最近読んだアレやコレ(2022.10.15)
今回は、映画『ブレット・トレイン』特集です。映画を観るにあたって、シリーズ既存3作、及びシリーズの影響元と思しきローレンス・ブロックの『殺し屋』を読み返したため、その感想記録となっています。映画1本のために4冊小説を読むのはコストが高かったですが、とても充実した娯楽でした。シリーズは全て発売時リアルタイムで読んでおり、すなわち年単位で間を空けてとびとびで読んでいたため、まとめて読むことで初めて気がついたおもしろさもたくさんありました。シリーズ1作目で描写された鯨の苦悩ぶりを踏まえると、ぼんやり悩んでいた兜はマジで業者適性高いバケモンだったんだな、とか。いずれの作品も、主人公が家族を通じて「やる」ことに関する何かしらを見出し、貫くお話になっているんだな、とか。
あと、映画の感想も書いてますので貼っておきます。
■■■
グラスホッパー/伊坂幸太郎
シリーズ第1作。妻の復讐を誓った一般人・鈴木は、裏社会で繰り広げられる業者同士の戦いに巻き込まれてゆく。人間の個々に差異などなく、その意思や行動に意味や価値はない。復讐は形骸化した二番煎じに堕し、自殺も定型のパターンの1つでしかなく、死のナイフは老若男女の差異に注意を払わない。ヒトは群れると虫になる。それならば、群れの中から自分ともう1つを切り出すしかありません。全てが均される絶望的な諦念の中で、3人の主人公は「一対一の勝負」に臨み、各々が各々の成否を出してゆくのです。「やる時はやる」「やるしかないじゃない」と作中で語られた台詞の通り、たとえその意思と行動に意味や価値がなかろうと、それでもヒトは目の前の1つに対して、やるべき時にやるべきことをするしかないということ。さながらフィクションの殺し屋のように、狙い定めた標的1人と対峙する。自分と目の前に立つ何か。ただそれだけの仕事の連続が、我々の前には黙って横たわっている。本作の伊坂作品らしからぬ陰鬱とした前提と、「やる」生業としての人間の姿、そして、群れの最小単位である「家族」という題材は、続編以降にも引き継がれ、発展を見せてゆきます。
マリアビートル/伊坂幸太郎
シリーズ第2作。息子の復讐を誓った元業者・木村は、新幹線車内で繰り広げられる業者同士の戦いに巻き込まれてゆく。前作で影を落としていた目に見えない何か陰鬱としたもの。解決不可能な巨大なそれを、打倒可能な人間=王子慧に翻訳した本作は、確かに前作よりもエンタメ指向の作品と言えるでしょう。しかしその王子が奮う悪意と暴力は、物語からエンタメ性を削ぎ落とし、題材の純度をどこまでも高めてゆくものです。彼が殺し屋ではないただの一般人である意味。「やるべきでない時にやるべきでないことをする」王子の遊びの前では、「やるべき時にやるべきことをする」殺し屋たちの仕事はコントロール可能な理屈の塊でしかなく、「一対一の勝負」も子供が覗く虫籠の中の余興に堕してしまう。それならば、殺し屋でなくなり「やりたい時にやれ」という衝動にならうしかない。自己をヒトとして立たせるために、虫ではなく獣になるしかない。しかし、北に向けて走行する新幹線は、ヒトを通り過ぎ、凍りつく手前でゆっくりと停車し、客を降ろすのです。やりたい時にやれ。でも、人間は殺すな。アル中は酒飲むな。「やってはいけないこと」もある。見事な続編であり、傑作だと思います。
AX/伊坂幸太郎
シリーズ第3作。「家族の復讐を誓う一般人」「家族の復讐を誓う元業者」の次に来る主人公として、「家族を養うために頑張る業者」を持ってくる伊坂幸太郎のセンス、凄くないですか? 前2作に反しユーモラスで軽妙な作品でありながら、そう描けてしまうことが、主人公・兜の怪物性……誰よりも虫であることに適した才能の証明になっているのがおもしろい。「家族の復讐」と逆方向を向いた物語は、当然、題材をもひっくり返し「虫がヒトと群れたら何になるのか」を確かめてゆくものとなっています。一線級の業者として誰よりも「やるしかない」ことをやり続け、そして、家族の一員として「やりたい時に」やること選択した兜に待ち受けるものは何なのか。「やれるだけのことはやりなさい。 それで駄目ならしょうがないんだから」という台詞が象徴するように、本作は前2作を受けて、「やった」その後のことへと視線を向けているように思います。人間の個々に差異などなく、その意思や行動に意味や価値はない。それでも、やるべき時にやるしかない、あるいは、やりたい時にやるしかない。では、やったことで、そこに特別な個人は立ち、意味と価値が本当に生まれたか? バッタの群れと家族の区別はついたのか? 檸檬とスズメバチもちょっと登場するので、『ブレット・トレイン』観た人にもおすすめしたい。
殺し屋/ローレンス・ブロック
殺し屋ケラーの仕事ぶりを描いた短編集。久しぶりに読み返したら「やるべきことをやる。ただそれだけのことだ」という『グラスホッパー』と強く結びついた台詞があって、びっくりしました。影響元ではありながら、本作には陰鬱な空気も、ヒトをヒト足らしめる問答もありません。収録された10の短編は、全て「ケラーが出かけ、殺し屋の仕事をする」ただそれだけのものであり、いわば、伊坂作品が比喩めいて用いた「殺し屋」の原典と言えるでしょう。確かなドラマ性を持ちながらも、それらを限りなく切り詰めた短編群は、いずれもが物語というよりも、ケラーが取り組む仕事そのもののようです。1人の殺し屋と、1人の標的と、2人が立つその土地の風景と、そしてその3つを貫く、選択と行動だけがある。現実の光景からそのまま切り取ったかのように、それはあまりにも本物らしい。殺し屋というフィクション染みた存在が、居て当然と言う顔をしてストンと読み手の脳内に腰を下ろしている。物騒な殺しの生業が、いつの間にか私たちの日常と生活の延長線上に接続されている。どうということのない小説でありながら、それが本作の凄さを物語っている。不朽の名作だと思います。本当に素晴らしい。