知的障害のあるわが子。その原因がわかるまで。
私には3人のこどもがいる。そして、2番目の子には、持病と知的障害があり、運動も苦手だ。仮に「ニンタ」と呼ぼう。6歳になったが、中身は幼稚園の年中さん、という感じだ。
ニンタはかわいい。しかし、かわいければ大変さはなんとかなる、ということはない。私はいろんな人に助けられながら、なんとかこの子を育てている。
ニンタが産まれたとき、最初は何の異常もなかった。立ち会った1番目の子が「うるさーい!」と言うほど、元気な産声。経産婦だからか、陣痛から出産までが驚くほど早かった。私はそれほど体力を消耗しなかったので、かわいい!と思う余裕もあり、幸せな出産だった。出生体重も標準。安産で健康で、私はニンタの障害など、考えもしなかった。
母乳で育てたが、問題なく体重は増えていき、よく寝る手のかからない子だった。離乳食を始めると、あまり興味のない様子だったが、それもだんだん食べてくれるようになった。抱きごごちがふんわり柔らかく、天使のようだと思った。
体がクニャッと柔らかく、お座りするのもハイハイするのも遅かったが、それは個人差があると思い、あまり気にしていなかった。けれど、少し心配だな、と思うようになったのは、手づかみ食べをなかなかしないことだった。オモチャは手にとって口に持って行くのに、食べ物だけは自分で食べない。目の前に好物が置いてあっても、悲しそうに泣くだけで食べない。口に運んでやるとぱくぱくと食べる。検診のときなどに相談すると「甘えているのかなー?」と言われるだけで、誰も原因がわからないようだった。実は、その現象の理由は、今でもわかっていない。
1歳のとき、意識を失う発作を起こし、近所の小児科に行くと、ちょっと調べた方がいいと言われ、大きな病院に紹介状を書いてもらうことになった。脳波を調べてもらうと、てんかん波があると言う。100人に1人くらいにある病気で、大きくなると自然に治ることもあると説明を受けた。私は、知り合いに、小児てんかんだった人がいて、大人になって治って元気に暮らしているのを知っていたので、「ああ、あれかー」というくらいで、それほどショックはなかった。
その病院では専門の先生が常勤していないということで、その場ですぐに転院の説明も受ける。「大丈夫ですよ、おかあさん」。病院の先生達が、やけに優しいのが気になった。「私と温度差があるのはなんでだろう?よくある病気でしょ?」私は、てんかんには様々な種類があり、発作以外の障害が伴う例が少なくないことを、知らなかったのだ。そして、世の中に、てんかんに対する偏見があることも、全く知らなかった。
そういうわけで、夫に「てんかんの投薬治療を開始する」と話したときの拒否反応も、全く理解できなかった。「こんな小さい子の脳波を一回見ただけで、そんなことわかるわけない、こんな小さいうちから投薬なんて…!」とかなりの難色を示した。夫にも、てんかんの知識はなかったが、世の中に偏見があることは知っていたようだ。すぐには受け入れがたかったんだな、と、今になってはわかる。
とはいえ、何もしないわけにはいかないので、夫の了承は得ないまま、私は転院先で薬の処方を始めてもらった。発達の遅れのことも話したが、ゆっくりでも進んでいればそんなに心配ない、というような反応だった。
発達がゆっくりだ、ということの他にも、気になることがあった。食事の時に機嫌が悪いことだ。お腹がすくと機嫌が悪くなるのは赤ちゃんとして当たり前だが、口に運んでも運んでも泣き止まず、泣いて怒りながら食べる。泣いていると、「もっともっと」と言われているようで、私もどんどん手のスピードが早くなる。そんな食べ方をするのが苦しそうで、いったい何故だろう?と思っていた。
病名が確定してからわかったのは、ニンタの遺伝子は、栄養が脳にうまく届けられない形をしていて、お腹がすくと、低栄養状態になって、発作、意識の低下、痛みなど、いろいろな症状が出る可能性がある、ということだった。食事の時というものは、当然だがお腹がすくタイミングである。体中がショートしたような状態で、なんとかしてほしくて泣いていたのかもしれない。
投薬治療を開始して、バタンと倒れるような発作はなくなったが、時々ぼうっとしていたり、顔の表情がおかしい時があった。うまく言えないのだが、「今日はあんまりかわいくないな」という日があって、そういう日は機嫌もあまり良くなかった。病院でそういう話をしても、「かわいくない日がある」というあいまいな表現では、お医者さんもよくわからないのか、薬の内容が変わることはなかった。
その後、「ぼうっとした状態は寝起きに多い」ということに気付いて、毎朝動画撮影をするようになった。そして、その動画を先生に見せ、薬が追加されたのは、3歳くらいのことだった。合う薬が見つかると、発作らしきものはなくなり、機嫌が良い時間も増えた。発達も明らかに伸びが良くなった。大きくなってくると表情も豊かになり、異変に気づきやすいのだが、1日の多くをぼうっと過ごしていた乳児の時期、小さな異変はわかりづらかった。もっと早く見分けることができていれば、と思うのだが、もっと早く○○できていれば、と思うことはそれ以外にも山ほどあって、もう考えても仕方ないのであまり考えないようにしている。私は、常にそのときどきで、自分の能力でできることは全てやってきたのだから。
時系列が前後するが、ニンタの1歳半検診の事を書きたい。私はこの日を待っていた。「発達の遅れは個人差」と言われるので、もう少し様子を見ましょうか、と言われてしまうことが多い。しかし、1歳半で歩けない、となると、これはいよいよおかしい、ということになるらしい。謎だった「手づかみ食べをしない」は遅ればせながら解消されていたが、運動面の遅れは相変わらずで、1歳半で、やっとつかまり立ち&つたい歩き。歩くことはできない。移動は主にハイハイ。1歳半を待って、私はすぐに療育に申し込んだ。
療育に通うことにも、夫は激しく抵抗した。夫は、自分が「優れている」と思っていて、それをとても頼りに生きている。簡単に言うとプライドが高い。「療育に通わせる」ということは、夫にとって、「ニンタが障害者であると認める」ということで、はい、そうですか、というわけにはいかないのだ。
私は、と言えば、このときは障害を持って生きることの大変さは何もわかっていなかった。そういうこともあって、「ニンタが障害者だったら嫌だな」とか「かわいそうだな」とかいう気持ちは全くなかった。そもそも、こどもに障害があるとかないとか、そんなことはどうでもよく、今、出来ることはなんでもやっておきたい、という、それだけのことしか考えていなかった。そして、療育に通ったり、投薬を続けていれば、だんだん発達も追いついて行くかもしれない。そんな楽観的な気持ちもあった。そんなこんなで、私とニンタの療育通いが始まった。夫も最初はいい顔をしなかったが、療育のケースワーカーさんの丁寧な説明を聞いて安心感があったのか、すぐに理解を示してくれるようになった。
療育に通い出して、1番大変だったのは、食事の練習だ。すでに、もっともっと、と丸呑み、早食いの癖がついてしまっていたニンタに、「一口量を調整する」「きちんと噛む」ということを教える作業。療育に通って知ったが、食事のときの口の動きは複雑で、教えるのが大変だという。中でも、モノをごっくん、と飲み込む動きは、大きくなってからはなかなか獲得できないそうだ。ニンタの場合、ごっくん、という動きはできていたが、そのほかにいろいろと問題があった。手に持った食べ物を、小さく噛みちぎることができず、口に詰め込む。スプーンにすくったら、すくっただけの量を全部口に入れてしまう。口に入ったら噛み砕かずに丸呑みする。スプーンを口に入れるとき、唇を閉じずに歯でひっかけて食べ物を口にいれる。そういう1つ1つを、声かけしたり手を添えたりしてやめさせ、正しい習慣をつけていくのだ。療育の先生はみんなとても優しくて、神様のようだったが、食事の指導だけは厳しかった。裏を返せば、それだけ重要なことだということで、私も投げ出したい気持ちを必死に抑えて、家の食事でも、習ったことをできる限り続けた。(もちろん、気力がなくて、丸呑み、ドカ食いするニンタを、悲しく見つめるだけの日もあった)。
そのほかに、歩くリハビリも始まった。リハビリが始まったときはまだハイハイだったが、徐々につかまりだちから手をはなせるようになり、しゃがんだり、立ったり、段差を上ったり、少しずつ少しずつ、作業療法士の先生は根気よく教えていってくれた。
今では、食事についてはだいぶ上手に食べられるようになったと思う。手先が不器用なので、フォークで切ったりお箸を操ったりはまだ苦手だが、口の動きはずっと良くなった。運動も苦手だが、手すりを使って階段の上り下りはできる。
療育は週1回だ。リハビリは月に1回。それだけで全てを獲得したわけではなく、日常生活の遊びや生活で身についたことも多いだろう。もしも療育に通っていなかったら、今の姿はあったのか?それとも変わらなかったのか?ニンタ1人のことでは何とも言えないが、統計で言えば、小さいうちの療育には効果がある。療育を受けた集団と、受けなかった集団では、明らかな違いが出る。そして何より、療育に通うことは、親の心の支えになる。心配なことをいつでも相談できるし、同じ悩みを抱える親同士でつながるきっかけになる。大変なこともあったし、もっとこうして欲しいという要望があった時期もあるけれど、振り返ってみれば、とにかく、感謝、感謝、だ。
療育に通っていて、もう1つ、忘れられない出来事がある。ここでは、年に1度、小児科の先生の問診があった。これは、来年も療育を継続するかどうかの判断をするための問診で、明らかに療育が必要な子にとっては、形式的なものでしかない。
3歳の夏、またその問診の時期になった。その日は土曜日だったので、夫も同席した。日頃の様子を聞かれ、ではまた1年後、と、すぐに問診は終わる。帰りがけ、私はダメ元で、よくリハビリの先生や、てんかんの先生に聞く質問をしてみた。「発達がこれからどうなるか、先のことはわからない、と、いろんな先生に言われるんですが。先生はどう思われますか。やはり先のことを気にしても仕方ないことなんでしょうか?」。先生は少し考えて、すでに閉じていたカルテをもう一度開いた。「療育に通って3年目ですね。そろそろ将来の予測をしてもいい頃でしょう。まず、脳波からてんかんの波がなくならないと、発達は常にじゃまをされる状態が続きます。まずはてんかんの発作をとめることが先決です。それから、そうですね、今までの経過を見ると、一生なんらかのサポートは必要だと思います」。
私は頭が真っ白になった。少しずつではあったけれど、確実に成長を続けていたニンタ。いつか、少しずつ周りに追いついていくのではないかという希望を、私はまだ持っていた。そうではない、一生。一生誰かに助けてもらわなければ、生きていけない。今までその可能性を考えなかった私も、ずいぶんおめでたいが、そんなことを、さらっと宣告する目の前の先生に、一瞬腹立たしささえ覚えた。
どうやって診察室を出たか覚えていない。待合室へ出ると、他のリハビリや問診を待っている親子が居た。そして、その中の一組の親子が、大喧嘩を始めた。子どもは小学生の高学年くらいの男の子。おかあさんは、何があったのか激高して、「もういい!それじゃあ全部1人でやれ!」と怒鳴って踵をかえした。「待って!ごめんなさい!」泣きながらすがる男の子。「うるさい!」それでもおかあさんはその手を振り払った。いつも平和な療育の待合室で、そんな光景を見たのは初めてだった。事情はわからない、よっぽど腹に据えかねることがあったのかもしれないし、おかあさんの方が、感情のコントロールが難しい何かを持っているのかもしれない。そして、私はその親子に、自分とニンタを重ね合わせたわけではない。ただただ、ショックなことが立て続けに起こってーーー。私は泣きながら帰りの車に乗った。その様子をみた夫は不思議そうに言った。「なんで、泣いてるの?先生の話?さっきの喧嘩?」私はニンタのことで頭がいっぱいだったが、こんなときにも状況を説明しないと飲み込めない、夫の鈍感さをうらめしく思った。
夫の鈍感さは長所でもある。鈍感という言葉が悪ければ、ポジティブと言おうか。「一生サポートが必要」という先生の言葉に、夫はほとんど動じていなかった。「そんなわけないよ。こんなに成長してるんだから」。確かに、1年に1度しか会わない先生に何が分かるのか、という見方もあるだろう。でも、そうではない。3年療育を続けても、定型発達とされる子との差は開く一方だ。その可能性を考えなかった方がおかしいのだ。私の耳に、夫の明るい言葉はほとんど入ってこなかった。私は心の中で、今日、ニンタを育てていくための舵が、大きく別方向へきられたことを感じていた。
何日かして、てんかんの経過を診てもらっている病院の定期検診があった。私は先生に切り出した。「療育を受けているところで、『てんかんがある限り、発達のじゃまになるだろう、一生サポートも必要だろう』、という見立てを話されたんです。いろんな考えがあると思うので、可能性の1つとは思っていますが…。やはりその覚悟はある程度しておかなければならないと思いました。その上で…、てんかんの発作を減らすために、できることはもうありませんか?」そのときはもう、新しい薬を追加したことで、発作はぐっと減っていたときだった。普通なら、しばらくこのまま様子を見る、というところだろう。けれど、先生は新しい提案をしてくれた。「隣の県になるんですが、もっと詳しく脳波を診れる病院があります。それから、これも別の病院ですが、遺伝子検査ができる病院も紹介できます。もう少し詳しく調べてみますか?」私は、2つ返事でその提案を受け入れた。
そこからの病院めぐりは長かった。遺伝子検査はニンタだけでなく、私と夫の遺伝子も調べて、様々な可能性を検証する。隣県まで行って調べる脳波検査は一週間もの入院が必要で、卒乳したばかりの3番目の子をを実家に預け、無理を通しての決行だった。
入院先、隣県の先生は、とても真面目で誠実そうな、物静かな男性だった。そして、とても控えめなのに、あいまいな表現だけはとことん許さず、それはそれはしつこく、繰り返し、慎重に、これまでの経過を聞いてきた。いつ、どんな発作が起きたか、それはどんな様子だったか。わたしも記憶があいまいな部分があり、ハッキリ答えられないでいると、うーん、と頭を抱えて何かを考え込んでいた。そして、ちょっと調べたいことがあるので、脳波以外にもコレとコレの検査をします。と、方針を決めた。慣れない入院生活、痛みが伴う検査もあり、私もニンタも、ものすごいストレスだったが、今はここに頼るしかない。
隣県の病院は、全国的に有名な病院らしく、日本中から、多くの親子が検査入院に訪れていた。てんかんは、発作を薬でコントロールしているうちに、自然に治るものもある。しかし、薬を飲んでも発作が止まらず、生活に支障が出るような重い症状の人もいる。てんかんは複雑な病気で、薬の調整ひとつとっても、簡単に答えが出るものではないようだ。原因が特定でき、合う薬が見つかるのはとても幸運なこと。中には手術で治るてんかんもあるが、脳を切り取るので、半身不随や記憶障害のリスクもあるらしい。私は今までの不勉強に驚くばかりだった。
そして、病院で知り合った親子の何組もが、「原因の特定には至りませんでした」と、肩を落として帰って行く。発作が起きる瞬間の脳波と動画がとれなければ、原因の特定は難しい。とれたとしても、それで全てがわかるわけでもないという。ニンタの場合も、幸か不幸か、新しく追加した薬のおかげで発作は減っていた。ニンタは48時間、連続で脳波をとったが、私の見る限り、発作は起こらなかった。
きっと原因の特定は無理だろう。退院前日の夜、先生が検査結果について説明してくれるというので、部屋に伺ったが、私はほとんど期待していなかった。やるだけやった。それでいいじゃないか。
部屋に入ると、今回ニンタの担当になってくれた男性の先生と、もう1人、先生の上司と思われる女性の先生が居た。担当の先生は、丁寧に静かに話を始めた。「今回、脳波以外に追加した検査がありましたよね。その数値に異常が見つかっています。ニンタさんの場合、脳に栄養が通常の38パーセントしか届いていません。脳波にも、空腹時に、発作ではないんですが、通常と違う波が現れています。遺伝子異常が原因の病気なので、薬はないんですが…食事制限をすることで、発作や発達の遅れを和らげる可能性があります」。病名は、長い英語で、私は何度も聞き返してメモをとった。「食事制限は一生続けるんですか?」「そうです」。私は、ふわあっと体が浮き上がるような、不思議な感覚で先生の話を聞いていた。病名がわかった嬉しさと、これから始まるであろう過酷な治療への不安と。「治療をはじめるにあたって、まず1ヶ月くらいの入院が必要になります。治療を始めるリスクがないかどうか調べた上で、徐々に食事制限を始めます。食事制限が順調に続いたら、家でも続けられるように指導もしますので。一度退院して、いつ入院して治療を始めるか、ご家族で話し合ってきてください。もちろん、ここの病院でなくても、同じ病気を診ている先生は居ますので、家の近くで治療を始める、という選択肢もあると思いますよ」。
その日の夜はなかなか寝付けなかった。出来ることがある、と分かった喜び。現在の医学では、一生治らない、と宣告された悲しみ。これから始まる治療の大変さについては、まだ全く未知の領域だった。
次の日、私とニンタは退院して、家に戻った。夫と1番目の子に病名と治療法を伝えると、喜びはあまりなく、悲しみが勝っていたように思う。それでも、病名がわかった以上、治療を始めるしかない。ニンタは、突然食べるモノを制限されて、耐えられることができるのだろうか。まだ4歳。知的には2歳~3歳程度と言われている。わからない。不安しかない。
不安を抱えたまま、入院治療の準備はどんどん進んでいった。病院はどこにするか、入院中、1番目の子と3番目の子は誰が面倒をみるか。加えて、こども3人の毎日の世話はいつも通りあるし、次の入院までの準備期間は1ヶ月半ほどあったが、あっと言う間に過ぎていった。
そして、ニンタ4歳の冬。私たち家族は、親戚を全員巻き込んでの、「ニンタごはん戦争」に突入したのだった。
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