慶喜を民が褒めそやすことは、亡国の兆しやもしれぬ

 何を言っているんだ、となりそうですが。春秋の筆法だとでも思ってください。

天狗党についてふれない2021年大河関連書籍とは

 野口武彦氏の『幕末パノラマ館』本を読んでいたら、大河ドラマ『徳川慶喜』放映で関連書籍がたくさん出ているとありました。昔は大河関連書籍でもここまで豪華だったのかと思うようなものがチラホラとある。
 ひるがえって、今年の大河関連ムックなぞ見てみると、なんとも言えない気持ちになります。これも不況なのかとは思います。絶対に当たるものじゃなければ出したくない。中身が薄く、図書館で本を借りた方がよほどマシなようなものであろうと、書店で買う層はそこまで考えていないのかもしれない。

 そして図書館で幕末ムックを調べていて、はたと気づいたことがあります。かつての大河便乗ムックの方が内容が濃いと思えることも問題ですが、今年の関連書籍は天狗党絡みが書かれていないか、不自然なまでに飛ばされている。手元にある二十年以上前にでた本では、渋沢栄一が天狗党の薄井龍之が携えてきた訴状をつっぱねたとあるのに、『青天を衝け』関連書籍ではそこが触れられていないのです。
 これはなかなか衝撃的でした。

演じる役者がいい人だから慶喜もいい人だって?

 そしてここからが本論なのですが、『青天を衝け』関連ではあまりに無邪気に徳川慶喜を褒める論調が強い。配役決定時点で、こんな意見を見かけてギョッとしたことを思い出します。
「つよぽんが演じるんだからいい人に決まってるよね!」
 これはどういうことでしょうね。役者は冷酷な悪人を演じてこそではないか。善人しか演じられないとすれば、それはそれでキャリアの幅が狭いことで、喜ばしくないのではないか? 同じ枠でも稲垣吾郎さんではまたちがったのでは? 映画『十三人の刺客』、お見事でした。
 いや、役者本人の問題じゃない。ファンダムの問題だとは思いますが。
 そういう役者の個性とファンダムの特性を踏まえての起用ならば、極めて邪悪としか言いようがありません。慶喜を人間味あふれる善人として描くということは、端的に言って史実の読み取りミスとしか言いようがない。わかってやっているのであれば無責任極まりない。

 そして放送が始まってみると、慶喜が家臣のせいで負傷するも咎めなかったという、慶喜にしては珍しくいい話(ええ、珍しく!)に感動して、こんな声が流れてくる。
「慶喜いい人すぎ! こんな主君だったら忠義を尽くすよね!」
 それは果たして、慶喜の所業を知って出てくる言葉なのかどうか? まあ、知っていたら出てこないとは思いますが。慶喜のやらかしのせいで苦渋をあじわったものの子孫ならば、尚さらだと思います。

慶喜評価の危うさ

 野口氏は、そういう慶喜評価のあやうさを指摘しています。司馬遼太郎の原作にまで分析している。端的に言えば、甘っちょろいんじゃないかと。そもそもあれは原作『最後の将軍』が短編という異例のことでもあります。短編だけだったら、そうも感情移入はしにくかったのではないかとも思える。

 そして野口氏がそう思う根拠も示されるのです。
 あの戦争の記憶が生々しい世代となれば、慶喜の姿勢は無責任極まりない日帝上層部と重なる。近衛文麿と比較する論は複数名からあるえらしい。
 無責任なリーダーがいかに民衆を見捨て、我が身可愛さで逃げるか?
 そういう姿を見たからには、もう、慶喜なんざ肯とはできない。武士の棟梁でありながら慶喜が遁走したことで、日本人の精神性に大きなダメージがあったのではないか? そういう趣旨のことは、それこそ幕臣や会津藩士の口から山ほど出てきていることもわかる。慶喜にきついことを言ってしまったかもしれないと思いつつ、さらに皮肉っぽくきついことをまた言ってしまう心理は、だいたいここで説明ができるのです。

遁走リーダーを是とする危険性

 野口氏は、樺太出身で終戦時第七師団にいた作家・綱淵謙錠の例をあげていました。彼からすれば、奥羽越列藩同盟の人々は樺太に置き去りにされた日本人と重なってしまう。
 山田風太郎も斉昭と慶喜評価が辛辣ではある。慶喜の「豚一」というあだ名をとりあげ、豚肉を食べたからという意味だけれども、子作りの面でも豚のようではあるまいかとまで『人間臨終図巻』に書いてしまう。同窓生が大勢戦死した山風からすれば、自分だけのうのうと子作りに励んだ慶喜なんて、褒める理由がみつからないのでしょう。
 野口氏自身も戦争の記憶が深い。だからこそ、感慨を抱いてしまう。
 慶喜を無邪気に肯定することは、無責任リーダーに甘い国民性をうみだすのではないか? そういう危惧を私は読み取りました。野口氏は日本人が歴史を学ばないこと、小説や大河ドラマでわかったような気になることも警戒感を抱いているとわかります。これは半藤一利氏も似たような趣旨のことを書いています。半藤氏は勝海舟を推していて、慶喜は褒めないと。
 幕末氏研究者(ただし、SNSとは無縁の層かもしれない)には大河を問題視し、嘆く論調が、他の時代の研究者より濃いことは指摘したいと思います。私も同感です。
 野口氏の懸念は、『徳川慶喜』が放映された平成前期ならば、杞憂だったのかもしれませんが、令和はどうでしょうか。

貴人情けを知らずとは、まさに慶喜のこと

 極めて不幸なことに、コロナ禍の今、戦中派の危惧は的中したように私には思えます。
 慶喜と斉昭のように、パフォーマンスだけは上手で、外面はよく、威勢がよく、中身がないリーダーが持て囃される。
 失敗は部下のせい。成功は自分のおかげ。そんなふうに成果を横取りにして胸を張り、恥とも思わないリーダーもいる。
 慶喜が現代にいたら、何をするか想像はつきます。優先的に自分と仲間にワクチンを摂取し、会食をする。そういう人を人とも思わぬ行動が慶喜の特徴でした。

 慶喜は外国からの脅威を国民がひしひしと感じている時代に、フランスの軍服を着て写真を撮影し、豚肉に舌鼓を打った。
 元幕臣が生きるか死ぬかの瀬戸際の中、駿府で自転車を乗り回し、カメラに凝って写真を撮りまくっていた。
「貴人情けを知らず」
 そう元幕臣たちはため息をついた。これぞまさしく慶喜のためにあるような言葉です。

 そんな慶喜も、渋沢栄一には親切だった。理由はわかります。長州閥に取り入り、有力政商となった渋沢は、利用価値といううまみがある。
 永井尚志は面会に来ても会おうとすらしない。勝海舟は最晩年、相手が歩けなくなってからやっと会いに行く。
 それほどまでに告白で、使えなくなった人間をそれこそ弊履のように捨てる最低最悪の君主を持ち上げること。そのことがどう危険か?
 でも令和では、SNSの使い方がうまけりゃプチ慶喜はいくらでも生まれかねない状況だ。インターネット、スマートフォン。こうした技術革新は、斉昭や慶喜、そして「永井は会えないのに自分は慶喜と会えた」と回顧する渋沢のような人物にとってますます生きやすい世の中を提供しているように思える。

 まったくもってこんな流れには乗る気がしない。
 こんなしょうもない流れが永続するとは思いたくない。世間では慶喜礼賛バブルのようですが、私はどうしたって乗れません。先祖の墓に唾棄して出世するような人間になりたくはありません。

 以下、投げ銭で続きでも。

ここから先は

485字

¥ 100

よろしければご支援よろしくお願いします。ライターとして、あなたの力が必要です!