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#話し方
テレビ朝日アスク 感謝の連続
(29歳の4月)妙典駅の江戸川沿いのアパートを借りて、毎日江戸川の土手を走っていました。(画像は今現在の私)
テレビ朝日アスクの初期のレッスンを受けながら、3ヶ月は仕事をせずに、関東の様々なところへ行く事にし、東京タワー、新宿、渋谷、世田谷、江戸川、浅草、池袋、水戸、鎌倉、銚子、千葉から船橋まで歩いたり、埼玉、横浜、横須賀、などなど、とりあえず関東近郊を回りました。
その間、声優基礎科は、発声
バイトはバイク便(片道350キロ)
2000年から、4年ほどは、バイク便で何とか生計をたてていました。
(色々なところに行ける、人間観察が出来る、多少自由がきく、発声練習や実況の練習が出来る、ほか)
声優の授業では、人間観察をするよう言われていたので、バイク便は結構面白かったです。
芸能人にも会えましたし、大手企業や、芸能プロ、官庁、大手金融機関、マスコミ、撮影所、建設現場、モデルの撮影現場、議員会館、など、
普段、一般人では
何でも一流を見ろ(師匠より)
当時の石橋幸治ゼネラルマネージャーに、アナウンサーの勉強もしたいと申し出たところ、古閑なら専科からで大丈夫!と言われ、専科から受けさせていただけたのも大変助かりました。
今の、多くの現場のきっかけは、アナウンサーも出来る、という事で、仕事の幅が広がったので、今は感謝しかありません。
師匠と弟子、という関係もありですが、一流の方は、型、基礎はきっちりやりなさいと言いますが、他は、一流のものをとに
死ぬこと以外、大したことない(父)
田舎者の自分が、東京の六本木のテレビ局関係の、しかもアナウンサーや
声優など、いつも声を聞いている先生にビビラずに付いて行けるだろうか?
不安はありました。
しかし、東京へ行くと決めたら行くんだと。
父は戦時中の人なので、
「死ぬこと以外、大したこと無い」
(今も座右の銘ですが)
が口癖でしたから、やるしかないと覚悟を決めて、2000年から、
テレビ朝日アスクで、声優基礎科からスタートし
29歳、アナウンサーになれるか⁉
アナウンサーは高学歴の、大卒の方しかなれないと
思い込んでいました。
で、朗読が好きと言う事もあり、テレビやラジオのナレーター、
声優、というジャンルを片っ端から調べました。
図書館で調べたり、(当時はまだネット情報も少なく)、
声優雑誌を買いまくったり、NHKの講座を調べたり、
今ほど情報はありませんでした。
やはり、情報の中心は東京だと感じます。
(今でも感じます)
必死で探していたあ
経験が思わぬプラスへ
<< 20歳の頃は、スピーカーの音の検査員 >>
高校卒業後は、ONKYOの子会社の岡山オンキョーにて、
スピーカーの製造と、音の検査員を3年ほど勤めました。
ラインのスピーカーの箱詰めから、修理、音質の検査や
不良品の選別、周波数やリズム感など、行っていました。
この経験が後にアナウンスや講師に役立つとは
夢にも思いませんでした。
水泳会場などの音量や音質なども気にし
一度は何か勝負したい
しかし、30歳が近づくにつれて、だんだん東京への目標
と言うか、チャンスが無くなっていくのではないかという
不安が募ってきました。
ある意味、人に決めてもらった人生と言うか。
自分では自分で決めていたつもりだったんですけどね。
人生のどん底でした。
やはり自分の人生、一度は何か勝負したい、何か残したい、
という気持ちが沸々と湧き上がってきました。
29歳の時、意を決して、父親に小さい頃からの
>>>変身願望>>>
時は、小学6年生、母との別れに戻ります。
母のお見舞いで東京へ行く機会が、2度ありました。
いつか、東京で何か勝負してみたい・・密かな願望が、
この時芽生えていました。
小学生の頃は、友達を楽しませたり、明るい性格で、
隠れて仮面ライダーや、ウルトラマンをものまね
したりしていました。
変身願望は、結構強かったのかなと(笑)、
今は、当時を振り返ってみると思いますね。
でも・・なかなかチャ
あの頃の君(自分)へ
中学時代は、暴力に暴力で返してはいけないという教えもありましたので、無抵抗な私は不良グループのエジキとなり、何度も何度も殴られ、悔しくて悔しくて、死を考えたこともありました。
今、同じ悩みをもつ子供たちに伝えたい・・・
その苦しみ、つらさ、悔しさを、将来の自分がなりたい大人になるための
パワーに変えるんだ!!!
つづく・・・