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群集相と神様のレシピ

 本記事は、映画『ブレット・トレイン』と、その原作『マリアビートル』のネタバレを含みます。

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『ブレット・トレイン』と『マリアビートル』

 本記事は、『ブレット・トレイン』の感想文になる。この映画については、公開直後からダイハードテイルズのファン層でさざなみのように話題が広がってゆくのを観測できており、「メキシコだった」「ラッキージェイクだった」「メキシコで、かつラッキージェイクだった」という胡乱な感想を読むにつけ、伊坂作品のファンである私は「一体、どうやってあの辛気臭さが魅力である原作をメキシコに……?」と疑問に思っていた。真の塾講師・鈴木が、タルサ王子ゥームの罠を見破り、「よく来たな。おれは毎日ものすごい量のテストを採点しているが誰にも読ませるつもりはない。だが今日は特別に、人を殺してはいけない理由をお前に教えることにした」ってやるのか?

 そうこうしている内に、出張が決まった。移動は新幹線で、出張先では仕事終わりに映画を観る時間が作れる。「伊坂幸太郎とダイハードテイルズのファンが、新幹線で『マリアビートル』を読み直した後、仕事終わりに『ブレット・トレイン』を観る」という、日本で一番『ブレット・トレイン』楽しむ環境が整ってしまったのだ。それならば、もう徹底的にやるしかない。かくして、『グラスホッパー』と『AX』、そして原作の影響元でもあるローレンス・ブロックの『殺し屋』も読み直した私は、ゆかり運命レシピに導かれ、新幹線に乗り込んだのだった。

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蜜柑とタンジェリン

 コンビとしての噛みあい方と、そこからとれる出汁が似た成分を持っているため、うっかりすると見逃しそうになるけれど、単体ではほぼ別人と言っていいレベルでキャラクター変わってますよね、この人。原作の蜜柑は、檸檬のトーマス好きの対として、文学好きという設定を持っていたわけだけだけど、その要素がなくなった結果、独立したトーマス狂人が車内を暴れまわることになった。

 特筆すべきは、タンジェリンからは、蜜柑が持っていた生々しい暴力性・凶暴性が放つ怖さが排除されている点だと思う。実際、相方と大立ち回り、17人ぶっ殺してまわる回想シーンは、ひたすらにファンタジックでアッパーに愉快な暴力をやっている。原作には、前作『グラスホッパー』から引き継がれた暴力の陰湿な薄暗さがずっとあり、それは大きな魅力なのだけど、映画ではそれがうまく排除されている。蜜柑とタンジェリンの差異だけにとどまらず、隅から隅まで徹底的に明るいネオンの光が入れられている。

 蜜柑という業者の強みは、王子が語るような「頭のよさ」ではなく決めたことを躊躇なく行動できるところだと個人的には思っている。思考・判断・行動をテンポよく実践してゆく彼は、物語を常に加速させ続け、空気の滞留を許さない。映画のタンジェリンにもその強さがよく出ていて、嬉しかった。強さがよく出過ぎた結果、新幹線に走りで追いついていた。どうかと思う。

檸檬とレモン

 新幹線をぶっ壊すにあたり、抽選券ではなく防弾チョッキで復活した。蜜柑とタンジェリン程の乖離はないけれど、キュートな部分がよりキュートに、コミカルな部分がよりコミカルに強調されていて、やはり言動の端々から漏れ出す「日常的に人を殺している人間の怖さ」がうまくデトックスされている。「機関車トーマスのシールをことあるごとに取り出す」という視覚的に映える設定を映像で観ることができたのが、とてもよかった。

 檸檬という業者の強みは、作中でも描写されている通り、どんな環境でも決して動揺しない面の皮の厚さにあり、その高い防御力はレモンにも備わっている。いかなる状況下でも生来のユーモラスさを保ち続ける彼は、この映画の天秤を、ずっと楽しい側に傾け続けていたと思う。それにしても「決めたことを躊躇なく行動できる」奴と「どんな環境でも決して動揺しない」奴のコンビ、そりゃあまあ、評価が高くて当然だし、ボリビアでも余裕でやっていけますよね。攻防合わさり、無敵だ。

 あと、レモンとタンジェリンの幼少期の回想がありましたけど、原作ではこの2人、双子ではないし、ずっと組んでいたわけでもないんですよね。設定が変わってマジで双子になったんだと観た時は思ったんですが、ひょっとしてあれ「瞬間、タンジェリンの脳内に溢れ出した、存在しない記憶───」ってことだったのか?

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狼とウルフ

 おい、さすがにそれはおかしいだろ。百歩譲ってバックルにMEXICOって入っているのはいいとして、CORONAを飲んでるのはもう、どう考えても逆噴射先生が脚本に口を出している以外の説明がつかないだろうがよ。

 原作の彼は、子供を嬲る仕事を好んで請負うクズで、大した実力はないのに他人の大仕事を「自分がやった」とホラを噴く『狼少年』だから「狼」だった。それが、狼という単語を和メキシコ翻訳にかけたためか、『MEXCIOの荒野を彷徨う荒々しき狼 -WOLF-』になっている。巻き込まれて、なんか寺原まで美化されているのもおもしろすぎる。「寺原によく懐いていた狼が、彼を殺したスズメバチを狙う」というドラマは全く変わっていないのに、スズメバチ以外の全ての要素にメキシコ化学成分が注入された結果、本作の磁場は狂いに狂い、メキシコ麻薬カルテル《令嬢》が爆誕し、新幹線の便も東京発メキシコ経由京都行になってしまった。盛岡が遠すぎる。

 そういえば、寺原の本拠地がメキシコになったってことは、『ブレット・トレイン』時空では、鈴木はメキシコ塾講師ということになる。つまり、逆噴射・鈴木・聡一郎vsタルサ王子ゥームは、与太でもなんでもなく充分ありえたわけで、観たかったような、実現せずほっとしたような……。

スズメバチとホーネット

『ブレット・トレイン』の乗車にあたり、毒の効力がめちゃくちゃ派手になった人。スズメバチは本来男女コンビの業者なのに、男の方はメディアミックスの度に仲間外れにされており、本当にかわいそうだと思う。原作続編の『AX』で再登場を果たした時も、カスみたいな扱いを受けていた。レディバグくんは自分の悪運を嘆いていたけれど、乗車すらさせてもらえず、ホワイト・デス撃破の大金星を奪われたホーネット(男)と比べたらマシだと思う。

 あと、原作既読勢にしか通じない「正体」のミスリード、凄いよかったよね。

峰岸の息子とサン

 地味に、一番原作通りだったキャラクターじゃなかろうか。原作から変えるほどの情報量がない、とも言える。彼の死体の手を檸檬/レモンが窓越しに降らせるシーンは、原作では予定外の行動であり、蜜柑はブチギレている。このことから、蜜柑よりもタンジェリンの方が若干アホであることが伺える。

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東北新幹線と東海道新幹線

 薄暗く辛気臭い原作に対して、映画はとことん楽しく明るいものになっている。どちらが好きかと言えば、私は断然、原作の方になるのだけれど、それでも明確な方針を持って入れられた改変の手は、そのほとんどが理にかなった納得のいくものであり、何より「伊坂幸太郎作品」であることに強いリスペクトをもって成されたものであって、とてもよかった。

 東京発の新幹線の行き先が、盛岡から京都に変わっているのも示唆的だ。寒く、冷たく、空気の純度が次第に上がってゆく『マリアビートル』と違って、『ブレット・トレイン』は京都を目指す。五重の塔!金閣寺!ド派手に演出され、トンチキ日本に彩られたこの弾丸列車は、間違っても北上してはいけない。両者が地理的にも逆方向であることは、さすがにあまりに出来過ぎていて意図していない気もするけれど、両者の違いが最もわかりやすく示されていると思う。

木村一家とエルダー&ファーザー

 原作ではストーリーの主軸になる木村一家vs王子だけれど、映画版では七尾を主役になった結果、種々の手を入れられている。何度も触れた通り、この映画は、薄暗く辛気臭い原作を非常に巧みにアホバカトンチキエンタメに改造することに成功しているのがとにかく凄い。

 とはいえ、どう描いてもシリアスにならざるをえない木村/ファーザーのストーリーは、この映画の中でも暗く真面目なものとなってしまっている。なってしまっているのだが、それに対して完全に開き直り、カルメン・マキをブチ流しながら「おらおらおら!暗く真面目だぞ!どけどけどけ!!」と肩で風切り押し通したのは凄すぎる。完全にふざけている。あそこ、この映画で一番好きなシーンかもしれない。

 一方、この映画で私が唯一残念だったのが、木村茂のエルダーへの改変だった。エルダーに関しては、ホワイト・デスとの因縁も必要なかったし、設定も原作のままの方がこの映画らしいユーモラスなハッタリが効いたものになったと思う。霧に閉ざされた謎めいた米原から帯刀した真田広之が乗車してくる以上のハッタリがこの世に存在するのかよ、と思わなくもないけれど……だって、観たくなかったですか? どう見ても、画面の背景でしかないモブ老夫婦が、いきなり日本刀と銃を抜いて車内で暴れ始めるの。因縁も何もなく、息子からかかった電話1本のためだけに突然車内にPOPする異常殺人老夫婦が私は観たかった。

王子とプリンス

 原作を明るい娯楽映画に改変するにあたり、最も大きく手が加えられたキャラクターであり……ぶっちゃけると悲しいほどに格が下がってしまっているのだけれど、その改変は「王子」の芯を完全にとらえた上で施されたものであり、かつ、全てに理屈があったため、原作ファンとしても脱帽する他なかった。詰め込まれた知恵と工夫の量が凄い。

 そもそも原作の王子は、「人間は集まれば、凶暴なバッタの群れになる」「個々を区別する価値などなく、行動の全ても本能的な仕組みに則った無意味なものに過ぎない」という原作シリーズが共有して持つ薄暗い背景を男子中学生1人の形に結晶化させた怪物であり、伊坂幸太郎作品における「不条理と悪」そのものと言える。自分の存在にすら意味や価値を求めず、ただ人間を1人でも多く苦しめるために稼働する「仕組み」であって、レイヤーが1つ上にある。ゆえに、彼を暴力で打倒するには、まず言葉の戦いによって、ただの男子中学生にまでひきずり落とす必要があった。彼が王子のまま乗車してしまうと、物語は木村一家を主役にせざるをえないし、最終決戦はディベート大会めいた辛気臭いものにならざるをえない。

 最後にド派手にドンパチやるために、この映画の主役はレディバグとなっており、それに伴って、プリンスは年齢相応の子供として、最初から殺し屋たちと同じレイヤーに引きずり降ろされている。王子を人間に作り替えるにあたり、とられた手法が「行動の全てに動機を付与する」というものなのがおもしろい。「木村の子供を突き落とす」「木村に峰岸の命を狙わせる」そこに何の動機もなかったからこそ恐ろしかった王子は、「父親に認めてもらうため、子供を使って木村に父親を殺させる」と理解可能なロジックが付与されることで、ただのガチンチョになった。「わかる」ことで相手を下に置くというのは、奇しくも原作の王子の得意技であり、これもまた迂遠な因果応報と言えるのかもしれない。

 あと、やはり、「王子」という名前の再解釈が見事だったと思う。劇中でとった行動はほぼ原作のままなのに、そこに前述の動機と、いくつかの新設定を付与することで、「全てが思い通りになる幸運の王子」を、「次代の王という運命を課せられ、その役割でしか見られることのないプリンス」という意味に書き換えることに成功している。課せられた「運命」を自らが張り巡らせた必然性で打倒しようとした彼女が、最後、その必然性によって殺されてしまうという末路も見ごたえののあるものだった。

峰岸と、ホワイト・デス

 峰岸の奴、ただのクソ野郎がホワイト・デスなんて随分かっこいい二つ名をもらっちゃって……としみじみしながら映画を観ていたら、峰岸は既に死んでおり、原作に存在しないロシアンルーレット狂人だった。誰だよお前は。あとしれっと美化されて、仁義ある大親分になってる峰岸もなんなんだ。原作に登場しないロシアンルーレット狂人が、原作に存在しない伏線を拾い始めたのは、いくらなんでもおもしろすぎたし、キャラクターとしてはめちゃめちゃ仙台ユニバースにいそうなのが非常にずるい。最初は意味不明だったロシアンルーレット・アクションが、物語の進行と共に徐々に強い意味を帯びてくるのがよすぎる。

 奇しくも、息子のプリンスと同じく「行動の全てに動機を付与する」ことで人間に戻す、という手法が彼に対してもとられているのは興味深い。それが王子の逆、レイヤーを上げる方向に働いているのもおもしろい。原作でホワイト・デスと同じ位置づけにいる峰岸は、物語を回すための舞台装置でしかなく、その装置をキャラクターとして登板させるにあたって、人間らしさが与えられている。

 個人的にスゲ~ッと思ったのが、原作の「5分遅刻した女の腕を切った」というエピソードに、「1分で指1本だから、腕ごと指を全て落した」という説明を付け加えたこと。伊坂幸太郎はとにかく理不尽な暴力の怖さを書くのがうまく、それはその暴力の理屈を描かないことで表現されることが多い。「5分遅刻した」から「腕を切った」。明らかに釣り合わないギャップを埋めるための理屈はそこには一切なく、押さえつけられ、頭を一方的に踏みにじられるような、厭さがそこにはある。ロジックがあることで、納得が生まれ、それは暴力の奮い手が血の通った人間であることを示す余地となる。ホワイト・デスという男の行動に、共感しうる動機があることの前ふりとなっている。余りに細かい点なので、考えすぎかもしれないけれど……。

七尾とレディバグ

 薄暗い原作を明るいエンタメに作り替える上で、どうやっても「人生とは……人間の価値とは……」をせざるをえない、バッタの群集相を巡る主題は降板し、それに伴って、主軸となるドラマは木村一家vs王子のものから七尾/レディバグのものに挿げ替えられた。当然、そこで持ち出される題材は、彼が持つ特性である「不運」となる。物語の肝を変えてしまうことは、一見すると不当な原作改変に思えるのだけれど、そこで新しく用意されたテーマが「運命」……原作シリーズどころか、伊坂作品全体の共通テーマでもある「未来は神様のレシピで決まる」なのだから、文句のつけようがない。七尾が神様のレシピの話をする。原作ファンとして、こんなにも興味がわくifはそうそうない。

「人間は虫と変わらず、その行動は仕組みに則ったものに過ぎない。だったら、やりたい時にやれ。虫であっても、テントウムシのように高く飛べ」というお話は、「全てが定まった運命だとしても、それを背負ってテントウムシのように飛べ」という、より広く、普遍的なお話になっており、いずれもが強く伊坂幸太郎的である。伊坂幸太郎の作品が、伊坂幸太郎的な作品として生まれ変わっている。

 レディバグが、自らの不運に翻弄され、それでも空を目指して前に前にと行動してゆく『ブレット・トレイン』は、原作と違って非常に明るく楽しいエンターテイメントになっている。真田広之が重々しく語る「運命」という主題は、鼻歌混じりに聞き流され、軽やかに描かれる。それは、「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ」「重いものを背負いながら、タップを踏むように」という話でもあるし、彼が主役を務める掌編「ついていないから笑う」の題の通りでもある。その楽しさ、軽やかさが持つ強さを確かめるように、「ついていないから笑えない」ホワイト・デスという新しいキャラクターまで作ってしまったこの映画は、本当に真面目に伊坂幸太郎の映画化に取り組んでいると思うし、原作ファンとしては、ちょっと感動すら覚えてしまう。

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蛇とブームスラング

 映画の尺の都合上、ほとんどのキャラが活躍と描写をカットされている中、原作よりも活躍と描写が盛られた。あまりにも活躍するものだから、スズメバチはこいつに出番を奪われて出てこないんじゃないか、と観ていてハラハラした。

ミネラルウォーターとボトルウォーター

 映画の尺の都合上、ほとんどのキャラが活躍と描写をカットされている中、原作よりも活躍と描写が盛られた。だが、よくよく考えると映画版はレモンが生き残っているので、キルスコアが1落ちている。ボトルウォーターくんの未来に、幸あれ。

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