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先生は、蝶をつかまえた人

ニンタの定期的な検査入院に行ってきた。このご時世なので、感染症対策が厳しい。入院前に受付で親子共、唾液を採取して検査し、一時間ほどで陰性の判定が出て、無事に入院となった。

大荷物を抱えて遠路はるばるやってきて、とんぼ返りとならずに本当に良かった。入院許可が出て、私はやれやれと、車に積んできた荷物を降ろしてカートに乗せ、通いなれた病棟へとニンタと共に進む。

なにしろ、今回の入院に限っては、どうしても延期したくない理由があった。

それは、主治医のヤマ先生が転勤してしまうと聞いていたから。勤務の最終日は、ぴったりニンタの退院予定日で、今回を逃すわけにはいかない。

ヤマ先生は、ニンタが4歳になるまでずっとわからなかった病名を見つけてくれた先生で、それ以来3年ほどお世話になってきた。

出来ることなら生涯ヤマ先生に診てほしかったくらいだが、そういうことはなかなかない。同じ病院内に居ても担当医が変わることはあるのかもしれないし、これから何度も「主治医の交代」はあるのだと、ヤマ先生の転勤を聞くと同時に、先々の覚悟もした。

ヤマ先生の転勤先はとてもとても遠く、今後ご挨拶に顔を出したりすることは難しそうだ。いや、そもそも主治医でなくなった後にまで、経過をお知らせする必要はない。私達親子にとっては、たった一人の先生だったが、ヤマ先生は多くの患者を診ていて、ニンタはその一人に過ぎない。

それにしても。

人生を預けてきたといっても良いほどの人と、今生の別れになるかもしれないなんて、全くもって実感がない。同じ日本にいるのに、会いに行ける理由もない。

これが芸能人などだったら、その活躍を遠くに知ることができるのに、未来永劫、ヤマ先生がその後どうしているのか、知る術もないのだ。いや、知りたいと思うその事がおかしく、医者側からしたら、ちょっと怖いかもしれない。

医者と患者は、多分、そういうものなのだ。学校の先生ではないのだから、懐かしくなって会いに来られても困る。

ニンタは到着早々に脳波を測定し、血液検査、尿検査、リハビリ、と、いつものメニューをこなした。ヤマ先生もいつも通りで「何か困っていることはありませんか」「気になっていることはありませんか」と、私に言い残したことがないか、繰り返し聞いてくれた。

私の「気になっていたこと」は、発達障害についてだった。今更感はあるのだけれど、最近「発達障害は医師が診断する」ということを知った。ニンタは何度も発達検査を受けてきたものの、それは療育の領域であって、診断ではない。

療育の先生は「しいて言えば自閉傾向」と言い、ヤマ先生は「なんらかの発達障害があると思う」と言っていた。その真意と、今後どうすればいいかを知りたかったのだ。

ヤマ先生は「そうですね、僕は『診断』はしていません。この病院でもやっていないことはないのですが、その分野に関しては縮小傾向にあるので、家の近くの児童精神科などにかかって、相談してみると良いと思います」と言った。

そうか、やっぱりニンタの診断は、まだだったのだ。ヤマ先生はニンタの病状を説明する書類には必ず「てんかん・グルットワン・発達障害」と書いていたので、もしかして診断済なのかも、と思っていたが、発達障害のなにがしかを判断するのは、他の専門家、ということらしい。

ヤマ先生の言葉を聞いてすっきりし、私はお礼を言った。

次に、引き継ぎの話になったが、まだ未定ということらしい。グルットワンならこの人、という決まりもないらしく、ヤマ先生もてんかんの専門医であって、グルットワンばかりを診ているわけではない。

そんな話をしていると、最初にグルットワンを疑ったのは誰だったのかな、とヤマ先生が過去のカルテを遡りだした。誰か上司から助言があったのかと記憶と共に辿っているようだったが、「あ、これは僕が検査の追加出してますね。すごい、脳波測定した後、すぐに診断名が出てる」と、自分の偉業に驚いていた。

過去の自分が書いた記録を読んで、他人事のように驚いているヤマ先生が、ちょっと面白かった。ヤマ先生はカルテを見るまで詳細を忘れていたようだけれど、私は、あの時のことをよく覚えている。

ヤマ先生と初めて会った時、問診がそれはそれはしつこかった。しつこいと言うと失礼だが、他に言葉が見当たらない。1日のうちにいつ体調が悪いのか、それはどんな風だったか、と、形を変えて繰り返し聞かれ、ヤマ先生が前の病院での見立てに、何か違和感を感じていることが私にもわかった。

「この薬を追加してから、目に見える発作がなくなったんです」。と言っても、本当にそれは発作だったのか?と、何度も疑った。

そして、ヤマ先生は、空腹時に体調が悪くなっていたのは、偶発的なてんかん発作ではなくグルットワンで脳の栄養不足、という仮説を立て、髄液検査の結果、それが立証された。その後出た脳波の結果にも、グルットワンの特徴が出ていたし、何ヶ月か後に出た遺伝子検査の結果とも一致した。

それは最短距離で診断名にたどり着く段取りだった。ヤマ先生は、この珍しい病名を、脳波をみる前に、病歴、ニンタの見た目、そして私への問診だけでほぼ手繰り寄せていたのだと言える。

少し遠回りしても、最終的に診断名はついたかもしれない。でも今思い返すと、あのスピード診断は、やはり、偉業であろう。

今回のニンタの脳波は、有り難いことに何の異常もなかった。リハビリでも、出来ることが増えていたので驚きと共に喜ばれ、私もとても嬉しい入院となった。

ニンタは体幹が弱いので、歩くときや走るとき、左右にゆらゆらと揺れるような動きがあった。バランスをとるために、両手を少し広げて走るので、いつも「ひらひら飛ぶ蝶々みたいだな」と思いながら後ろ姿を眺めていた。

毎日一緒にいるので気が付かなかったが、リハビリの時に、両手を前後に、いわゆる「腕振り」をして走っていることを指摘されて、驚いた。体の左右の揺れが私の目ではわからなかった。

ニンタはもう蝶々ではなくなった。それは一生残るものだと覚悟していたし、むしろ愛着さえ持って眺めていたので、知らないうちに消えていたという事実には、嬉しさの中に寂しささえ覚えた。

ヤマ先生もその事に気付いたらしく、別れ際に「ずいぶんと体がしっかりしてきて。グルットの子じゃないみたいだなあ」と言った。

グルットワンの症状には幅があって、歩行に全く問題ない人から、全く歩けない人までいる。「グルットの子じゃないみたい」という言葉は、ヤマ先生でない人が言ったら、誰かを傷つけるかもしれない。

ただ、ヤマ先生は何人ものグルットワンの患者を診てきて、素直にそう思ったのだろう。単純に確率の話で、食事療法でここまで改善したことへの驚きなのだと思う。

ニンタが特別に食事療法を頑張ったわけでもなく、サボったわけでもない。診断時期の早さ、脳の損傷程度、生まれ持った糖質を取り込む能力の高低、併発する他の病状など、全ては運で決まる。そして、ニンタは効果が出て良かったね、と言える部類になるのだろう。今の所は。

その治療のスタートをきったのがヤマ先生で、ヤマ先生は、それを誇らしげに言ったりはしない、控えめな人柄だが、きっと嬉しいのだと思う。私も嬉しいし感謝も伝えきれない。

だから、やっぱりこの後のニンタの姿を診てもらえない…いや、「見て」もらえないのは、真っ暗な夜の海から見える灯台の光が消えたような不安と寂しさがある。

でもきっと、次を照らす人との出会いがあって、私達親子は、それを何度も繰り返していくのだと思う。

3年前、私達がこの病院へ助けを求めに訪ねてきた時、ヤマ先生はうんうんと悩みながら、ひらひらと暗がりを飛ぶ一匹の蝶をつかまえてくれた。今、蝶は地上へ降りてゆっくりと歩き始めている。

これからも、先生を待つ蝶がたくさん居るはずで、どうかニンタのように救われる人が居ますようにと、感謝と共にお別れした。

さよなら、ヤマ先生。さようなら。





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