロリと睨んで言った。
「お前は、なぜ成績あげたいんだ」
と言って、俺をじろりと睨んだ。
「今のお前はいくら勉強しても、辛いだけで成績は1ミリも上がらないぞ。無駄な努力はやめとけ」
カタヤマは言った。
俺はショックでうなだれた。
「それより、その鞄の中の物の方が、今のお前には大事なはずだぜ」
カバンの中には、8ミリカメラが入っていた。
「スミダ、ついてこい」
俺は、カタヤマに連れられて学校の裏の原っぱに行った。
カタヤマは制服のシャツを脱いた。
鍛えあげられ筋肉質の上半身が現れた。
「カメラ回せ」
俺は、慌てて鞄から8ミリカメラを出して構えた。
カタヤマは、深呼吸したあと、激しいカンフーの型を演じ始めた。
俺は圧倒されながら夢中で8ミリカメラを回し続けた。
カタヤマが動くたびに汗が飛んだ。
まるで本物の映画みたいだ
ちょうどきっかり三分で計算したみたいにカタヤマのカンフーは終わった。
「俺は子供の頃から、家に居場所がなく、早く家を出たいと思っていた。だからカンフーを覚えた。俺は高校卒業したら、アメリカにいく。そこでカンフーを使って映画スターになる。英語は俺にとって今すぐに必要な必須ツールなんだ」
カタヤマは言った。
俺は高校に入って初めてカタヤマじっくり話をした。
「いや・・俺はそこまでじゃないんだ・・すまん」
俺は恥ずかしくなった。


2025年10月1日水曜日
俺は、毎日学校に8ミリカメラを持ってきていた。
俺のカメラを見て、カメラ屋の息子のタカハシが言った。
「おっ、8ミリカメラとは、いやに渋いもの持ってるな」
この、カメラを持つようになってから、俺は随分知らない奴から声をかけられるようになった。
「でも、先生に見つからないようにな、あいつが来てから厳しくなったからな」
そうタカハシが言って立ち上がると、俺たちの後ろにモトキ・アメ先生が立っていた。
「学校に、不要なものもってくるな、そのカメラは没収する」
モトキ先生は俺のカメラを鞄ごとひったくった。
その華奢な体から想像できないほどの力だ。
「何すんだよ!」
俺はとっさに叫んだ。
「成績あげろと言ったはずだ。ここではお前に反論する余地はない。返して欲しければ成績をあげろ」
モトキ先生は怖い声で言った。
そして俺に言った。
「お前らが思っている自由は、与えられた自由だ。学校にいる間は学校のやり方に従え」
モトキ先生は長い髪をかきあげながら言った。
「まあ、この先ずっとマヤカシの自由に中で生きるつもりならそれでもいいがな」
モトキ先生はそう言って8ミリカメラとフィルムの入った袋を持って、職員室に戻っていった。
「マヤカシの自由ってどういう意味だよ!」
俺は、呟いた。

2025年10月4日土曜日、
俺は、その日俺は朝から、普段あまり行かない図書館に向かった。国立理系クラスのイチノセ・ダイと出会った。
「コウジ、8ミリカメラ、新任のモトキ先生に没収されたらしいな」
イチノセは笑いながら言った。
「よく知ってるな、しかしもフィルムも持って行きやがった」
俺は言った。
「モトキ先生、よくそれが大事なフィルムだってわかったな」
イチノセは言った。
「学校内で、10番以内の成績をとったら返してくれるそうだ」
俺は言った。
イチノセは、少し天井を見た。
「コウジ、モトキ先生は簡単に校内10番というが、高校三年の秋、進学組は中学からだと六年ずっと勉強してんだ。コウジ、受験生なめんなよ。俺たち受験組にもプライドがある。言っとくけど負けないぜ」
イチノセは穏やかだが、揺るぎない自信を覗かせながら言った。
「たぶん、お前が真剣になったら、お前らしくない」
イチノセは微笑みながら言った。
「ああ、お前は学年ビリがにあってる。俺失礼なこと言っているな」
「ああ、俺いますごくディスられている自覚あるよ」
イチノセは声を出して笑った。


2025年10月5日月曜日
その日、学校が終わってから、俺はイチノセとカタヤマと三人で、喫茶店“うみねこ”へ向かった。
空手部のカタヤマ・ゲンキはイチノセが連れてきた。
イチノセが、俺に見せたいものがあるらしい。
店に入ると、サトウがカウンターでグラスを磨いている。
「コウジ、俺、ストーリーを書いたんだが・・」
イチノセがカバンから分厚い紙の束を出して俺に言った。
俺は驚いた。
セリフと、場面がイラスト入りでぎっしり書いてある。
理系の秀才、イチノセらしい、緻密な原稿だ。
内容は・・とても穏やかなラブアンドコメディーだった。
超緻密な頭脳の持ち主のイチノセがこんなロマンチックな物語を作ってきたことに少し安心した。
こいつだって、人生コンピューターみたに計算づくじゃない。俺と同じただの人間なんだ。


「お客さん、ご注文は・・」
サトウが注文を取りにきた。
イチノセが、クリームソダ・・といいかけた時、ドアの鈴がなり、カメラ屋の息子のタカハシが入ってきた。
「ブラックコーヒー5つ、以上、喫茶店で注文はこうするんだ」
サトウは、四人が座るテーブルに、5杯のブラックコーヒーを置いて、カウンターにも戻ろうとした。
カメラ屋のタカハシは言った。
「おいサトウ、俺たちは、お前のためにここに集まってきたんだ。お前も仲間になれ」
5杯目のコーヒーはサトウのための注文だった。
サトウは、申し訳なさそうにテーブルにきた。
俺たちは、テーブルを囲んで映画のこと話しあった。

その時からんとベルが鳴って扉の開く音がした、そしてかつかつとヒールの音がした。
ラベンダーの香りで俺は気がついて振り返った。
そこには進路指導のモトキ・アメ先生が立っていた。
「そこまでだ!お前ら全員生徒手帳だせ、校則第三章60条喫茶店でもバイトも、寄り道も、校則で禁止されている。お前ら全員学生証回収する」
モトキ先生は、ものすごい剣幕で怒鳴った。
「お前ら受験まで3ヶ月、ナメてのか、こんなところで時間潰す暇があれば、一分でも勉強するべき時期だろ。明日、学校で処分をいいわたす。学生証はその時返す」
俺は、ポケットを探って手帳を探したが、映画館ですでにモトキ先生に没収されていたことを思い出した。
俺と、カタヤマ、タカハシ、イチノセは、サトウの四人は、モトキ先生の赤い車にぎゅうぎゅうに座って乗せられて家に送り届けられることになった。
俺たち全員が車に乗ると、モトキ先生は、少しイライラしながら、運転席に座った。
「シートベルト閉めろよ!」
モトキ先生は怒鳴った。
皆がベルトを締めると、先生のオートマチック車はゆっくりと発進した。
車が発進すると、意外なことに、モトキ先生の運転はとても安全でスムーズだった。
まるで自動車を労るようにカーブを曲がった。
「一番遠いのはカタヤマだな」
モトキ先生は言った。
俺たちはモトキ先生の車に乗ったまま、一番遠いカタヤマの家に向かった。
俺たちはどんな処分が下されるか緊張して一言も話せなかった。
モトキ先生の顔を見ることもできなかった。
俺は、目を閉じた。
先生はから、化粧水か、花の香りのようなとても良い香りがした。
「ちょっと止まるぞ」
カタヤマの家に行く途中、モトキ先生は小さな駅のロータリーに入った。
腕時計を見て言った。
「ちょっと休憩だ。スミダ、全員分のホットコーヒー買ってこい」
モトキ先生は、小さな黒いブランド物の財布を俺に放り投げた。
俺が適当にコーヒーを買っていると、モトキ先生は夜空を見上げていた。
もう既にすっかりあたりは真っ暗闇だ。
空は雲一つない星空。
東の山の上にすぐの位置に三日月がかかり、その少し南に火星が光っている。

「あれなんだ!」
サトウが叫んだ。
見ると北西の空、ちょうど北斗七星のしたくらいに明るい光が不安定に横切っている。東の空の火星くらい明るい光だ。
「宇宙人だ!」
サトウは大袈裟に叫んだ。
俺たち全員、ぼうぜんと、その不思議な光を凝視した。
数分、いや数十分経過して、やがて光は見えなくなった。
「19:52から19:55分まで北北西の空だな」
イチノセが冷静に言った。
「あれは、宇宙ステーションだよ。しょっちゅう飛んてるぜ」
イチノセは憎らしいくらい冷静にいった。
「いや、違う、あれは宇宙人だ、騙されているのはお前だ」
サトウは言った。
光が見えなくなってから、なんとなく俺たちは、温かい缶コーヒーをあけて黙って飲んだ。
少し冷えた空気の中、しばし沈黙が流れた。
俺は、星だらけの空を見上げた。
みんながコーヒーを飲み干し、ゴミ箱に空き缶を捨て終わったのを見届けからモトキ先生は車のドアを開けた。
「よし、行くか」
モトキ先生が言った。
俺たちは、モトキ先生に“ごちそうさまです“
と言った。
先生は、“ふん”と小さく頷いただけだった。


2025年10月6日月曜日、
俺は放課後、進路指導室に呼ばれた。
「失礼します。スミダ、入ります」
俺は、ドアを2回ノックして、進路指導室の中に入った。
先生はまだいなかったので、手持ち無沙汰の俺は、先生の机を見渡した。
モトキ先生の机に行くと、本立てに映画のD V Dが2本挟まっていた。
たぶん宇宙ものの知らない外国映画だ。

俺が、手持ち無沙汰にしていると、ドアが開いて、モトキ先生が背筋を真っ直ぐ伸ばして入って来た。
この前の香りのせいか、俺は少しドキドキした。
「スミダ、お前、停学一週間と決まった。校長の計らいで執行猶予がついた。次のテストで学年10番に入ったら、停学なかったことにしてやる」
モトキ先生は言った。
「それと、サトウは、ご家庭の事情を考慮して、特別に喫茶店でのアルバイトが認められた。それだけだ、お前は早く帰って勉強しろ」
先生は、そういうと足早に進路指導室を出て行った。


22
20205年10月6日月曜日
その日は穏やか陽気の暖かい朝だった。
喫茶店“うみねこ”は、もともと月曜日が定休日だ。
サトウは、学校が終わってから、
電車で病院に向かった。
また、病院で追い返されるかもしれない。

サトウは、鞄から単語帳を出して、
パラパラとめくって諦めてまた鞄にしまった。
外はとても良い天気だ。
一度電車を乗り換えて埋立地を走る自動運転の電車に乗り換える。
窓から出来たばかりの大きな室内プールが見える。
10月25日、ここでサトウの水泳の試合がある。
サトウはぼんやり室内プールの屋根を眺めた。
水泳の朝練の疲れが出ているのかもしれない。
サトウは考えた。

ちょうど去年の今頃、サトウの父親が突然倒れた。
すぐ救急車が来て、サトウの父親は、今、おじさんが入院しているのと同じこの病院に運ばれてた。
入院した時は平気だったのに、その、一週間後、朝方、父親は眠るように息を引き取った。
小さな会社で、ずっと平社員だった父親はサトウを子供の頃から塾に通わし、一流大学に入れて大きな会社に入れようと躍起になっていた。
サトウはそんな父親にずっと反抗して来た。
サトウは、父親へのあてつけに、勉強しなくなり、家にも帰らなくなった。
そして、“さよなら、も”ありがとう“、も言えないまま父親は逝ってしまった。

その時、父親の担当医師が、サメジマ医師だった。
サトウには、サメジマ医師が凄腕かどうかはわからない。
しかし、サメジマ医師の様子から元気に見える父親が、実は決して、簡単な状況出ないことが伝わってきた。
母親はそれを承知していたようだ。
だが、父親が息を引き取る最後の夜まで、サメジマ医師は父親の命の終わりついて一言も話さなかった。
最後の夜に、ただ、
「お父さんについていてあげてほしい」
と言っただけだった。

だから、サメジマ医師が、帰れというということは、“うみねこ”のおじさんは大丈夫だと言うことだ。
だが、それでもどうしても、休みになると病院に足が向いてしまう。

サトウは病院に着くと、階段で4階のおじさんのフロワーまで歩いた。
明るいオレンジ色の壁紙に、太陽のたくさん入る大きな窓。
サトウはここが病院であることを忘れてしまいそうになった。
サトウは廊下で病室に行くか、行かないか考えあぐねていた。

ナースステーションの前で悩んでいると、長い髪を後ろで束ねた小柄な女性が、“うみねこ”のおじさんの病室から出てきた。年配のご婦人を車椅子に乗せて押している。
サトウはその女性に見覚えがあった。
進路指導のモトキ・アメ先生だ。
いつもは黒いスカートにジャケットを着て、力強く颯爽と歩くモトキ先生だが、今日は、ジーンズに白いパーカーのラフな格好で、車椅子のご婦人と話している。
しかしその表情は厳しく、眉間に深いシワが刻まれていた。
サトウは反射的に隠れた。

サトウは背中に人の気配を感じた。
振り返るとサメジマ医師だった。
「やばい!」
サトウはとっさに玄関に向かって走った。
サトウは、その日もおじさんに会うことなく“
“うみねこ”に戻った。

23
病院からサトウが喫茶店“うみねこ”に行くと、すでに扉の鍵が開いている。
中で誰かがレコードをかけている。
サトウは不思議に思いながら扉を開けた。
中に入ると、電灯は消えていて、天窓の下で一人の小柄な男がレコードを聴いていた。
店の古びたステレオセットから美しいピアノの曲が流れている。
黒い上下の服に、黒い帽子を被り、さらにマントを羽織っている。
振り返ったその顔立ちはこの世のものとは思えない美しいほっそりとした顔立ちだった。
十代と言っても、四十代と言っても通じる。
その瞳は宝石のよう美しい。
テーブルに一枚の古びたレコードの紙製のジャケットが置いてある。淡いむらさき色のバッグに短い髪の女性の影が印象的な美しいジャケットだ。
「こんにちは、サトウくんだね、ホノカをもらいに来た」
男性は言った。

俺は男の言うことがよくわからなかった。
背後でドアが開いた。
サトウが振り返ると、ホノカが立っていた。
ホノカは男性に向かって叫んだ。
「リョウ!もういい加減にしなよ、もう、私を自由にしてよ・・」
ホノカは、目に涙をためて、不安そうに震えている。
いつものホノカからは想像できない激しい言葉をを男に浴びせた。
男は、ゆっくりと立ち上がり、黒い帽子をとると、ゆっくりとホノカに近づいた。
ホノカは、男の目を見た途端、ふっと力が抜けて金縛りにあったように動けなくなった。
ぼうぜんと立ち尽くすホノカを、男は右手でだき抱えて、その白い頬にキスをした。
「ホノカ、一緒に行こう」
リョウはホノカの耳元でささやいた。
ホノカは、目を見開いたまま、ゆっくりと左右に首をふった。
精一杯のNOの意思表だった。
そして、そのまま放心したように床に倒れこんだ。
「また、くるよ」
男はわずかに微笑んで店を静かに出て行った。
サトウは声がでなかった。
目の前で何が起こっているのか、想像するのも恐ろしかった。
どうすることもできなかった。
ホノカは目を見開いたまま、涙を流していた。
サトウは、ホノカを抱き抱えて、椅子に座らせて、コップに水をついだ。
そしてレコードプレーヤを止めて、レコードを箱にしまった。
「ホノカさん、おみず飲んでください・・」
サトウは言った。
“俺には何もできない・・”
サトウは思った。
しばらくして、ホノカが口を開いた。
「リョウと私は同じ高校の同級生だった。私は吹奏楽部でトランペットを吹いていた。
リョウはロックバンドのベーシストだった。
リョウは学校の女子の中では超人気ものだった。
私はそんなリョウのことを少し軽蔑さえしていた。
高校を出た私は、音楽イベント会社に就職して平日は重い機材を運んでコンサートの設営をして、週末に小さなライブハウスでトランペットを吹いていた。
しばらくたったある日、大物ミュージシャンのコンサートの設営の仕事があり、音楽プロデューサーとして来ていたリョウと再会した。
大物プロデューサーになっていたリョウは、すっかり別人になっていた。
そして私は、リョウに誘われてアメリカへ行き、
豪奢なマンションの40階で、一緒に住み始めた。
目の前の街が全部見渡せるような所。
夢のような場所で、夢のよう生活。
私は我を忘れた。
何も不自由のない生活だったわ・・。
彼が魔法の杖を一振りすれば、私ののぞむものが全て手に入った。
リョウに私の他に同じような恋人がいたとしても気にならなかった。
全てのものが手に入った」
ホノカは言った。
「じゃあなぜ、別れたのですか・・」
ホノカは、少しため息をついてから言った。
「彼は、本当に私の全てを愛してくれた。私の音楽以外はね」
ホノカは寂しそうに笑った。
サトウは口をつぐんだ。

「彼には誰かを羨んだり、憎んだりという感情はない。音楽の中にある耽美な香りの蜜がどこにあるか嗅ぎ分けられる。がらくたの中からでも、もしそこに真実の美があればそれを嗅ぎ当てることがきる。でも、私の音楽の中に真実はなかった。ただそれだけ」
ホノカは力なく笑った。
「ホノカさん、ピクルス好きの元彼って、リョウさんですか?」
ホノカは否定も肯定もしなかった。
サトウは苦しそうなホノカを見ているのが辛かった。
なんとか助けたかった。
しかし、今の俺には誰も助けられない・・
今の俺はホノカさんも、おじさんも助けられない、
サトウは自分の無力を感じた。

しばらくしてホノカが言った。
「サトウくん、の淹れたコーヒー飲みたいな」
ホノカは涙で滲んだ自分の目をニットの袖で拭った。
サトウはカウンターに入り、コーヒーの豆を丁寧に挽いた。
コーヒーミルを回しながら、サトウは思った。
“いま、俺がホノカさんにできるせいいっぱいが、美味しいコーヒーを淹れることだ”
サトウは、ケトルを火かけて、湯気の向こうに見える、美しいホノカの姿を感じながら、心をこめて、コーヒーを淹れた。

24
2025年10月11日月曜日
俺は、次のテストまで成績を上げる。
俺は、その時すでに8ミリカメラなど、どうでもよかった。
ただ、中にある、ニシムラ・トモコのフィルムだけはどうしても取り返したかった。
あの日のニシムラの姿を焼き付けたフィルムをこのまま無くしてしまいたくなかった。
しかし、俺は中学からほとんど勉強をしてこなかった。
成績の順位は、いつも後ろから数えた方が早い。
なにから始めたらいいのか、皆目見当がつかなかった。
サトウなら、緻密な計画立ててやるんだろうが、俺はそういうのは苦手だ。
俺は、学校で、昼の弁当を食ったあと、どうしたら良いか途方に暮れていた。
ふと、空手部のカタヤマ・ゲンキが俺の席の前に立っていた。
「コウジ、次のテストまで、とにかく三年分の教科書、声を出して読め。他のことはするな。お前だって三年高校生やってるんだ。何か頭に残ってるはずだ」
カタヤマは言った。
「余計なこと考えんなよ。何も考えないで教科書だけずっと読んでろ、今度のテストはマークシートだ。いざとなれば鉛筆に数字書いて転がして出た数を書け」
俺は、よくわからないが、カタヤマの言う通りにすることにした。

模擬試験は10月19日、日曜日だ。
そしてその日は、サトウの水泳大会の日と重なっていた。
俺はカタヤマに言われた通り、家でとにかく机に向かって教科書を読んだ。
何もわからない。
とにかく英語の教科書の最初のページをめくった。
ページの端に、サトウと交代で書いたパラパラマンガが残っていた。
ついその続きが描きたくなった。
描き始めてしばらくして俺は手を止めた。
「だめだ、だめだ、集中しろ」
俺は、自分のほっぺたを叩いて、気合を入れて教科書を読み始めた。
不意に、窓の外から野太い男の声がした。
「コウジ先輩!いっしょにランニングしましょう!」
ベランダから下を見ると、30人近くのジャージ姿の学生たちがぞろぞろ集まっている。
「やべえ、俺の家、焼き討ちする気かよ!」
西南高校水泳部と、東南高校水泳部の部員たちだ。
近所迷惑だし、最悪警察に通報されるかもしれない。
俺は、慌てて階段を駆け下りて玄関に行った。
「お前ら恥ずかしいんだよ。しかも謹慎執行猶予だから、外出られないんだ。ランニングはしたいけどな」
俺は言った。
「コウジ先輩、俺ら、先輩の謹慎なんてどうでもいいんですが、先輩の8ミリ映画の主人公、東南高校水泳部の、ニシムラ・トモコ先輩でしょ」
モトヤマは言った。
「?」
いつの間にか俺がニシムラ・トモコ主演で映画を撮ることになっている?
「コウジ先輩、俺ら、東南高校のニシムラ先輩の大ファンなんです!先輩の謹慎より、ニシムラ先輩の最高に美しいフィルムがお蔵入りにすることの方が、罪が重いですよ!」
ヒラツカが叫んだ。
そうしていると、後ろの方から、東南高校の入学したばかりの一年生の男子部員が何か持って前に出て来た。
「このお守り、ニシムラ先輩から預かって来たものです。コウジ先輩、テスト失敗したら俺らコウジ先輩を絶対許しませんよ!ニシムラ・トモコ先輩は僕らのアイドルなんですから!」
「わかったよ・・わかったからたのむから、帰ってくれ」
俺は力なく言った。

「みんな、ランニング行くぞ!」
西南高校、東南高校、二校の水泳部員は、ランニングに戻った。
「モトキ先生より、あいつらの方が、よっぽどコワイ」
俺は、自室に戻って、トモコの、お守りを首からかけた。

後輩たちが、いってしまうと俺は教科書を開いた。
夕飯食って、風呂入って、また教科書を読んだ。
午前0時を回って、
2025年10月12日火曜日になった。
深夜ラジオ聴きながら俺は教科書を読んだ。
気がつくと朝刊を配る新聞配達のバイクの音が聞こえた。
時計を見ると朝の五時だ。
試験までわずか一週間しか時間がないが、
逆に言うと一週間だけ頑張ればいいとも言える。
そのうち窓から太陽の光が入ってきた。
それを見て、俺は少しだけ布団に横になった。
耳元のスマホに着信があった。
“コウジ、学校さぼんなよ”
ニシムラ・トモコからのメールだった。
コウジは、すぐに返信して目を閉じた。


25
2025年10月12日火曜日
早朝、ちょうどニシムラ・トモコはランニングをしていた。
毎朝三十分ほど走って、ストレッチして身体を温めてから、学校が始まる前にスイミングクラブで朝の水泳練習をする。

「電灯ついてるな。本気になったかな?」
トモコはランニングしながら、コウジの家を通った時、コウジの部屋の電灯が付いているのを見た。
すぐにスマホを出して、コウジに短いメールをうった。
コウジは、ほとんどトモコのメールに返信しない。
その日は、珍しくすぐに返信があった。
“うるせー、今から寝る”
とだけすぐに返って来た。
トモコは、それを見てから、スマホを仕舞って、また走り出した。

26
俺は、朝方、少しだけ仮眠をとって、学生服に着替えた。
10月から冬服にかわっていて、全身黒の詰襟だ。
モトキ先生に見つかったらやばいので、帽子もきちんと被った。
家族はもう出かけている。
俺は、顔を洗って家をでた。
外の風は冷たくて気持ちよい。
どうしてかたまらなく、ニシムラの顔が見たかった。
俺は、学校に行く前に、小学校のころ通っていたスイミングクラブに向かった。

ちょうどニシムラとサトウが朝の練習をしている時間だ。
自動ドアを開けると、子供の頃からよく知っている受付のお姉さんがいた。
「コウジくん、久しぶり」
お姉さんは言った。
「ギャラリーで少し観覧いいですか」
「いいよ。コウジくん高校卒業したら、成人クラス定員あいてるよ。いや、インストラクターのアルバイトで来てくれてもいいよ」
受付のお姉さんは気安く通してくれた。
二階のギャラリーの窓ガラスは、湿気で雲っているが、端の七コースでニシムラの泳ぐ姿をすぐに見つけられた。
一コースではサトウの姿も見えた。
サトウとはずっと水泳部で一緒に泳いできたが、ニシムラが泳ぐ姿を見るには久しぶりだ。
柔らかく自在に動く身体。躍動感のあるフォーム。
ニシムラが泳ぐ背中を水が渦巻いては後ろに流れていく。
規則的なクロールの動きを繰り返し、やがて25メートルの壁が来るとくるりとターンしてまた戻ってくる。
壁と壁の間をただいったりきたりするだけのスポーツにどうしてこんなに身体が熱くなるのだろう。
俺は制服の上から、ニシムラにもらったお守りを撫でて、スイミングクラブを出た。
そして一人で学校へ向かった。


2025年10月16日木曜日
俺は授業を終えて、家に向かっていた。
試験まであと二日だ。
朝方まで勉強するようになって4日目。
俺は、空き時間に、短い仮眠を何回もとってなんとか睡眠時間を稼いでいた。
帰り道、俺は本屋にふらりと立ち寄り、英語の問題集を見ようとした。
俺が問題集の手を伸ばそうとすると同時に別の誰かの手が問題集の背表紙に触れた。
俺は隣をみた。
カタヤマだった。
「コウジ、問題集なんて買うな。ずっとバカだったんだ、4日勉強したくらいで、バカは治らん。今更問題集しても、自分のバカさを再認識して落ち込むだけだ」
カタヤマはそういうと、何冊かのノートを鞄から出して俺に渡した。
「これは、ごく普通に授業に出てた奴の、なんの変哲もないノートだ。あと二日はこれを読んでろ。それ以外他のことはするな」
カタヤマは言った。
俺は綺麗な高校三年分のノートを受け取った。
カタヤマは少し口のはしで笑った。
「いい情報を一つやろう。お前が模擬試験を受ける日、水泳の大会がある」
「知ってる。友達のサトウが出る大会だろ」
俺は言った。
「そうだ。その大会に東南高校三年のニシムラ・トモコが二年ぶりに試合に出る。
お前は知らないかもしれないが、お前の友達の東南高校のニシムラ・トモコは各校にファンクラブがあるほどの人気者なんだ。
本当はお前が気軽に話していい相手じゃない」
カタヤマは続けた。
「うちの西南高校には、イチノセが主宰するニシムラ・トモコのファンクラブがある。部員4名全員三年の国立クラスの秀才だ。
そいつらはその日試験をさぼって、ニシムラ・トモコの試合の応援に行く。つまりはコウジ、お前は当日試験を受けるだけで自動的に順位が4番くり上がる。お前はツイてる」
カタヤマは言った。
「そのノートはニシムラ・トモコから預かったノートだ。ありがたく使えよ。ただしイチノセには内緒だ。くれぐれも言われたこと以外するなよ」
カタヤマはそう言うと、足音も立てず本屋を出て行った。
イチノセが映画作りの仲間に入りたがった理由がわかった。しかしそれは俺には関係ないことだ。
俺は、とにかくカタヤマに言われた通りするだけだ。
俺は家に入り、机に向かった。

27
2025年10月19日日曜日
模擬試験当日
俺はいつも通り、午前5時まで机に向かい、
仮眠を取るために布団に横になった。
いよいよ模擬試験の日が来たのだ。
そしてニシムラ・トモコは今日、水泳の試合だ。
俺は布団の中から、ニシムラにメールをうった。
“頑張れよ”
数分してスマホが振動した。
“お前こそ頑張れよ。幸運を祈る”
ニシムラの返信を読んでから、
俺はスマホをしまって目を閉じた。


俺は少し眠ったあと顔を洗って飯を食って、制服に着替えた。
出かける前、鏡に向かって自分を見た。
冴えない高校生だ。
俺はそう思いながら、ポケットに入れたお守りを握った。
多分トモコはすでに水泳競技場に入ってウオーミングアップをしてる頃だろう。
ポケットのお守りを、首に掛け直した。

西南高校の校門の前まで行くと、カタヤマが
詰襟の制服で立っていた。
俺は、カタヤマに近づいた。
「カタヤマ、ありがとう。お前のおかげで俺は今日まで頑張れたよ」
カタヤマは眉一つ動かさず無表情のまま言った。
「お前は甘い。ここで俺を倒したら、お前の順位は自動的にもう一つ上がる。どうするお前はそれだけの覚悟ができているか」
そういうとカタヤマは黒い詰襟の上着を脱いだ。
カタヤマの鍛え上げあげられた上半身が現れた。
「試験開始まであと十五分だ。どうする?」
カタヤマは静かに微笑んだ。

2025年10月19日日曜日、
サトウは、レースのために、埋め立て新しい水泳競技場にいた。
400メートル個人メドレー予選3組8コース。
控え室で出番を待つ七人のスイマー。
いつもギャラリーから見ているだけだった
隣にいるのは憧れのトップスイマーたちだ。
“俺は今からすごい奴らと泳ぐ。
親父、ここまできたぞ“
サトウは思った。

サトウの組が呼ばれ、8人のスイマーはプールサイドまで歩いた。
サトウは、一番はしの八コースのコース台にゆっくりと登り、波打つプールの水面を眺めた。
揺らめく水面の下に、黄色く塗られた規則的なラインが見える。
憎らしいくらい美しい。
サトウは、屈んでプールの水を一掴み手に取り体に馴染ませた。
「さあ、最高に楽しい時間が始まるぜ」
両手でゴーグルをはめて、身体を伸ばした。

スタートの合図が鳴り、8人は綺麗に水面に飛び込んだ。
一種目はバタフライだ。
ドルフィンキックして水面に現れたサトウは7位からすでに3メートルは離されていた。
しかし水面に現れたサトウは冷静だった。
隣で誰が泳いでいても、ペースを崩さない。
自分を見失わない。

3メートル離されたサトウは、それ以上リードを許さなかった。
決勝レースに備えて、力を抑えていた隣の選手は焦った。
いつまでも最下位の8コースが食い下がりリードが開かないからだ。
よって、つられてコース上の七人とも、前半から全力のハイスピードレースになった。

トップレベルのスイマーたちが、サトウの動きに戸惑っている。
だれが最初に脱落するのか、会場中が固唾を飲んで見守った。
背泳が終わった。
すでに意地の張り合いだ。
3種目、平泳のターンを終えて、次は最後のクロールだ。
皆が鎖を放たれた魚のようにハイスピードでクロールを泳ぎ始めた。
観客は電光掲示板を見た。
トップの四コースは現在、大会新記録のマイナス1秒53。
このまま行けば、トップは大会新だ。
ラスト20メートルで客席がざわざわしだした。
みんながこれから訪れる歓喜の瞬間を期待した。

あと、10メートル、あと5メートル、

トップがゴールした瞬間、会場中が割れんばかりの拍手に包まれた。
いま、観客の目の前で新しいコースレコードが刻まれたのだ。
そしてだいぶ遅れて最後にサトウがゴールした。

サトウは、全ての力を使い果たして、プールに仰向けになって力尽きて浮かんでいた。
誰かがサトウの腕を掴んでプールサイドから引っ張り上げた
「ナイスレース」
大会新記録を出した、四コースのスイマーだった。
四コースのスイマーは広く、指の間に水かきまでありそうな手の平で、サトウに右手を差し出した。
「また、プールで会おう」
4コースのスイマーとサトウはがっちり握手を交わした。


俺は、西南高校の校門の前で、カタヤマと睨み合い動けずにいた。
カタヤマが少し右に動くと、俺は左に動いた。カタヤマの動きに合わせて、彼の身体の筋肉が波打つように柔らかく連動した。
しなやかに無駄なく動く鍛えあげられた身体だ。
柔らかな動きのカタヤマとは反対に俺の身体は強張り、呼吸が浅く早くなった。
「それでは俺に勝てないぞ。息を整え、しっかり身体中に酸素を行き渡らせろ」
カタヤマは言った。
俺は息をゆっくり吸い込んだ。
そして言った。
「わるいが、カタヤマ、お前の挑発にはのせられん。
俺はお前と闘ってまで順位を上げる気はない。
つまらんことするな。通るぞ」
俺はカタヤマのそばを通り抜けた。
カタヤマはすれ違い様に俺の肩をつかんだ。
ものすごい握力だ。
「良い判断だ」
カタヤマは穏やかに言った。
「心配しないでも、答案で勝負をつけてやる」
俺は言った。
カタヤマは口のはしでで小さく笑った。

試験が始まり、エンピツの音がいっせいに鳴り響いた。
俺は焦りながら、問題をパラパラと最後までみた。
わからない。さっぱりだ。
思考停止だ。
カタヤマに大口叩いたことを後悔した。
見たこと無い問題ばかりだ。
こんなの教科書に載ってなかった。
身体中が硬直して、背中から油汗が流れはじめた。
俺はにわかに絶望した。
カタヤマの言う通り、たかだか1週間教科書眺めたくらいで、急にバカが治るわけがない。
俺は答案を早々に裏返しにして全てを諦めた。
沈黙の時間が流れた。
しばらくして俺は不思議なことに気がついた。
さっきまであんなにうるさかったエンピツの音がまるでしない。
教室中が水をうったように鎮まり返っている。
俺は落ち着いて考えた。
俺が教科書で見たこともないと言うことは、
誰にとっても難問・・。
イチノセたちみたいな、化け物級の超秀才はなら解けるかもしれないが、奴らは今日、ニシムラ・トモコの応援に行っていて休みだ。
教科書にない誰も知らない未知の問題ということは、
すなわち今まで知識を記憶して勉強してきた者のアドバンテージを限りなく打ち消し、全ての受験生がイコールコンディションになる唯一の状況・・
これはチャンスなのか・・
それでも俺の不利は変わらない・・

その時、ふと俺は前を見た。
試験監督は、進路指導部のモトキ先生だった。
横暴な態度で長いスカートの下で足を組み、腕組みをして窓の外を睨んでいる。
俺をこの状況に追い込んだ本人だ。
俺は、急に冷静になった。
そしてニシムラ・トモコに貰った、お守りを手で触った。
身体中に酸素を行き渡らせる為ゆっくりと息を吸い込んだ。

全学年250人、そのうち化け物級の超秀才が1割の二十五人として、その中の四人が休みだから21人。
残り225人が俺と同じ条件と考えて、もし俺が225人から抜け出し、その上でほんの少し運が見方すれば、十一人を飛び越してベスト10に滑りこめるかもしれない。
都合の良い考えだが、可能性はゼロではない。
俺は、答案を表にして、問題をもう一度、はじめから見ていった。
あれこれ考えるな、しっかり問題を見て、感じろ、どこかにチヤンスがあるはずだ。
俺は直感を信じて目についた問題に取り掛かった。
わずかな隙間から、なんかが見えた。
俺の気持ちは最高に高揚してきた。
俺はエンピツに手を伸ばした。

すべてに試験科目を終えた俺は頭から湯気が出そうなくらいくたくただった。
しかし、とても心地とよい、疲労感だ。
俺が教室を出ようと、廊下にカタヤマが立っていた。
「カタヤマ、ありがとな」
俺は言った。
「俺には礼なんていらない。
そのお前の1番のいい表情でニシムラ・トモコに会いに行ってやれ」
カタヤマはそういうと、鞄をもって帰って行った。
俺は、肩から鞄をひっかけて、ニシムラ・トモコのいる水泳競技場に向かった。  

28
2025年10月19日日曜日
ニシムラ・トモコは、2年ぶりに、水泳のレースの控え室にいた。
再び、自分が、此処にいる事が奇跡だと感じていた。
消毒液の匂いが混じった湿度の高い空気に触れると、これからレースが始まるんだな、と思う。
心臓が高鳴る。

100メートルクロール予選一組。8コースにニシムラ・トモコはエントリーしていた。となりの6コースは、東南高校水泳部の後輩、ヨシダ・ミヨだ。
ヨシダとは、今日は朝から一言も話していない。
予選控え室を見渡しても知っている選手はいない。
すでに世代交代が進んでいるのだ。

トモコは目を閉じて、子供の頃、初めて25メートル泳いだ日のことを思い出していた。
夏の炎天下の屋外プールで、父親が自分の前を歩いて、それに向かって両腕を必死に動かした。
その頃、永遠の距離に見えた25メートルを今は12秒ほどで泳ぐ。

トモコはいくつになっても、レースの前には初めて25メートル泳いだ、あの暑すぎる夏の空を思い出す。
“苦しくなれば足をつけばいい”
父親の声を思いだすたび絶対足はつかないと反発した。

隣でヨシダ・ミヨがチラッとトモコを見た。
ヨシダ・ミヨが7コースで、トモコが8コース。
準備の声がかかって、トモコはコース台に向かった。
トモコはコース台にたち、身体をかがめた。
スタート前の静寂。
スタートの体勢になった。

スタートの合図がなり、50メートル先の壁に向かって思い切りジャンプした。
水に入れば何も考える必要はない。
思い切り身体を動かすだけだ。
50メートルターンして、トモコは自分が先頭であることを確認した。

トモコは泳ぎながら、昔よりずっと身体を取り巻く水の流れを感じられることに気がついた。
まだ力が足りない。しかし身体が柔らかく水になじむ。
まだいける。
トモコは確信した。
渾身の力で後半スパートをかけた。
身体が思うように動いてスピードがぐんとあがった。
しかし、最後の10メートル、トモコの隣に誰かが並んだ。
隣のコースのヨシダが追い上げてきたのだ。
トモコはさらにピッチをあげた。
必死の思いでスパートして、トモコは隣のヨシダとほとんど同時に壁をタッチした。

すぐに顔を上げて、ブラウンのゴーグルを外して電光掲示板を見上げた。
一番上にトモコの名前があった。
二位はヨシダ・ミヨだ。
ヨシダとの差わずかコンマ一秒。
一位でゴールしたのに心が乱れる。勝った気がしない。

7コースの2位のヨシダはゴーグルを外して、トモコの方に近づいて来た。
「おかえりなさい」
ヨシダは、半分顔を水につけたまま笑顔で言った。
その時、トモコはどうしても笑顔を返せなかった。
トモコの決勝レースは4位だった。
ヨシダは6位。
プールから上がって、トモコは感じたことのない孤独感に包まれていた。
ずっと気づかっていたヨシダがこんなに成長した、
そして自分もプールに戻ってこれたのに、
どうしてこんなに孤独感を感じるのだろう?
遠くにヨシダ・ミヨが誇らしく歩いているのが見えた。
ヨシダはとても強くなった。
そして、ウオーミングアッププールで、次のリレーに備えて泳ぎ始めた。
三年間でヨシダ・ミヨは本当に強く、速くなった。
しばらくして、トモコは気がついた。

“わたし、こんなに欲張りだったんだ”

トモコは、なんか笑えてきた。
ヨシダ・ミヨがいる、そして、これからプールで、自分を待ち受けるたくさんの最強のライバルたちがいる。
わたしは、強くなる。
恋も、勉強も、栄冠も全て手に入れる。
トモコはからだの奥から熱がこみ上げてくるのを感じた。
いつの間にか孤独感は去り、トモコは今まで感じたことがないくらいに爽快な気分に包まれていた。

トモコが、水泳競技場を出ると、自分の試験を終えたコウジが立っていた。
トモコは、コウジの顔を見ると、自然に笑顔が湧いてきた。
“自分の中にこんな笑顔が隠れていたんだ”
トモコは嬉しくなった。

「ニシムラ、ノートとお守りありがとう」
「いえ、どういたしまして」
トモコは話しながら、コウジが笑っているのが嬉しかった。
「トモコ、たこ焼きでもおごるよ」
コウジは言った。
「たこ焼き。ありがとう、お腹ペコペコだから、めっちゃ素直に嬉しい」
二人は、夕暮れの海沿いの道をいつもよりゆっくり歩いた。


サトウは、自分の水泳人生の中で、今、自分ができることの全てをやり尽くした気がしていた。
身体も気持ちもくたくただ。
しかし、とても晴れやかな気分だ。
サトウは、制服に着替えて、一人で水泳競技場を出た。

太陽は東の水平線に沈みかかけている。
サトウは、近くにある“うみねこ”のおじさんが入院している病院に向かった。
たぶん、またサメジマ医師に追い返されるだろう。
それでもいい。
とにかく病院に行くんだ。

サトウが自動ドアの前に立つと、サトウが来るのをわかっていたかのように、杖を手に持ったおじさんが、ドアの近くの椅子に座っていた。
サトウはおじさんの顔を見た途端、張り詰めていた気持ちが急にゆるんだ。
「おじさん、俺、頑張ったよ。出し切った」
サトウは夢中でおじさんに話しかけた。
おじさんは、優しくうんうんと頷いてサトウの話を聞いた。
そしてサトウの頭に大きな掌をのせた。
「サトウくん・・・・」
おじさんはそういって微笑んだ。
まだ少しうまく話せない見たいだけれど、顔色はとても良い。
「サトウくん、父の退院が決まったよ。10月25日土曜に退院だよ」
ホノカが病院の奥から現れた。
「サトウくん、サメジマ医師から預かりものだよ」
それはページがくろく色変わりした、くたくたのノートの束だった。
「サメジマ先生が、医大の大学受験の時につかったノートだって。サトウくんにわたして欲しいって頼まれたの」
ホノカは、そう言って、紙袋の中からノートの束の一部を取り出した。そこには汚いが筆圧の強いサメジマ医師の字でノートの中が埋め尽くされていた。
「ありがとう」
サトウは誰にいうでもなく呟いた。
「ホノカさん、一緒に帰りませんか?」
サトウは言った。
「いいよ」
ホノカは、返事して、サトウに横に並んだ。
おじさんは、杖をつきながら自分の力で階段を上がって行った。
ちゃんと自力で歩いているおじさんの姿を見てサトウは嬉しくなった。

「サトウくん、わたしの連絡さき渡しておくね。何かあった時のために」
ホノカはそう言ってメモ帳をちぎって自分の連絡先を書いてサトウに渡した。

「俺、スマホも携帯も持ってないんです。ほんとですよ。だから家の電話番号でもいいですか」
ホノカはうなずき、サトウは、ホノカから鉛筆を借りた。
ホノカのエンピツにはトンボにマークがついていた。
「トンボのマークの鉛筆だ」
「うん。高校最後の文化祭予定日に学校から配られたの」
「へえ」
サトウは、返事した。
「わたしの高校最後の年は、大変な年だったの、オリンピックが延期になり、学校の授業が遠隔になり、コンサートがなくなり、運動会がなくなり、文化祭がなくなった。私の吹奏楽部の引退公演もなくなり。高校最後の文化祭で、友達とバンドを組んでコピーバンドでドラムを叩く予定もなくなった。文化祭をする予定の日に、鉛筆だけが家に届けられた・・だから私、高校三年の一年が、全く思い出せないのよ・・」
サトウはホノカのメモ帳に自分の自宅に電話番号を書き込んだ。
そうして。ホノカとサトウは、しばらく黙ったまま、並んで歩いた。

サトウは、ホノカが元気になる話題を探して、トイプードルのモイのことを聞いた。
「モイは元気?」
「元気だよ。今日は八百屋さんで店番してるよ。今から連れに行くよ」
サトウはと、ホノカは、港の見える、海の波止場まできた。
遠くの方にライトアップされた、赤いタワーが見える。
不意にサトウはホノカに言った。
「ホノカさんは、誰かが、誰かを好きになるとして、年齢の差って気にしますか?」
「いや、全然気にならない」
ホノカは言った。
「例えば相手が、太ってて、メガネ掛けてたとしたら?」
「気にしないよ、全然」
「ピーマンが嫌いだったらどうですか?」
「うん、気にしない」
ホノカは言った。
「じゃあ例えばチーズ食べられない女の子がいたとして、サトウくんは気になる?」
「ぜんぜん大丈夫です」
ホノカは微笑んだ。
「サトウくん。これ、なんの心理テスト?」
ホノカは笑った。
サトウは、立ち止まってホノカを見て言った。
「テストじゃないです。ホノカさん、好きです。付き合ってください」
サトウは、少し震え声で言った。
「ありがとう。付き合おう」
ホノカは即答して、微笑んだ。
波が打ち寄せる波止場で、
海の向こうにはライトアップされた赤いタワー、最高のシチュエーションで、サトウは、ホノカにサトウにとって生まれて初めてのキスをした。

ホノカと、サトウは八百屋さんまで、トイプードルのモイを迎えに行った。
「おじさん、お父さんの退院、10月25日に決まったよ」
ホノカは八百屋のおじさんに言った。
八百屋さんは、モイの背中を撫でながらぼそっと言った。
「そうか、よかった。だったら退院祝い“うみねこ”で何かしたいね」
八百屋さんは冗談ぽく笑った。
サトウは、急に閃いた。
「ホノカさん、ホノカさんが高校三年の時にできなかったバンドをその日かけましょう!店の準備は僕がします」
そこに八百屋さんが口を挟んだ。
「そうか、ライブか!そしたら俺の昔の音楽仲間に声を掛けてみるか」
八百屋さんと、ホノカ、サトウ、モイは、にわかにやる気が出てきた。


10月25日、土曜日、
その日は“うみねこ”のおじさんの退院の日だった。
そのホノカは、おじさんをタクシーに乗せて“うみねこ”に向かった。

“うみねこ”はいつになく賑わっていた。サトウはエプロンをして、忙しくコーヒー淹れたりサンドイッチを作ったりしている。
フロアにはトイプードルのモイがいて、小さな尻尾を振ってあちこちに愛想を振りまいている。

奥の小さなスペースで、数人の人が楽器演奏の準備をしている。
お客さんと演奏者の境さえ曖昧なささやかな舞台だ。
八百屋さんが昔の音楽仲間を集めてくれた。
八百屋さんは自分でドラムも叩くらしい。
テーブルは、ほぼ満員。
“うみねこ”にこんなにお客さんが入っているのを見たことがない。
しばらくすると楽器の用意がすっかりととのった。
八百屋のおじさんがドラム、ペットショップの店長さんがエレキギター、常連の詰碁のお爺さんがエレキベース、以上三人のメンバーだ。
ドラムの八百屋のおじさんがドラムにつけられたマイクに向かって言った。
「今日は商店街に、爆音だしていい許可をとっています。素敵な音楽をお楽しみください」
八百屋のおじさんは、いつもはだみ声で、店先で売り物の口上を言っているのに、今日はかしこまって、とってもベタな挨拶をしている。
しばらくすると、ドアがからんとなり、ホノカと一緒に、“うみねこ”の店主のおじさんが入って来た。
おじさんが、テーブルに座ると2、三人のお客さんが、おじさんのテーブルに向かう。
普段あまり表情を出さないおじさんが少しだけ微笑んでいる。

天井の明かりが消えて、小さなステージにスポットライトがついついた、ドラムとギターの人が話す横から、少し丸顔のベレー帽のお爺さんが年季の入ったベースギターをかかえてステージに上がった。
いつも来る常連の詰碁おじさんだ。
「あのお爺さんね、私の学校の校長先生なの」
ホノカがサトウの耳元でささやいた。

ペットショップの店主さんがギターアンプにコードを差し込むと
ブーンという低い音が喫茶店中に響きだした。
音の振動にスネアドラムも、コーヒーカップの中のコーヒーも震えている。

八百屋のおじさんが太い腕でドラムステックを掲げて、4つカウントして、音楽が始まった。
八百屋さんの機敏なバスドラムに、詰碁お爺さんの跳ねたベースが乗っかる。
詰碁お爺さんの顔はいつ通り眠たげだが、お爺さんのベースはドラムのリズムと一体となりお腹のそこにぐんぐん響く低音リズムを鳴らしまくった。
そこに、ペットショップの店主さんの泣きのギターが加わる。
おじさんの口が、ギターのフレーズに合わせて開いたり閉じたりしる。

演奏が始まり、俺はサトウと同じテーブル席で演奏を見ていた。
俺は生のバンド演奏を見たのは生まれて初めてだった。
目の前で聞く音楽はヘッドホンで聴くのと全然違う。
音のかたまりが束になって身体に迫ってくる。
すごい迫力だ。
ドラムのビートに心臓が高鳴った。
商店街バンド、大根みたいな八百屋のおじさんの腕がどこどこ
とドラムソロを叩いた。
野菜を売るときの口上と同じリズムで、おじさんはドラムセットの中で雄叫びのようなフレーズを叩いた。
音楽が流れる中、後ろのドア開く気配がした。
向かいのサトウがた立ち上がり、足早にドアの方に向かっていった。

そこには黒い帽子の上下に黒いスーツ、黒いマントの華奢な男性が立っていた。
まるでモデルのような体型にカールした長い髪の、
明らかに場違いな異様な雰囲気を醸し出している。
サトウは、リョウに言った。
「リョウさん、帰ってください。僕は何があってもあなたを阻止します」
リョウは右手で帽子のツバを少しあげて、サトウに向かって無邪気に微笑んだ。
「僕と話す前にまず、眉間のシワをゆるめたまえ、ホノカが欲しいのなら、彼女の微笑みを守れる男にならなければね」
リョウは自分の右手の人差し指をサトウの眉間にそっと当てて言った。とても男のものと思えない優しい口調で。
サトウは両足を踏みしめて微動だにしない
「君は、全てなんでも真剣すぎる。人生はもっと簡単でシンプルなものだよ。楽に生きなきゃ」
リョウは、そう言うとなれなれしくサトウの背中に腕を回した。サトウはリョウの予想外の行動にうろたえた。
リョウは、まるで長年の恋人のようにサトウの肩を抱いてサトウをテーブルに腰掛けさせた。
「この席に今からもうひとり友達が来る。君はここで待っていてくれ」
リョウはそういうと、奥のテーブルで座る、“うみねこ”の店主のテーブルに向かった。
サトウは、一つテーブルを空けたまま、目の前の楽器の演奏を見ていた。
3曲演奏の演奏が終わって、
ドラムのおじさんが立ち上がって頭を下げた。
そのタイミングで、“うみねこ”ドアが開き、サトウの隣に一人の女性が腰掛けた。
深い藍色のトップスに藍色のスカート。
グレーのスニーカーを履いた髪の長い女性。
サトウは、隣を見て固まった。
「慌てんな、今日の私はプライベートだ。校則どうこうは言わない。ただ、リョウに呼ばれただけだ」
隣の女性は、西南高校、進路指導部のモトキ・アメ先生だった。
「そんなことより、黙ってホノカのこと見ていてやれよ、意外とあいつあがり症なんだからな」
そうしているとホノカがトランペットを持ってステージに上がった。
ゆったりとして黒いパンツに真っ白いシャツをラフにきて、唾の広い黒い帽子をかぶっている。

商店街バンドにホノカのトランペットが加わった。
八百屋のドラム叩いていたおじさんが、コーラスマイクに向かって叫んだ。
「トランペット、“うみねこの”美人姉妹の妹、シイノキ・ホノカ!」
客席から歓声が上がった。
ホノカは、トランペットを高く掲げて、声援に応えた。
そして遠くを見つめながら、ゆっくりトランペットのマウスピースに唇をつけた。
八百屋のおじさんの早いカウントがあり、さっきとはうって変わって驚くほどハイテンポでテクニカルな演奏が始まった。
バンドの音にのって、ホノカのトランペットは縦横無尽にトリッキーなフレーズを吹きまくった。
普段の動物好きで控えめなホノカが、まるで別人のようにいきいきと身体全体で音楽を奏でていた。
あっという間に一曲目が終わった。
演奏の間の静かな時間、モトキ先生がサトウの耳元で言った
「サトウ、“うみねこ”美人姉妹の姉は私だよ。店主は喧嘩別れした父おやだ、今日は五年前にできなかった、東南高校文化祭の私たちのバンド演奏のためにきたんだ」
モトキ先生はサトウの前で、赴任してきて初めて笑顔を見せた。
ホノカはそのあと2曲、合計3曲演奏して、ステージを降りた。
ホノカの演奏が終わるとすぐ、モトキ先生は立ち上がった。
「これはスミダ・コウジに返しておいてくれ、あいつ模擬試験、かっきり10番だったからな」
モトキ先生はそういうと鞄から8ミリカメラと撮影済みのフィルムを出して机に置いた。
モトキ先生はステージに上がって行った。

3曲終わって喫茶店の明かりがつき、ホノカは、トランペットをケースにしまった。
ドラムの八百屋のおじさんが、ホノカにドラムステックを渡した。
囲碁お爺さんは,ベースを肩から、かけたままアンプの音を少し絞った。
モトキ・アメ先生は、ステージに上がってペットショップの店主さんから、辛子色のギターを受け取って、椅子に座って慣れない手つきでチューニングを合わし始めた。
ホノカは、トランペットをサトウに預けて、ドラムセットに座った。
囲碁お爺さんが、客席に向かって手招きした。
少しはじらいながら、黒ずくめのリョウがステージに上がり、ピアノの前に座った。
いつものリョウと様子が違う。
さっきまで自信満々だったリョウが、
ただの学生みたいに見えた。
ホノカが立ち上がって、マイクを手にして行った。
「私が高校三年の時、今から五年前2020年の東南高校文化祭は中止になりました。だから今日はその時、ライブをするはずだった四人のメンバーで、一曲演奏したいと思います。文化祭リベンジです。ベース、東南高校、校長先生、ギターその時は卒業生でしたが、姉のモトキ(旧姓シイノキ)・アメ、ピアノ、アダチ・リョウ。そしてドラムは私、美人姉妹の美少女の方、シイノキ・ホノカです。
その時四人で練習した、大切なたった一曲だけ演奏します」

喫茶店の照明が消えて、ささやかなスポットライトがピアノに座るリョウを照らした。
リョウはメンバー全員とアイコンタクトを取った後、
ゆったりとピアノを弾き始めた。とても不揃いで、不器用なピアノを。
誰もが、すぐ曲名の見当がついた。
ビートルズの、レット イット ビーだった。
ギタリストで、音楽プロデューサーなのに、その日のリョウは不安定だった。
10万人はいるコンサートをプロデュースし、時にはステージでギターを弾くリョウの指先が緊張で震えていた。
ピアノを刻みながら、リョウのうわずった歌が入った。
リョウの歌に、ホノカのハイハットが入り、次に校長先生のベースがはいる。
ワンフレーズごと、順番に歌ってひとまわりした後、アメのギターソロが入った。
原曲のソロを何度も練習してコピーしたソロ。
一音目で、アメのギターの一弦が切れた。
アメは、だらりと垂れた弦を気にもしないで、懸命に使える弦でギターソロを引いた。
サトウは、そんな不安定で、揃わない演奏に、なぜか右目からぽろりと涙が落ちた。
“うみねこ”のみんなが、レット イット ビーを口ずさんだ。
サトウも歌を口ずさみながら、かつての高校生たちの演奏を見守った。
不器用で、必死なモトキ先生のギターソロ、緊張で指が震えるリョウ、身体を不器用に揺らしながらステックを振るうホノカ、それを優しくみまもる、校長先生。
わずか4分で2020年の文化祭のリベンジライブは終わった。

ライブが終わって、サトウはホノカの姿を探した。
ホノカは、出口でお客さん一人一人に挨拶をしていた。
両手に大きな花束を抱えている、その隣に、黒づくめに帽子をかぶったリョウがたっていた。
サトウは、ホノカに近づこうとして、すぐにやめた。
サトウが、じっとしていると、リョウの方からサトウに近づいてきた。
「リョウさん、今日の演奏、とても感動しました」
サトウはリョウに、素直に言った。
「そうか・・ありがとう、とても嬉しいよ。たぶん、今まで音楽してきて一番嬉しかったかもしれない・・ずっとこの四人で音楽をできなかったことを後悔していたから・・」
リョウは言った。その時のリョウは八百屋さんや、ペットショップの店主と変わらない、普通のお兄さんに見えた。
「サトウくん、ホノカを頼んだよ」
リョウはそういうと、“うみねこ”を出て行った。

サトウは厨房に戻り、エプロンをつけて、流しの三角コーナーを洗って、いつも通り冷蔵庫の残りの食材を調べた。
カウンターを見ると、“うみねこ”のおじさんと、モトキ・アメ先生が並んで座っていた。
「オヤジ、久しぶり」
モトキ先生は言った。
「ごめん・・」
おじさんは、モトキ先生に頭を下げた。
「あやまって欲しくて来たわけじゃない。ただ、いい音楽聞いて、うまいコーヒー飲みたくなった。それだけだ」
モトキ先生はそう言って、“うみねこ”を出て行った。

サトウがテーブルを、丁寧に拭いていると花束を抱えてホノカが戻ってきた。
サトウは、ホノカを見てカウンターまで行った。
「お腹減ったな」
ホノカは、カウンターに肘をついてサトウに言った。

サトウは少し咳ばらいをして言った。
「コーヒー飲みますか?今日はサンドイッチサービスです。ピクルス増量で」
サトウは言った。
「嬉しい。コーヒーと、サンドイッチお願い。でもピクルスはなしで、たった今から私、ピクルス嫌いになったから」
ホノカは、身体の前で指を組んで、少女のような顔で微笑んだ。
ピクルスなしのサンドイッチと、ブラックコーヒーをホノカの前に置いて、サトウは、自分のためのブラックコーヒーを淹れた。
「大きな花束だ・・」
サトウは、立ったままブラックコーヒーを飲みながら言った。
「でしょ」
ホノカは、サンドイッチを食べ終わると、花束をばらして、店中のテーブルに一本ずつ花を置いて行った。
演奏後の熱気と汗の匂いでいっぱいだった店内に花の香りが漂って来た。
そして、ホノカはおじさんのところに言った。
「お姉ちゃん来てたね。父さんもう充分だよ。もう笑っていいよ」
ホノカさんは言った。
それから、リョウは二人の前に現れることはなかった。


2025年10月30日木曜日
サトウは、いつものように“うみねこ”のカウンターに立っていた。
おじさんは、少し左半身が動き辛いようだが、
休憩しながら店にたった。
モイがおじさんを気遣ってか、前よりおじさんによりそうようになった。
相変わらず、詰碁のお爺さんは、いつものテーブルに座って、コーヒーを飲んでいる。
詰碁のお爺さんがサトウに手招きした。
「サトウくん、野球見る?チケット3枚あるんだけど、明日だけどいかない?」
お爺さんは、笑ながらサトウにチケットを差し出した。
「サトウくん、久しぶりにコウジくん達と行って来たらいい」
詰碁のお爺さんは言った。
サトウはお爺さんからチケットを受け取った。
地元の白いユニホームのチームと、
遠方から遠征してくる赤いユニホームのチーム。赤いユニホームのチームはサトウの父親の生まれ故郷のホームチームだった。

2025年10月31日金曜日
俺はサトウに呼び出されて、
野球場前の駅でサトウと待ち合わせた。
俺が改札前で立っていると、ニシムラ・トモコが大勢の人にまじって駅の改札から出てきた。
ものすごいたくさんの人が改札から降りてくる。
トモコはすでに白いハッピと白い帽子をかぶってメガホンを持っている。
遅れてきたサトウは赤いハッピをすでに着ている。
俺たちは、人混みの中、野球場に向かった。
「あ、俺あっちだから」
球場に入るとサトウが相手側のチームの側に歩いて行った。

子供の頃、父親に連れられて行った田舎の野球場は
お弁当を食べたり、のんびり野球観戦したが、
ここは違った。
まるでお祭りのように、みんな歌ったりおどっしている。
球場全体が揺れている。


白いユニホームのチームのピッチャーはまだ青年の顔つきの背の高い選手だ。
一回の表は赤いユニホームのチームの攻撃だ。
白いユニホームのチームのピッチャーは不安げな表情でベンチを出たが、マウンドにたったとたん、目つきが変わった。
サイレンがなり、
試合が始まった。
ピッチャーは、大きく振りかぶった。
大きな身体がしなやかに動き。
信じられないスピードボールがしなる腕から放たれた。
一球目は、ストライクゾーンから大きく離れてキャッチャーのミットに収まった。
「ボール!」
審判がゼスチャーした。
ものすごい歓声で球場が埋め尽くされた。

球場中が熱気と歓声に包まれている。


一回の表、ツーアウト、ツーストライク、ツーボール。
長身のピッチャーが、次に投げるタイミングをはかっている。

一瞬あたりが静まって、ピッチャーが渾身の一球を投げた。

ズドンとキャッチーのミットにものすごい音でボールがおさまった。
「ボール!」
バッターは、見送ってフォワボールで一塁に歩いた。
振り返るピッチャーと、どよめく球場。
罵声が飛ぶ。
俺は熱気にやられて、早くも頭がクラクラしてきた。

歓喜の声に包まれた相手方の応援席。あそこにサトウもいるはずだ。
サトウの喜ぶ顔を見えるようだ。

それでも長身のピッチャーはなんとか無失点で一回の表を終えた。

一回の裏は、
白いユニホームのチームの攻撃、
チームは一気に7点とってスリーアウトになった。
「そんなに点取らんでも、明日に残しといてくれたらええのに」
隣のおじさんがぼやいた。

隣のニシムラは、大声で応援しすぎて声が枯れている。
一回の裏に7点とったが、2回の表に4点返された。
5回にも5点返されて、7対9で白いユニホームのチームは逆転された。
それでも白いユニホームのチームの監督は、若いピッチャーを交代させなかった。
5回終わって、コントロールはさだまらなかったが、球速は衰えていなかった。
いや、ピッチャーの球速はむしろ速くなっていた。
「あのピッチャーすごいね。こんなにたくさんの人に見られて、怖くないのかな」
ニシムラは呟いた。
「あんな、普通の投手は、この球場のマウンドに立つだけでビビるんや。あいつは根性座っとる。ただもんやない」
隣の知らないおじさんがニシムラに行った。
「そうなんですね。私たちとそれほど歳、違わないのに」
ニシムラはおじさんに言った。

8回の裏、白いユニホームのチームの攻撃、最初の打者は、ピッチャーからだった。
赤いユニホームのチームの相手ピッチャーが一球目、胸元に当たりそうなスピードボールを投げた。
彼は、足を踏み換えて、それを思いきり振り切った。ボールはバットに当たり、強烈なライナー性の当たりになってレフトの選手の頭上を超えて言った。
レフトが打球の処理に手間取る間に、ピッチャーは一塁をけって二塁を目指した。
センターがボールを拾って二塁に投げると同時に、ピッチャーは二塁ベースに足からスライディングした。

タッチアウト。
「そんな、走らんでもいいのに」
隣にいたおじさんが言った。
ピッチャーはアウトになったが、次の打者、ベテラン選手がヒットで出塁した。
そのあと打線が爆発して4点を返してスリーアウトでチェンジになった。

9回の表、白いユニホームのチームは守りに入っていた。2点のリードをもらった若いピッチャーは、赤いユニホームのチームの打者に対して、さっきより落ち着いて二人をアウトにした。
三人目の打者に150キロを超えるスピードボールで続けて2ストライクをとったあと、続けて3球ファールにされた。

一度、タイムが取られ、マウンドに選手全員が集まった。
タイムの後、ピッチャーは気のせいか、さっきより目の輝きが強く鋭い表情になっている気がした。
そして、しなやかな動きで大きく振りかぶった。

最後の一球は拍子抜けするぐらいのスローなボール球だった。
打者は、思わずバットをふり、打ち上げたボールは弧を描いて外野までとび、
ベテラン外野手がガッチリキャッチした。

ピッチャーは帽子を取って外野手に深々と頭を下げた。
試合終了。
白いユニホームのチームが勝った。
俺たちは、叫ぶだけ叫んで、喉を枯らして球場を出た。

サトウは自分の応援チームが負けたので肩を落としている。
電車は人でいっぱいなので、俺たちは少し歩くことにした。
「もう卒業なんだね、寂しいな」
ニシムラは言った。
「俺は早く卒業したいよ」
サトウは言った。
俺は言葉が出なかった。
俺の目の前で時間はどんどん流れていく。
俺にはするべきことがない。

ニシムラは真剣に俺の目を覗き込んで言った。
「もし、私が水泳でオリンピックに出るのが夢だと言ったら笑う?」
「いいや、全然」
俺は言った。
「そう、ありがとう」
ニシムラは言った。
「俺はニシムラが、オリンピックの一番高いところで金色のメダルをかけられている姿しか想像できない」
それは俺の正直な気持ちだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?