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歯抜けの犬は肉を噛めない/禿げ猫は昔の夢を見る#1

〈禿げ猫〉について覚えていること。全身無毛。爪に毒。妖猫のような瞳。女。本名不詳。

 三十分。絞め殺すのにそれだけの時間を費やした。可愛らしい、小柄な老婆だった。爪に垢が詰まっている。老眼鏡の奥で白内障の瞳が濁っている。ずり落ちた鬘の下には綿毛のような白髪。表の名札には、当然〈禿げ猫〉ではなく桜井葉子という名が書かれていた。

 復讐の必要はない。五十年前、そう告げて死んだ依頼人の名は思い出せない。無数の仕事の中に埋もれた失敗をなぜ今更思い出したかもわからない。理由が追い付く前に焦りが背を押した。彼らに老衰で死なれては困るからだ。なぜ困る? なぜ?なぜだろう……。

 ともかく忘れぬよう名前を繰り返す。〈禿げ猫〉〈トーク〉〈鳥撃ち〉〈青信号〉。〈禿げ猫〉は今殺した。いや殺したのは〈鳥撃ち〉だったか? まあいい。終わるまでやるだけだ。彼らは仕事でも私情でもなく、ただのボケ老人の癇癪によって死ぬことになる。


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 禿げ猫は昔の夢を見る #1

🐈🐈🐈

 最近、よく昔の夢を見る。具体性に欠いた印象ばかりの水彩の夢。あの日の速度、あの日の強度、あの日の精度。それら過去の残滓にあてはめるように〈爪〉をふるったところで目を覚ます。夢と連動して閃光のように振るわれたはずの右腕の動きは、覚醒間際のボケた頭でも感じられるほど緩慢で、当然その先端には〈爪〉もない。

 「娘がいつも美玖を連れてくるんだけどね。私の孫ね。でも美玖には弟がいてね。その子もいっつも来てくれるんだけれど、名前が思い出せないのよ。いつも娘に教えてもらうんだけど、それでも思い出せないの」

 握り、開く。それだけの動作に違和感がある。枯れ木のような骨と垂れた皮膚。こんなにも細くなってしまったというのに、右腕の動きには多くの贅肉が絡みついている。それが嫌だというわけではない。昔に戻りたいわけでもない。上から名前をもらい、還俗の手続きを済ませたことに後悔はなかった。だからこれはやはりただの残滓なのだと、桜井葉子はいつものように自分に言い聞かせる。

 「年齢をとることは自分をそぎ落としてゆくことだと思うのよ」

 聞き流していた相部屋の松原の話を急に耳が拾った。いわゆる「いつもの話」という奴だ。思い出せない話をしたことを思い出せていない。まるで趣味の悪い冗談だが、おそらく自分も似たようなことを自覚なくやっている。笑えない。いや、笑うべきだろうか? 松原のように? 顔面の皮膚ににこにこ顔が筋になって刻み込まれるまで?

 「余計なことも忘れてね、つらいこともぼけていって、これも案外いいもねって」

 わかるわ、と肯きながらも自分がその逆だと言うことを桜井は知っていた。かつての自分に無駄はなかった。速度と強度と精度。定められた方向に向けて、正しい動きで正しいタイミングで〈爪〉を奮うだけの日々。依頼された通りの結果を他者に残す〈爪〉という現象、それこそが自分であり、自然とついた〈禿げ猫〉と言う通り名も、〈爪〉でしかない自分とは無関係のものだった。

 それがどうだろう。今、自分は「桜井葉子」という名前を名乗り、右手の先端に〈爪〉はない。かつて磨きぬかれていた中指の毒刀は、今、老人のように身をつづませ、毒ではなく垢を隙間に食んでいる。皺。肉。毛。名前。極限まで削ぎ落とされ情報量の少なかった無毛の肉体は、衰える度に要素が増え、今やまるで人間のように煩雑な形状で、色彩豊かなものとなった。昔と違って。あの頃と違って。今の自分は。今の自分は。

 今の自分が、嫌なわけじゃない。

 桜井はいつものように自分に言い聞かせる。昔に戻りたいわけでもない。上から名前をもらい、還俗の手続きを済ませたことに後悔はなかった。だからこれはやはりただの残滓なのだと、桜井はいつものように自分に言い聞かせる。老化に伴い委縮した脳が、勝手に昔の記憶を引き出しているだけだ。桜井はいつものように自分に言い聞かせる。引き出された記憶と現在の違いが目に付くだけだ。目に付くことは優劣を決める行為ではない。桜井はいつものように自分に言い聞かせる。今よりも昔がよかったとか、昔よりも今がよかったとかそんなことは自分は考えない。桜井はいつものように自分に言い聞かせる。なぜならば私は結果をもたらす〈爪〉。現象は考えることなく、理屈通りにふるまい、必然的な結果をもたらすだけだ。だから私は〈爪〉でなくなった自分のことをどうも思いはしない。なぜなら私は〈爪〉だから。桜井はいつものように自分に言い聞かせる。桜井はいつものように自分に言い聞かせる。桜井はいつものように自分に言い聞かせる。

 顔をあげると日が落ちていた。隣のベッドで松原が寝息を立てている。水さしの置かれた小机の上に、紙で折られたアヤメとカエルがある。松原が折ったものだろう。ふと自分の小机を見るとそこにも同じものがあった。自分が折ったのか。桜井はぼんやりと記憶を辿ったが思い出せない。今月は木曜日のレクリエーションが折り紙。金曜日のレクリエーションが塗り絵。桜井は塗り絵の方が好きだった。半分に折った紙の先端同士がどうしても綺麗に一致せず憂鬱な気分になるからだ。案の定、自分のアヤメとカエルは松原のものよりも不細工だった。彼女はきっと自分の方がうまくできたことを喜び、子供のようにはしゃいだことだろう。

 想像しただけで、耐え切れない苛立ちが腹の底から煮え立った。桜井は、松原をゆすり起こそうと手を伸ばし、自分がしようとしていることの逸脱を自覚し、ひっこめた。ため息を落とす。この頃、自分の感情を制御できなくなることがある。ただの老化現象だと桜井はいつものように自分に言い聞かせる。まだ自制心が勝っており、行動に繋がったことはない。……それも忘れているだけか? いや、違う。施設の職人が自分に向ける目は、「厄介者」に対するそれではない。……それも忘れているだけか?

 よそう。

 桜井は窓を開ける。桜井と松原の部屋は二階の角部屋にあり、窓からは十字路に立つ街灯がよく見える。気分が落ち着かず寝付けない夜、風に当たりながら街灯のぼやりと滲む光を眺めるのが習慣だった。だが、今夜は例外だった。街灯の光を裂くようにして立つ影がある。桜井は目を凝らす。不明瞭な視界の中で、それが人型をしていることをかろうじて見取った。小さな輪郭。曲がった背。老人? 自分と同じ? 桜井が文字通り眉をひそめたその時、人型と目があった。

 あの日の速度、あの日の強度、あの日の精度。
 具体性に欠いた夢の記憶、その輪郭が鮮明になった。
 それは懐かしい目。殺しの目。

 街灯の光の中から、獣が桜井を睨みつけていた。


🐕🐕🐕

 いた。〈禿げ猫〉だ。

 開いた窓の向こうは暗く人影すらも見えない。目も悪くなった。耳も遠くなった。だが、天性の嗅覚だけは未だ衰えていないはずだ。「窓を開く」というそれだけの動作にも、個性があり、その人間特有の「臭い」がまとわりつく。昔から、その嗅ぎ分けだけは誤ったことがない。今、窓を開けたのは間違いなくあの妖猫だ。

 「〈禿げ猫〉は個がなく、人に紛れるのがうまい」

 あの女をそう評価していたのは上だったか、同僚だったか。犬の嗅覚を持たぬものの意見だった。紛れるのがうまいだと? むしろ逆だ。雑踏の中にいても、奴の動作は際だっていた。意と熱を消し去った者だけがなぞることができる、妖の領域にある曲線軌道。たとえ五十年経とうとも、人を逸脱した妖猫が人に紛れられるわけがない。

 とにかく奴の居所はつかんだ。この業界から退いて数十年。情報屋や業界内のネットワークとの繋がりはとうの昔に絶えており、老婆一人探すのにも大変な苦労を強いられた。奴が所属していた会社は既に潰れており、環俗者のリストもその後の監視記録も全て散逸してしまっていた。まずは監視担当者の特定を。次にその担当者と結びついていた情報屋の特定を。一つ一つマスを埋めてゆき、ようやくその記録を見つけたのは、とある〈屑籠〉の倉庫の中だった。ああいう店は中立地帯であり、重要度が低いが捨てられないものが放り込まれているだけで、大した備えも警備もない。店主も大体が不真面目で、脅せば何とでもなるだろうと考えていたが、甘かった。若い店主は先代から受け継いだという「屑籠の中身」をよく知らぬままに守ろうとした。真面目な青年だった。今はもういない。

 ほとんどの人間は自分が殺されることを想像できていないもので、躊躇いさえしなければ老人の衰えた力でも殺すことができる。あの青年もそうだ。表社会と比べて特異なこの業界の人間ですらそうなのだ。だが〈禿げ猫〉は違う。どれだけ衰えたとしても、その本能は染みついているに違いない。衝動に任せるだけでは奴は殺せない。たとえば、今、この施設に忍び込んで奴を殺すことができるか。今の技量では、一般企業の警備サービスすらかいくぐれない。鍵をこじ開けようとすれば警報が鳴り、セキュリティが飛んでくる。その騒動の中で、奴を探し出し、殺せるか? 無理だ。

 今日は、先の決行の布石として、施設に「穴」を開けるだけにとどめるべきだろう。ただ、奴の警戒を呼び起こすリスクは背負うことになる。事故に見せかけることは難しい。死体が見つかる以上、その背後の意図を完全に隠すことはできない。奴が警戒を緩めるまで待つ必要がある。しかし、待ちすぎて「穴」が塞がってしまえば意味がない。その見極めが、おそらく今回の殺しで最も重要で、最も困難な……。

 先のことを心配しても仕方がない。

 十字路を離れ、予め目をつけておいた付近のコンビニエンスストアの駐車場に入る。店から程よく離れた暗がりの中にトラックが一台。中で運転手が仮眠をとっているのを確かめ、ドアを叩く。とび起きた運転手は、露骨に不快げな表情を浮かべ、ドアを開く。駐車場に降り、自分を叩き起こした老人に向けて口を開きかける。ポケットの中にしまっていたナイフを素早く取り出し、頬から頬へ貫くように刺し、引き抜く。運転手が目をむく。足を払う。失敗。もう一度払う。運転手が転倒する。ナイフを懐にしまおうとし、手を滑らせて取り落とす。ありえないミスに、我を失いかけるが、その狼狽を無視し、制圧にかかる。用意しておいたのは車用の緊急脱出ハンマーだ。普通の金づちは重すぎて素早く扱うことができない。ただの棒切れではダメージが少ない。選択は間違っていなかったようで、十数度の殴打により運転手は抵抗の意思を失った。許してください許してくださいと繰り返すのを無視し、運転席へ戻るように命じる。自分もナイフを拾いあげ、助手席に乗り込む。

 「駐車場を出て左折。二つ先の信号をさらに左折。行け」

 泣きすする運転手のトラックに乗り、先の十字路まで戻った。右手に目的の施設。あの時〈禿げ猫〉が開いた窓は既に閉まっていた。眠ったのだろうか。いや、〈禿げ猫〉のことだ。窓越しに自分を狙う存在に感づき、既に備えているかもしれない。いや、備えているに違いない。奴は妖猫。衰えるだけの老犬とは違い、年を重ねるごとに魔力を増す怪物だ。だが、その老犬こそが、奴の肉を食いちぎる。歯がたたずとも、歯がなくとも、食いちぎる。やれるまでやる。やれるまでやる。やれるまで、やるのだ。

 「あそこに老人ホームが見えるだろう。俺が降りたらアクセルを踏み込んで壁に突っ込め。わかったか?」

 躊躇の間。運転手の爪にナイフをねじ込む。悲鳴。

 「わかったか?」

 再度刺す。悲鳴は上がるが固まったままだ。仕方がない。バックミラーにぶら下がっている中年男に似合わぬ可愛らしいストラップをナイフでつつく。子供がいるなとカマをかけると固まっていた運転手の体がびくりと動いた。当たりだ。業界で聞いた噂話や、自分が立ちあった「現場」のことを思い出しながら、もし逆らうと運転手と家族に何が起こるのかを丁寧に、繰り返し伝える。自分が車から降りた後、逃げたらどうなるのか。何故絶対に逃げ切ることができないのか。追いかけ、捕まえるのがどれほど簡単なことなのか。そしてその後何が起きるのか。こういう話はとても多く、忘れた数よりも覚えている数の方が多い。

 運転手が観念したことが「臭い」でわかったので、最後の仕上げにその頸動脈を切り裂いた。運転手はそのことに気が付いているのか、いないのか、噴き出す血でハンドルを濡らしながら、ただ目の前の中空を見ている。黙って助手席を降りる。これで施設に「穴」が開き、トラックからは暴行の痕が残った物言わぬ死体が見つかることになる。しばらくは騒ぎになるだろう。老人の多くは実家に帰されるだろうが、身寄りのない〈禿げ猫〉は施設に残る。あとはタイミングを見計らい、開いた「穴」から施設に入ればいい。これで問題はない。……問題はない? 本当に?

 見落としの予感が幾つもある。破綻の気配を鼻が嗅ぎとる。しかし思考は曖昧に拡散し、予感も気配も具体的な形をとらなかった。走り出すトラックを眺めながら、本当に? 本当に? と自問自答だけが無意味に積み重なり、疲労と忘却の中に消えてゆく。

【続く】