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エッセイ〜俳句|言語レバニラと自由律俳句(春一句)

レバニラニラレバ

レバニラ炒めとニラレバ炒め。
どちらとも言う。

もともとの呼称は中国由来の韮菜猪肝(ジウツァイジゥガン)=ニラレバ。
ニラレバ炒めであったらしい。
これを昭和に大ヒットしたマンガ・アニメのあるキャラクターが、ひっくり返した。

「レバニラ炒めはわしの大好物なのだ」

元祖天才バカボンのパパである。

作者の故赤塚不二夫氏が、自身の生み出したキャラ・バカボンのパパにこのセリフを連呼させた。
バカボンのパパはとにかく反常識を好む。

西から昇ったお日様が東に沈む、アニメのオープニング曲の歌詞も有名だ。
バカボンのパパの逆転嗜好が、ニラレバをレバニラに変換させたのだ。

「レバニラ炒めはわしの大好物なのだ」

やがてこの人気漫画の読者やアニメの視聴者の脳に、言語「レバニラ」が刷り込まれた。
バカボンのパパの影響を受けた市民、バカボンのパパと同じく「レバニラ炒めと呼ぶ派」の人たちが増殖した。 

そして当然その人たちの世代から、子や孫にも「ニラレバ=レバニラ」の言語文化は継承されるのである。

レバニラチルドレンは生まれた時から
「はーい、今晩はレバニラ炒めですよー」
「やったー、レバニラ最高、ママ大好き」
「ええー、レバニラより麻婆豆腐がいいー」
などという親兄弟の会話を耳にしてきた。

もちろん会話ばかりではない。
レバニラ派による中華料理店や居酒屋では、店内の壁に「レバニラ定食」「本日のおすすめレバニラ」などの品書きが堂々貼り出されていたりもする·····

一般家庭の人々と中華料理店あるいは居酒屋の店主たちが無意識に、日本全国レバニラって呼ぶのがむしろフツー、という流れを加速させた。
かくして歴史的正統言語・ニラレバは、我が国において繁栄を阻止されたのである。

元祖天才バカボンのアニメ放映開始は、昭和47年であった。
それから平成、令和の時代に至るまで、新興レバニラの優位が保たれている。

レバニラをはじめに言い出したバカボンのパパ、すごいよね·····


うむ。
ここまでは、エッセイ。
あとはレバニラの俳句。

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レバニラも平和の一部なのだ


季語│韮(にら)・仲春


これは冗談抜きで気に入っている。
一年前の春に完成した、未発表句だ。
わりと落ち着いた生活の中で生まれた。
まだ、ケータイさえ持っていなかった頃だ。

ケータイなんかずっと持ちたくもなかったのだけど、山から町へ降りて来る時に、どうも社会生活では必要らしいぞ、と気付いた。
岡山市の楽天ショップで仕方なく購入した。

書きためた創作ノートを発表してもよさそうな場所、noteをスマホでみつけた。
noteをみつけたとき思った。ここなら好きな創作を誰にも邪魔されないだろうなと。

・・・・・・

暦では春隣なので、満を持しての発表。
有季だが、五七三、自由律俳句である。
ぱっと見た感じ、問題山積みの凡句。
でも自分らしい一句だぜ、と思っている。

問題点と自解釈を述べよう。
口語調、これはイイネとして。

問題


俳句界で嫌われがちな季語カタカナ表記。
韮をニラと記した。
「レバニラ」この是非。
(本来漢字やひらがなで書ける季語は、カタカナにすると風格が落ちやすいのでは?)



接続詞「も」この是非。
(すべってないか?俳句で使うとかっこ悪いんじゃないか?これ以外を使うべきでは?)


中七「平和の一部」この是非
(散文的だろう?二字熟語、しかもこんなありきたりな言葉をふたつも使う意味あるか?)



下三「なのだ」
二音の字足らず。音数のぜいたく使い。この是非。
(なぜ五音使わない?十七音しか使えない俳句でここいるか?「レバニラも平和の一部」だけで十分意味伝わるだろう?五音で別の情報入れるべきでは?)



元ネタが漫画。サブカルチャーの二次創作物といえる一句。この是非。
(パクりやん。ダサいやん)

ぜんぶあかん。と、おっしゃる方もいよう。

しかし。
この句の出来にはそれなりに自信を持つ。

無駄なところは微塵もないし。
足りないものも、ないのだ。



レバニラは、レバニラと書かなければならない。レバ韮、そんな風に書けない。
レバニラの風格はレバニラにしか表現できないのだ。

ニラレバではなく、レバニラ。
この語の由来が「バカボンのパパ」からだと知っている人には、文字通り頭からぴんとくる。
(まあ、この段階でぴんとこなくていいです)


レバニラ「も」何なのだ?
「も」というからには、レバニラと同列の何かにつながるはず。
ここで読者は軽く混乱し、意地悪な期待をする。ほら言ってみろよ、と。

上五の時点で「たかがレバニラ」なのだから、これと取り合せる中七以下で意表をつく、それがオーソドックスなやり方だが。
③につづく。

「は、が、や、の、と」ほかあらゆる接続詞はここで「も」以上の効果を発揮しないことも、③を読めば分かる。


レバニラも「平和の一部」なのだ。
平和とは。壮大なテーマにちがいない。
平和の連想ワードのナンバーワンはたぶん「世界」だ。
言ってしまえばしょうもないレバニラ(ごめんレバニラ)から、平和な世界がひらける。

読者はレバニラ的平和、家庭の食卓、平凡な幸福の光景を想起することができよう。
あるいはランチタイムや帰宅途中、中華料理店でささやかな食事を楽しむワンシーンが。

これら映像イメージの中心に、季語の韮を含むレバニラが鎮座する。
韮は、レバニラという料理の一部である。
全体を紐解くと「平和の一部の、レバニラの一部の、韮」に焦点がバックする構造。

中七で宇宙の真理とリンクする仕掛けを試みた。
ミクロからマクロへ。
マクロからミクロへ。
平和が大宇宙ならば、レバニラは小宇宙。
韮はさらに小なるものだ。
そして一句の中では、唯一の生命である(まあ炒められてますけどね)。

と、ここで気づいて欲しい。
韮は現実光景であると同時に、ぼくらのメタファでもある。
ぼくらのメタファは俳句のメタファである。

宇宙にひとつの小さな命の欠片、それが韮でありぼくたち自身なのだ。
いためられたものの、内なる世界なのだ。

「平和」「一部」どちらもこの句に絶対欠かせない言葉であると思った。
平易な言葉を並べただけでこんなに世界の奥が覗けるものかと、詠んだ当時驚いた。



下三「なのだ」
前述した世界観と後述するもう一つの暗号を同時表現するに、ラストにこれ以外の言葉はありえない。

ぜいたくに無音を残すことで、豊かでありながら逆説的に「欠損不在」の空間が開ける。
一句を大きな大きなゆとりある世界にするため、二音の「無音」を置いた。
けなげな韮に光を集約させる効果を狙った。

作り方として「一部」を「一部分」と直す可能性は残す。
バカボンのパパ的な宇宙を表す二音字足らずの形を取るか「分」を入れて王道五七五の形を取るか、これはどちらも正解なのだ。

どちらも正解のときは、挑戦的表現を前に出しておこうと思う。



最後の「なのだ」
ここでぴんと来る人もいるはずである。
天才バカボンの世界をオマージュするためには決めゼリフ「なのだ」が絶対に必要だ。
これ以上でもこれ以下でもいけない。

句そのものに「天才バカボン」とは直接書かず、「レバニラ」と「なのだ」をセットで提示した。
「この句の作者はもしかしたら赤塚不二夫のファンか?」と想像してもらえれば良い。

天才バカボンのシュール世界、実際には。
わけが分からない。
わけが分からない所を
「よぅわからんけどすごいなぁ」
と思っているのはたしかである。

こんな俳句を詠むくらいに。


レバニラも平和の一部なのだ


ではエンディング曲をどうぞ。

ラブあんどピース😎🙌

これで、いいのだ。

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