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最近読んだアレやコレ(2024.07.14)

 そんなわけで、巷説百物語シリーズを関連作品も含めて読み通そうの会もこれでお開きです。江戸怪談シリーズ(+α)前半の4作、そして今回感想行為した後半3作+αの計12作を、連なりを意識しながら読み通すという体験は、なんとも贅沢なものでした……と思っていたら、アレコレが出るみたいですね。実は『了巷説百物語』は発売直後の週末に読み切っていたのですが、どうせ感想行為するならば、それらも出てからまとめてやった方が気持ちがいいのでは……? と思い、しばらく溜めてしまいました。ですが、我慢できないのでもう感想行為します。久瀬棠庵は『前巷説百物語』で明らかに気になる引きがされており、ぜってぇ最終巻に出てくるだろ~と思っていたので、まさかの単独主役化は驚きました。楽しみだなあ。

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西巷説百物語/京極夏彦

 霧に紛れ霞に乗って死人が操る亡者船はいつの間にやら山の上。その名のついた子悪党、通称、靄船の林蔵の渡世もまたその通り。口先八丁、語りに乗せて、いつの間にやら彼岸に運ぶ。此度の乗客はヒトごろしか、ヒトでなしか。江戸より遠く西の地で妖怪芝居の幕が開く。巷説百物語、西の7話。

 再読。初読時では強い印象に残っていなかったのですが、十数年ぶりに読み返し、完全にくらってしまいました。くらくらと目眩を覚えるほどに凄まじく、極上の読書体験によって天にも昇る心地です。独立した短尺を繰り返す構成は巷説百物語への原点回帰を感じさせ、一方、各話毎のバラつきの少なさは、その真逆とも言えるでしょう。また、『後巷説百物語』が「語り」と構造の完全な融合を成した傑作であるならば、本作は「語り」を惹きたてるためだけに全ての構造が組まれた傑作と言えるでしょう。すなわち、傍観者でも仕掛ける側でもなく、構造自体を横から眺めるでもなく……「語り」を真正面から受けることになる聞き手の立場からこのシリーズに臨むということ。それは小悪党一味が開く妖怪芝居の最前列に並ぶことに等しく、おそろしく危険です。何故なら、一切の逃げ場がないからです。想像してみてください。最短距離・最適音量・最大効率・最高音質に整えられ、全てのノイズを除外し切った理想の環境下で、真正面から浴びせられる京極夏彦の「語り」の効力を。ヒトを彼岸に渡し、山へと踏み入れさせたあの言葉が、あの呪いが、彼でも彼女でもなく、他ならなぬ「私」に向けて語られる。嗚呼、これほどに危険で、これほどに魅力的なことがあるでしょうか。繰り返しますが、逃げ場はありません。読んでしまえばおしまいです。


遠巷説百物語/京極夏彦

 御譚調掛おんはなししらべかかりのお役目は、遠野で囁かれる噂を集め、筆頭家老に語ること。すなわち、宇夫方祥五郎は仕事柄、妖しいはなしによく触れて、怪しいはなしを聞き回る。眼鼻のない女。川を遡る大魚。火を噴く怪鳥。そして珍事の裏に見え隠れする、胡散臭い一味のはなし。巷説百物語、遠くの6話。

 再読。京極作品に特徴的な、ストーリーやキャラクターが構造に隷属する傾向がとりわけ強く出た逸品ではないでしょうか。シリーズの基本型を4層に分解し、統一された規格と手順の下で出力してゆくシステマティックさは、小説の内側に立てられた骨組みを透かして見るようで、「はなし」自体が備えるやわらかな手触りとのギャップが強烈です。これから語り上げる物語を、自ら解体し尽くすお話でありながら、舞台裏を見せられたような興ざめはまるでなく。確かな気配を伴って、今殺されたはずの妖怪が立ち上がってくるのだから、なんとまあ憎らしいまでの騙しぶり。滑らかな手つきでとり外されてゆく部品の1つ1つは、眺めるだけで機能が読み取れるほどの優れた形を持っていて、そうして読み取った機能の集合が、実はどこにもない完成品の動きを心の内に生々しく再生してしまう。また、明け透けなまでの仕掛けの中身の陳列ぶりは、作者自らの手によってシリーズの整理整頓が行われたと読むこともでき、完結ひとつ前に踏むべき工程として、至極真っ当でもあります。あと、宇夫方と乙蔵の凸凹関係がいいですよね。『後巷説百物語』の4人組なんかもそうですが、京極作品は、微笑ましいぼんくら共が悪態つきながらのたくってる様を描くのが世界一巧いかもしれない。


了巷説百物語/京極夏彦

 江戸の薄闇に身を隠し、老中首座・水野忠邦に仇なす「敵」がいる。嘘を暴く〈洞観屋〉……稲荷藤兵衛が頼まれたのは、「敵」が仕掛ける妖怪芝居を暴くこと。化物遣いに憑き物落とし、そして企む大妖怪。口八丁の芝居は崩れ、時代の終わりが戦の始まりを告げる。巷説百物語、おわりの7話。

 「憑き物落とし」が出演していることもあり、主人公・稲荷藤兵衛が務める役割は、それが必ずしも有効に働かない歯がゆさも含め、かの「探偵」を思い起こさせるものですが……。真実を見るのではなく、嘘を暴くのだという機能差は大きなもので、それが、事件の解体によって物語を終わらせるのではなく、事件を物語として語り始めるという流儀の違いに結実しているのだと思います。それにしても、オールスター出演にカメオ出演、ちゃんちゃんばらばらの大立ち回り、悪の七幹部に加えラスボスまで登場と、あの『続巷説百物語』をも越えた波乱の嵐はまさに最終巻に相応しいエンタメぶり……しかし、それは血沸く熱狂をはらんだものでなく、悲しいまでに打ち壊されてしまった残骸を眺めるような、淋しさを宿しています。何故ならば、誰も彼もが切り結ぶ大活劇が起こってしまったこと自体が、八方丸く収めるはずの小又潜りの技術の無効を証明し、化け物たちが薄闇に居た、かの時代のおわりを突きつけているからです。鈴の音は、化け物遣いの手を離れ、軒先にぶら下がり風が偶然鳴らすだけのものとなった。残酷なまでに必然に殉じ、全てが偶然に還る。ここにあるのは紛れもなく余地もない、完全なおわり。そして、それでも話は譚となって、物語の中で語り直されるということ。青行灯は灯されずとも、紙は青く刷られ、端末を青く光らせる。ハナシは今もこうして、語られ、読まれているのですから。


鵼の碑/京極夏彦

 日光逗留中、劇作家の久住加壽夫は、一心に石仏を数える不審な男と出会う。陰惨な経歴を持つというその小説家は欝々と持論を語り、陰気にあてられた久住は、ついある悩みを口にした。それは宿の従業員から聞かされた、忌まわしい記憶の話だった。百鬼夜行シリーズ第10弾。

 再読。発売日に初読したこともあり、内容はほぼ全て覚えていたのですが、そもそも真相を全て知った状態で読むように設計された作品であり、かつ、再読にあたり〈巷説百物語〉シリーズの延長線という新しい視点を持ち込んだこともあって、大変おもしろい読書体験となりました。とうの昔に居なくなった化け物を、合成獣キメラのように接ぎ合わせる不自然は、人為なくしてありえず、それはそれを渡世にするプロの仕業でなければ不可能で……しかし、化け物が蘇るでなく、ツギハギの鵼と化したことは、やはりそれはもうおわった技術なのだという証明でもありましょう。「風鈴が、りんと鳴った」「鵺が鳴いている」……風の神の死と共に、幽霊となった化け物は、今や物語となった御行の手から、今やもう山ではなくなった山に逃がされた。風が偶然鳴らす鈴の音と、山で偶然啼いた鳥の声。それらの偶然を結い合わせるための場が失われた今、それらを集めても妖怪の形には決してならず、ただ歪な陰謀キメラが生まれるばかり。化け物はもう居ない。居ないものは遣えない。「この世には不思議なことなど何もない」。そこには、嘘でも実でもなくなった物語と、誰も読むことのできない碑だけが遺される。それはあまりに淋しく……そして、とてもおもしろい小説はなしであると、私は思います。


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