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いってらっしゃい          ☆絵・写真から着想した話 その5

この話は、エドワード・ホッパー「Cape Cod Morning」(コッド岬の朝)という絵画に着想を得て書きました。著作権保護のため「Cape Cod Morning」は表示できません。是非リンク画像☟☟☟をご覧ください。((*_ _))ペコリ 
https://www.reproduction-gallery.com/oil-painting/1169335189/cape-cod-morning-1950-by-edward-hopper/

「二〇三号室に越して参りました時野(ときの)です。よろしくお願いします」
 引っ越しと共にご近所への挨拶も済み、永太(えいた)と亜由美(あゆみ)の新婚アパート生活が始まった。共働きのふたりは、翌日から仕事。玄関でハグを交わすと、先に出勤する永太がドアの外へ。永太が鉄の階段を降りて行く間に、亜由美は道に面した窓まで移動し、身を乗り出して「いってらっしゃ~い!」と下に向かって叫んだ。永太が見上げて手を振り返すのを確認し、身支度の続きに戻って、ついハミング。上々のスタートだ。
「あのさ。今朝、いってらっしゃいって、大きな声で送ってくれたろ」
 その夜、向かい合って夕食をとりながら、永太が亜由美に笑顔を向けた。
「嬉しかった?」
 亜由美も瞳を輝かせ見つめ返す。
「ちょっと考えついたことがあるんだ」
 永太に合わせて、亜由美の体も前傾する。
「なになに」
「ここって、マンションみたいにしっかり防音じゃなくてさ。今、初夏ってこともあって、窓開けてる家多いだろ。ついでに前の道は狭くて、向かいの家とかも結構近い。でさ、それを利用して、ご近所の住人を翻弄させる遊びを思いついたんだ」
「どういうこと?」
「『ご挨拶』の熨斗には、『時野』という名字だけ。表札も名字だけ」
「──だから?」
「俺たちの下の名前は、皆知らない。で、亜由美さ、毎朝窓からいってらっしゃいしてくれて、毎回違う名前で俺を呼んでくれない? 俺も毎回違う名前で呼び返すから」
「うわ。面白い! 目撃して聞き耳を立ててくれたら……大混乱するね!」
「だろだろ。いったい、どういうことだ? ってさ」         「うん。お互いに、声張って呼び合おうね」
 それからふたりの朝の楽しみが始まった。
「シンヤ~。いってらっしゃ~い」
「いってきま~す。レイカ!」
「ノブヒロ~。気をつけてね」
「おう! マリエ」
「ユキト~」
「リコ~」
「リュウジ~」
「ミハル~」
 ──ご近所には、ふたりのやりとりは目撃されているし、聴かれているはずだ。が、いつまでやっても反応の手応えがない。ゴミ置き場とかで、「あのぉ、奥さんのお名前って?」とか尋ねてくれたら、しめしめなのに。ウケ狙いを込めて、「トラマル」「カメヨ」を試した翌朝、亜由美が「永太!!」と本当の名前を叫んだ。すかさず永太も「亜由美!!」と返し、思いがけない高鳴りを覚えたふたりは、その日限りで遊びをやめ、本名を控えめに呼び合って手を振ることとなった。


               ◆


 二十年経った。来年二〇二〇年は東京オリンピックが開催される予定だ。日本に大地震でも起きない限り、賑やかで輝かしい年になる。インフラ整備であちこち騒がしくなっているが、十年前にローンで建てた郊外の一軒家までは影響が無い。夫婦とも東京オリンピックを初めて経験することになる世代。せっかくだからと、ネット受付のチケットゲットに挑戦したが、抽選結果ははずれと出たばかり。子どもは授からず、それぞれ仕事は続けていて、永太が先に家を出るのも同じだ。今朝も亜由美は、玄関で靴を履く永太の背後から「いってらっしゃい」と声をかける。
「夕方から雨になるって。会社に置き傘あるわよね?」
「ああ」
 顔を合わせないまま、永太は玄関のドアを押して出ていく。          昨夜、リビングのソファーでうたた寝をしていた永太に「ベッドで寝たら」と声をかけた時「はぁい。──ちゃん」と、寝ぼけて知らない女の名前を口にした。それは、少し前にも永太が亜由美を呼ぼうとして言い間違えた名前と同じだった。いってらっしゃい、のあとに永太の名前をつけなくなって、もうどのくらい経つのだろう。次の朝、亜由美はいってらっしゃいのあと、適当な男名を永太の背中にかけてみた。ぎょっとした顔で振り返った彼に、
「覚えてる? 新婚時代に、でたらめの名前で呼び合ったじゃない」
 永太は少し間を置いて「そうだったっけ」と訝るように目を細めた。
「そうよ。そっちも違う名前で呼んでみて。──ちゃんとか」
 亜由美は、あの女の名前を言った。永太は面白いほど当惑の色を滲ませ、
「──電車に遅れるから」
 靴べらをフックに戻そうとしてかけ損ね、苛ついたように玄関に投げると出ていった。


                ◆


 金婚式から、五年目。永太は認知症が始まったものの、薬で進行を抑えいる。認知症という言葉もいずれ死語になる。認知症リスクを絶つ遺伝子操作は、ずいぶん前に承認されたからだ。永太は、たまに亜由美の名前が出てこなくなる。亜由美はリハビリを兼ねて「ほら、なんだっけ?」と促してやる。詰まっている永太に、昔のように適当な女性名を口にすると、亜由美の名前は出て来ないくせに「それじゃない」と答える。
「ユリ」
「それじゃない」
「ナナコ」
「それじゃない」
「亜由美」
「──ん?」
「あ、ゆ、み。私の名前」
「ああ、そうだった、そうだった」
 永太は新婚の頃を思わせる笑顔に戻る。道から見上げて手を振っていた笑顔。一度、あの女──まだ覚えているあの名前を言ってみたら「それじゃない」と同じ調子で返して来た。
 やりとりの最後は、いつも「あなたの名前は?」で終わる。今のところ「時野永太」とフルネームで即答できるから。永太の不安を和らげ、尊厳を守る。「大正解!!」互いの枯れた手を合わせて、ハイタッチする。十五年前から家事はロボット任せだが、ちゃんと年寄りの手になった。美容処置でいくらでもごまかせるが、いまさら……だ。

「眠い。すこぶる眠い」
 その日の永太は「眠い」を繰り返した。昼前だというのに、またベッドに向かって行く。胸のざわつきを覚え、亜由美は永太を追いかける。ふとんにもぐってしまった彼が瞼を閉じる間際、焦がれるように声が出た。
「ねえ、私の名前は? 永太、私の名前を呼んでちょうだい。昔みたいに」
 色素が薄れた永太の目が大きく開き、亜由美で焦点を結ぶ。
「時野──」
 亜由美は、脳が震えるような喜びを持って待つ。
「──笑子(えみこ)」
 それは二十年前に他界した永太の母──亜由美の姑の名前だった。                                                                                                                          
 細かく震える亜由美の指が、永太の白髪に伸びる。生え際から頭頂に
向かって髪をなでる。何度もなでる。永太、永太、永太。           
「──いってらっしゃい」
 彼は安心したように瞳を閉じ、口を薄く開いて満足そうに微笑んだ。
「いってらっしゃい。永太」
 永太は、そのまま帰って来なかった。

                         了

「公開時ペンネーム かがわとわ」