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老人力

赤瀬川原平が「老人力」という本を書いたとき、もちろん「老害」という言葉はまだなかった。

その本がヒットした当時、私も大変面白く読んだ。老人の長所は、鈍感で細かい事を気にしないところだ、という逆転の発想で書かれていて、年を重ねることが楽しみになるような、軽妙な文章で書かれていた。

そして、年月は流れ、「老人力」という言葉を見聞きする事はずいぶん減った。その代わりではないのだろうが、現在「老害」という言葉がよく使われている。

「老人力」と「老害」の意味は真逆だ。「老人力」は老いて出来ることが減っていくことを「減ったのではない、進化だ」と、とぼけるが、「老害」はいつまでも若いつもりで周りに迷惑をかけたり、昔の価値観を高圧的に押し付ける事などを指す。

出来ることが減る「老人力」も、周りに迷惑をかけるかもしれないけれど、赤瀬川原平が書く老人は、なんとも平和で、「こういう老い方はいいな」と思ったものだった。

一方、「老害」と呼ばれるのは怖い。しかも「老害」は元々の意味を超え、老いた人全体を指すような使い方もされる。「老人力」の範疇である「忘れっぽい」「新しい事を覚えられない」なども、「老害」と言われる事があるので、それはちょっと許してくださいよ、と思ってしまう。

私もその老人に一日一日近付いている。店員さんの横柄な態度にカチンときてしまう事があると、「こんな事が気になっているようでは、近い将来、あたり構わず怒鳴り散らすような老人になってしまうのでは」などと、今から自分が「老害」と呼ばれることに不安になる。

その一方で、もしカチンときたときに即座に抗議できたら爽快だろうな、とも思う。いくら年をとったからと言って、私にそんなことが出来るようになるだろうか。

これは私の個人的な印象だけれど、若い時に自己肯定感に満ち溢れた人が、自信そのままに老害になっていくのでは。

ということは、私は老害にもなれずに、このまま器が小さいまま、小さなイライラを内側に溜め込み続けるのだろうか。

そこで、希望となるのが「老人力」だ。

例えば、団塊の世代の人が「私はHSPで」と言っているのを聞いたことがない。いるのかもしれないけれど、少なくとも私の視界に入るほどには多くない。団塊の世代の繊細さんは、若い時にどうやって生きていて、どうやって現在に至るのか。

一般論になるが、「年を取るとずうずうしくなる」「頑固になって人の意見を聞かない」という意見は、裏返すと、繊細さんの中から、自分の繊細さを克服する人が現れる、という希望にも見える。

私は繊細ではないけれど、すぐにクヨクヨ落ち込むタイプであるので、若い人が生きづらそうにしていると、気持ちが分かるような気がして、心が痛む。私自身も、自分の気分の波に翻弄される毎日はもう疲れた。

年を重ねて、豹変することはないにしても、もう少し自分自身を上手に扱えるようになるとしたら、私は年を取るのが楽しみになる。そうであってほしいと思っている。

「老人力」という言葉が定着しなかったように、私が老人になったとき、もう「老害」という言葉は存在しないかもしれない。

どういう名前で呼ばれたとしても、世間にどう思われていても、私は私自身が幸せであったらいいな、と思う。

そして、今、生きづらい若い人達が、「年をとって楽になったな」と思えるのだとしたら、「マイペース過ぎて困る」くらいの迷惑であれば、そのまた下の世代が引き受けてくださいませんか、と頭を下げたい気持ちだ。

そんなことを考えていると、横柄な店員さんも、それにカチンときてしまう器の小さい私も、老害まっしぐらの人も、「みんなれぞれ事情があるよね」と思えるような、思えないような。

40過ぎた私ごときでは、「老人力」を身に着けるには、まだまだ経験が足りない。もっともっと、人にも自分にも寛容になりたい。



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