親の感情のプログラミングがバグ
先日、続・「食べない子はどうしたって食べない。という記事で、こどもが食べないと親が自動的に苦しく思うようにプログラミングされているんじゃないか、と書いた。
書いた後で、食事だけじゃないよな…と、思い当たる節があって、どんどん気になってきた。
例えば、産後鬱のときに「こどもが全然かわいくない。泣き声を聞くと苦しい。母親失格かも」と自分を責める母親に対して「泣き声が苦しいのは、その子を大切に思っている証。なんとも思っていない存在が泣いていても、苦しくはないでしょう?」という声かけをする場合がある。
私も、そうかそうか、と聞いていたわけだけども。
確かに、こどもが泣いていたら苦しいから、ミルクを与えてみたり、抱いてあやしてみたり、こどもが快適に過ごせるようにするので、こどもにとっては必要な仕組みだと思う。それにしたって、そのために親をここまで苦しめる必要があるのだろうか?
こどもの頃に飼っていた猫のことを思い出す。母猫がダンボールの中で出産して、私は仔猫を見たくて仕方ないのだけど、「産後は母猫の気が立っているから、あんまり刺激すると、ストレスで仔猫を噛み殺してしまうことがあるから、うるさくしないで」と注意された。
実際に、産後のストレスに耐えられなくて悲惨な事件になることが、人間でもある。もうちょっとうまく、こどもを育てられるようにプログラミングできなかったのだろうか。
私など、障害のあるニンタが、ヨタヨタ学校の廊下で歩いているだけで、苦しくなっている。我ながら、打たれ弱すぎる。
いやいやいや、ちゃんと楽しく子育てできている人もいる。プログラミングにバグがあるのは、個人差。私にバグがあるだけ。
あと、産後鬱は母子の問題だけじゃ起こらない。子育てしづらい社会だし、きちんと育てなければというプレッシャーがすごいし、周りの協力がある人ばかりじゃないし。
全部プログラミングの不備のせいにするのは無理がある。
とはいうものの。
こどもカナシイ→ 親カナシイ という作用が、こどもを守るために必要な仕組みとはいえ、やっぱりやっぱり、強烈すぎる。ここがもうちょっと鈍感に作られていたら、「そういうときもあるよね〜、お風呂入って寝よ」となるのに、悲し過ぎて逆にイライラしてこどもにキツくあたったり、落ち込み過ぎてこどもと遊ぶ元気が残っていなかったりするのは、本末転倒。
仕組み自体はいいんだけど、もっと「ちょうどよく」して欲しいんだ。
ちょうどよくないのは、こどもに対する感情だけじゃないくて、例えば引きこもりとか、鬱とか、心に起きる問題が、自衛するためにある作用だとするならば、ストレスで身の危険を感じる → 社会生活を続けられない状態にまで病む という仕組みも、やり過ぎな感じがする。ちょうどよくない。
ちょうどよくないから、心のバランスをとるように、医学も哲学も研究されていて、ストレスに向き合うための方法が書いてある書籍がたくさんある。
でも、きっとその解決方法は、まだ実践レベルにはないんだ。もし誰でも簡単に心の問題から抜け出せるのなら、こんなに苦しんでいる人が多いわけがない。
自己肯定感をあげる方法とか、ストレス対処法とか、認知の歪みを矯正する方法とか、山ほど世に出回っているのに、全然解決してないんだから。
さて。親と子の話に戻る。
こどもカナシイ → 親カナシイ という作用が自動的に起きる上に、その「カナシイ」が度を越していると感じる私の場合、やっぱりその「カナシイ」をコントロールしていかないと体がもたない。
これは個人的な感覚なのだけど、こどもの「カナシイ」と、私の「カナシイ」の分量は同じではなくて、その証拠に、あれやこれやとこっちが心配しているのに、こども本人がケロっとしている時があったり、反対に、そのくらいのことでどうして、と思うくらい、こどもがいつまでも立ち直れずに荒れていたりすることがある。
所詮、他人なので、親の私は、こどものカナシイを想像してカナシクなっているだけだから、同じ分量になるわけがない。
その見当違いな親の「カナシイ」をどう取り扱っていけばいいのか。
「カナシイ」を「ストレス」と捉えれば、いろんな教科書があって、その「カナシイ」がどれだけこどもを苦しめているか、と客観視することで、「意外と大したことではないかも」とか「私の理想を押しつけているだけかも」とか気付きがあったり、「どうにもならないことだから、他に楽しいことをして親子とも気晴らししよう」という解決策を考えたりできる。そうやって、「ストレス対処法」の本に書いてあった。
でも、私はもしかして「カナシミ」たいんじゃないの?それが私の愛情表現なんじゃないの?…と思うと、ちょっと話がややこしくなってくる。こどもがどんなにカナシクても、客観的に捉えて適度な気晴らしをして、ぜんぜんカナシクない親になりたいって、思えないんじゃないの?
「カナシイ」が「ストレス」だって、スパっと割り切れる私であったら、そもそもこんなに「カナシク」ないと思う。
そこが、私の弱さだ。本気度のなさだ。カナシクて落ち込んで、こんなに苦しいところから早く抜け出したいと思っているのに、自分の感情を手放すことができない。
でもそれは、誰かに傷付けられて落ち込んで、その恨みから「あの人のせいでこんなことになった」とどんどん自分を傷つけていくようなことと同じで、全く理に適っていないことだと思う。
親が元気な方がこどもは嬉しいし、こどもの苦しみを親が代わってやることもできない。
だったら、手放さなければ。こどものカナシミを背負っても誰も得をしない。もっと冷静に、こどものカナシミを分析して、100でいったら20カナシミかな、これには何が効くかなと、名医のように、研究者のように、自分の感情を持ち込まないで対処しなければ。
もちろん、そんなことがすぐに出来るような私であるはずもない。
私が欲しいのは、「ちょうどよさ」だ。こどもと一緒に泣いてもいいから、自分を傷つけ過ぎない、ちょうどいいカナシミ。それなら、私にもできるかもしれない。
そう考えたら、ほんの少しだけ前進した。こどもの将来をそれほど悲観しているわけでもないのに、なぜだか毎日カナシイカナシイと思っている私に、少し光が差した。
親というプログラミングが私の意志とは関係なく作動していることを認識しながら、カナシミを「子への共感」と「過剰な心配」と「自己の投影」と「親のエゴ」と…少しずつ少しずつ分解して、うまくやっていこうとしている。
太陽みたいに明るいおかあさんにはなれないけど、負の感情にエネルギーを無駄使いしているおかあさんは、そろそろ卒業したい。
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