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最近読んだアレやコレ(2024.06.13)

 『了巷説百物語』の発売に向けて、『鵼の碑』『数えずの井戸』を読み返しておくかと、最初はそれだけのつもりだったんです。気がつけば何故か、〈巷説〉シリーズと、〈江戸怪談〉シリーズ全作を読み返し、加えて『鵼の碑』、あと何故か『死ねばいいのに』も読み返すというこの始末。するすると読めてしまう心地よさも相まって、次へ次へと手が伸び続け、この1か月は京極作品の漬物になっておりました。1冊の新刊のために、11冊たっぷり読み通す贅沢には、世俗から身体がふわりと浮き上がるような悦楽があり、また、いずれの書籍も読むのは10数年ぶり……あるいは発売時以来だったこともあって、なんだか学生の頃に還ったようでした。この記事は、〈江戸怪談〉シリーズの再読感想を中心にまとめています。

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嗤う伊右衛門/京極夏彦

 境野伊右衛門と民谷岩の縁談は、又市なる小悪党の計らいによるものだった。道楽の味を知らぬ石部金吉と、疱瘡で容姿を醜く崩した激情家。かけ違えた細工は、悪心抱く与力の陰謀も合わさってみるみる崩れ、四谷町を一角を狂おしく歪ませてゆく。現代に語りなおす江戸怪談、四谷の一席。

 再読。愛に屁をひっかけ、執着から1歩身を引く、その遠さからだからこそ組み得たことが察せられる、愛と執着で出来たパズル。俯瞰しているからこそわかる、最も効果的で、最も機能的な、修羅場の作り方。個々が抱える凹凸がはまり、ぎりぎりと軋みながら、ひとつの画を完成させてゆく過程には、登場人物たちの呼気がむせるほどに満ちており、それがついに結実する「御行の又市」の章のカタルシスたるや……少なくとも私が知る小説作品の中では、最大級のものです。パズルのピースとなる人々は、主役2人に留まらず、端役の隅々に至るまでうっとりするほどの名品ばかり。中でもヴィラン・伊藤喜兵衛が発する、度し難さ、救いがたさ、そしてちょっぴりのかなしさには悪魔的なまでの魅力があって、最期の修羅場で見せたその醜い哀れには、拍手を送ってやりたくなります。また、どろどろとした執着・情念が流れる作品でありながら、それを描く筆致は驚くほどに軽く、愉しく、小気味よく、通俗娯楽小説としての本懐から外れることがありません。ゆえに、物事が悪い方向へ雪崩打ってゆく様にすらどこか痛快さがあって、読んでいると伊右衛門のそれとはまた違う、不謹慎な「嗤い」が頬をひくつかせます。文字と語りの密度と濃度に目が眩む、傑作です。


覘き小平次/京極夏彦

 木幡小平次はへぼ役者だが、幽霊役だけはやたらとうまい。妻を残し、奥州興行に加わったのも、その腕を見込まれてのこと。しかし、小悪党たちの引いた絵図、悪党たちのよからぬ企みは、本物と見紛う幽霊芝居を、正真正銘に仕立てようとしていた。現代に語りなおす江戸怪談、安積沼の一席。

 再読。シリーズで最も好きな1冊であり、10数年ぶりに読み返してもその気持ちは変わりませんでした。前作が目を眩むほどの密度と濃度で読者すらをも飲み込む傑作ならば、本作は、酸欠を起こすほどの希薄と空疎で読者を惑わす絶品です。何よりも特筆すべきは、幽霊小平次と称される主人公の存在感……いや、ほぼ台詞もなく、ほぼ行動をしないこの人物に「存在感」の語彙は相応しくなく……言い換えるなら物語の中心に人型の空虚がぽっかり空いた、ただならなさ、ありえなさ、おそろしさ……そして、その空間に、薄く、淡く、ほんの少しだけ色づいた気配のかなしさが、もう、言葉もないほどに。「蚊帳」が印象的に用いられていることは、前作から引き継がれた点であり、しかし、執念がその結界をぼやかせ突き崩してしまった『伊右衛門』とは異なって、『小平次』は最初からあるかなきかの境界線、真空に羽虫が吸われるように、滑稽な他者の執着が周囲をくるくると躍るお話となっています。それを無視できない「怖がり」が、苛立ちを装って、しつこくなぞり、外縁にヒトの形を作り出す。幽霊は、観測の内に居る。読者すらもが、多九郎の、歌仙の、運平の横に並ばされ、怯えながらもそのおそろしさから目が離せない。絶品の幽霊芝居の虜にさせられる1冊です。


数えずの井戸/京極夏彦

 青山播磨の下に舞い込んだ縁談には、条件が1つあった。10枚揃いの家宝の皿を見つけ出すこと……。御用人が汗水垂らし捜索に励むも、皿は一向に見つからず。無為に時間ばかりが過ぎる中、青山家は新しい奉公人・菊を迎えることとなる。現代に語りなおす江戸怪談、皿屋敷の一席。

 再読。満ちているのか、足りていないのか、欠けているのか、足りているのか。皿を収めた箱の内側は、6重の視点の重ね合わせによって妖しく揺蕩い。人物・関係・舞台を、張りつめ、敷き詰め、全ての下準備を整え終えた瞬間に、その箱はついに開かれて。……そして、始まる「皿数え」。誰もが知る名曲の、誰もが聞いたことがある9行のラスサビ。カタルシスを具体な修羅場として描写した前2作と異なって、本作は文庫700頁を越える物語の全てを、たった9行の「皿数え」に圧縮し、読み手の内側で解凍します。それだけとりだしても意味がない、ただ、1枚、2枚、と数えるだけのくだりは、物語という名のバイアスに従って、瞬間的におはなしに変じ、全く新しい怪談を読み手の中に完成させるのです。おそろしさも、かなしさも、全ては読者が創るもの。本作は『番町皿屋敷』を新しく語り直した小説では実はなく、読者の内側で『番町皿屋敷』を新しく語り直「させる」装置と言うべきでしょう。記されたテキストの上ではなく、自らの胸の内側で、おそろしさが、かなしさが……「怪談」が、膨れはじけるその体験は、自分の何かが打ち砕かれ、どこかが決定的に変わってしまったような、強い実感を伴うものです。その体験こそが、本作を不出世の傑作足らしめていると思います。

(なお、今回は文庫版で読み直したのですが、単行本版の各章扉によるビジュアル的な仕掛けが削除されていたのは残念でした。あの仕掛けによって「皿数え」がより鮮烈な体験になっていたので……。私は単行本で読むことをお勧めします。)


死ねばいいのに/京極夏彦

 鹿島亜佐美が殺されてから、しばらくが過ぎた頃、彼女の知人を訪ね歩く謎の男が現れた。態度が悪く、品がなく、言葉を知らないその男は、「アサミの知り合い」を名乗り、彼女のことを知りたがるという。上司、隣人、情夫、母親、刑事、弁護士。死者を置き去りにすれ違う、6つの対話劇。

 再読。京極夏彦の筆力をもってする「俺ってバカだからよくわかんねェけどよォ」であり……そして、一見するとそう読めてしまうこと自体にも仕掛けがある、この難儀さがたまりません。1対1の対話劇の型式を取りながらも、実は対話など全く成立しておらず、ひとりはただ必死に自分のことを喋り続け、ひとりは自称する通りそのままの男で、そして最後のもうひとり……読者は、その対話に見えるだけの空っぽから、勝手に何かを読み取り、ありもしないものを受け取っている。言葉は通じず、読書は全て誤読で、人間の数だけ語彙がある。痛烈に見えるカウンターは、実はほとんどがオウム返しに過ぎず、それが「死ねばいいのに」と結論づけられるなら、そしてその結論が間違っているのなら、それはただ整理整頓を怠っているだけで、それなら別に何の問題もなく、改める必要もなく、ただそうだという、それだけです。救済も絶望も、全ては滑稽な1人用パズルゲームの内にある。おばけ達が失効した現代、憑かれることもなくただ散らかっているだけのこの部屋は、かくも淋しく「つまらなく」……そして、そのつまらなさは、これほどまでにおもしろい小説の種になる。アンチ対話劇とでも呼びたくなる極上の空(から)。京極現代もの、もっと読みたいなあ。


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