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二代将軍徳川秀忠より茂木藩祖細川興元への御朱印状不所持の訳

細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟です。

興元は関ヶ原合戦の後、細川家を出奔。
その後徳川家康の仲介で忠興と和解します。そののち、興元は秀忠の談判衆として取り立てられています。

今回は興元と茂木藩に関する逸話を紹介します。


『茂木町史5』より引用。
興元の孫にあたる興隆が幕府に対し、加増を示す御朱印が度重なる保留のために領地御朱印状がないと届け出た旨の書状です。

御朱印無御座様子之事

一.大権現様御代、私祖父細川玄蕃頭被召出、台徳院様へ御奉公可仕旨被仰出候附、従台徳院様御知行拝領仕候、其節被仰出候趣者、玄蕃儀、惣領越中守(兄忠興)断申上候子細有之候間、先当分壱万石被下候、少分之甲斐ニ者関東知行ニて能所被成下候旨、御諚ニて於下野国芳賀郡茂木庄高壱万五拾四石六斗壱升被下置猶重て御知行可被仰付之由ニて御朱印者頂戴不仕候御取次本多佐渡守殿


ざっくり現代語訳


大権現様(家康)の代の時、私の祖父細川玄蕃頭(興元)は召し出され、台徳院様(秀忠)へ御奉公つかまつることになりました。

台徳院さまに従うことになりその御知行を関ヶ原の功の恩賞として拝領することになりましたが、その時に仰ぎ出された趣者が
「玄蕃の加増の件(大分鶴崎十万石)は兄・忠興が断り申し上げた子細により当分は一万石を下す」
とのことにより、少しばかりの関東の知行を下されることになりました。

この御諚によっていったん下野国芳賀郡茂木庄の一万五十四石六斗壱升を下し置き、なお重ねて御知行があるとの仰せ付けによって、取次の本多佐渡守殿から領地の御朱印を頂戴しなかったのです。               


一.慶長廿年、大坂御一戦之刻、祖父玄蕃頭働之為勲一巧、先当座の御褒美と被仰出、常陸国筑波郡、河内両郡の内田中庄、谷田部郷高六千弐百石余所拝領仕候是茂追て御加増可被成下旨被仰出、御朱印者頂戴不仕候、御取次酒井古雅楽頭殿、土井古大炊殿ニて御座候以上

ざっくり現代語訳②


こののちの慶長二十年、大坂での御一戦のとき、祖父玄蕃頭は勲一功の働きをしたため、この御褒美として常陸国筑波郡の河内両郡のうちから田中庄谷田部郷の六千弐百石余りを拝領しました。
これも追って御加増があるとのことでしたので、取次の酒井雅楽頭(忠世)殿、土井大炊(利勝)殿から御朱印を頂戴しなかったのです。


ざっくり考察


興元は関ヶ原の功で大分の鶴崎十万石の拝領の命があったのを忠興が断ったため、追って加増があるとの条件で茂木を拝領します。

そののち大坂の陣での功績で常陸国谷田部のうち、六千石あまりを加増されますが、これももっと追加されるべし、と取次の酒井、土井氏と約束したために正式な領地を示す御朱印状は保留のままになりました。

そのため家康と徳川秀忠の領地御朱印状はない、という内容の書状になります。

興元は大坂の陣が終わって四年後に亡くなるので、結局この約束は反古にされてしまったのかな。

本人としては三度目の正直を待ちながら晩年までの数年間を過ごしていたのかもしれません。

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