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【書評】関良基『日本を開国させた男、松平忠固: 近代日本の礎を築いた老中』

 戦国と幕末――そんなタイトルの池波正太郎のエッセイ集を読み、ワクワクした昔のことを思い出します。熱いエネルギー智勇に優れた英傑が輩出された時代。それゆえに、心惹かれるのだという説明に、納得いったものでした。

 そういう思い出があるからこそ、日本人は戦国時代と幕末を暴かれると、何かを壊されたような気分になるのだとは思うのですが。戦国はここでは横に置きます。幕末については近現代史、そして政治や社会に直結するからには、ロマンに酔いしれることはできないのだと。

 そう痛感したのは、歴史ライターになってからのこと。知れば知るほど、幕末史には失望が募るばかりでした。幕末って、そんなにかっこいい時代かな? むしろ、黒船がやってきて大変な時に、内輪揉めをしている姿は一体何なのか。そう疑念を感じてしまうのです。いろいろと隠蔽をする明治政府にも、不信感ばかりが募ってゆきます。

 武将ジャパン提出用『るろうに剣心』原稿を書いている時、その苛立ちはひとつの頂点に達しました。

『るろうに剣心』主人公・緋村剣心が背負った「人斬りの業」にモヤモヤ https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2020/08/09/150026

 劇中でいくら改心したとはいえ、十代半ばで洗脳されて尊王攘夷ヘイトクライムをしていた主人公。こんな人物に感情移入して、一体何をどうしろというのだろう? 断っておきますが、私はかつてこの漫画を愛読していました。そのことも含めて、苦い思いがどうしたって湧いてきてしまう。作者なり、ファンなり、演ずる人に罪はない。

 あるのだとすれば、私たち全員の歴史観だ。歪んだ地面に立っていれば、人は全員、歪んでしまう。

 歴史だけではなく、我々の認識そのものが、身を捩りたいほどに恥ずかしいのでは?

 BLMの時代、日本の幕末史認識だって無事では済まされない。このことは、先日鄭祖威氏『幕末長州』を読んでからますます強くなるばかりでした。

 そういう心情に、関良基『日本を開国させた男、松平忠固』はピタリとはまったピースでした。あまりによい本を読んでいると、手を打ちたくなり、雷鳴を聞いたような気分になります。本書はまさしく、それでした。

幕末の上田――忘れられた、忘れてはならないカード

 2016年大河ドラマ『真田丸』のフィナーレ――主人公である真田一族の統治した上田藩が、幕末を動かすと示唆されるラストシーンが印象的でした。なるほど、そういうことか! 吉田松陰の師匠である佐久間象山は上田の人だ。徳川に一矢報いたい真田の思いが、そうやって伝わると誘導するのか。巧みな脚本だ。そう、うなったものです。

 けれども、それよりも上田はもっと幕末において意義がある。そう確信できたのが、本書著者の『赤松小三郎ともう一つの明治維新』でした。

 赤松小三郎の理想は、幕末を生きた人々の中でも突出した勇気と知性があると思えました。藩や勢力の垣根を越えて知識を伝え、議会政治やデモクラシーにまで通暁している。武力行争による新政権樹立を回避するために最後まで諦めずに尽くしたからこそ、凶刃に倒れてしまう。あまりに先進的で、彼の理想に時代も人も追いつけなかったのか。とうの昔に亡くなった人物の死が、こんなにも惜しまれるのかと驚きました。

 どうしてこんな素晴らしい人が無名だったのだろう? そう疑念が渦巻いてきたものの、苦い気持ちとともに、納得できたものです。

 フィクションで流布される坂本龍馬像に似ている、そんな赤松。彼は、どうして歴史から消えたのか? 答えは予測がつきます。龍馬を殺したのは会津藩であるけれども、赤松の場合は薩長とみなせる。維新側が武力による政権交代を目指したことが明白だからこそ、歴史の闇に消されていったのだと推察はできるのです。

 赤松の存在に光を当てることが重要である理由は、わかってきました。歴史を描く上で、語り手にとって不都合なことは隠蔽されることがある。つまり、描かれなかったことにこそ、深い意義があることになる。

 この赤松にせよ、佐久間象山にせよ、上田の人物です。上田は幕末史において重要で、かつ消されたカードなのだと、私なりにわかってきました。

 そんな幕末上田のカードがまたしても見える、それが本書です。

上田藩主から老中になった人物がいる

 本書はそんな上田藩主から、老中となった松平忠固の生涯を追う一冊です。タイトル通り、「日本を開国させた」ことは確か。その功績が評価されなかった背景や、思想を丁寧に追いかけてゆきます。

 忠固の思想は、丁寧に読み解かれた言動からわかります。それなのに、どうしてもこれが本当のこととすら思えないのは、あまりに彼が先進的であるからだと気付きました。

 たとえば、こんな徳川斉昭との論争。
「下田を開港などしたら、キリスト教徒が溢れてしまう! アメリカ人は調子に乗って、江戸城見学まで来るかもしれん! そのうち、将軍と縁談を持ち出したりして……自分の娘とアメリカ人が縁組を持ち出したらどうするんだ!」
「下田がキリスト教徒だらけになったら、セキュリティでも固めて、プレゼント交換でもして、交流すればよろしい。下田の住民が全員キリスト教徒になったところで、それが何だと言うのです?」

 笑いながらこう返した忠固と、斉昭では、そもそも話が噛み合っていない。次元が違う!

 価値観の進歩が違いすぎます。ありえない仮定を持ち出し、相手の心情につけこみ、幼稚な勝ち誇り方をする斉昭に対し、忠固は現代ですら先進的な考え方であるとわかります。現代だって、マイノリティの権利を認めたら滅びるだの、声高に言う人はいくらでもおります。忠固の交渉力は、現代でも通じると思います。

 それと同時に、通じないだろうとも……。歴史において、あまりに先見性がありすぎると、異端者として排撃されます。忠固がそうならないわけもないだろう。そりゃ低評価は宿命だろう。そう思えてくることも、確かなのです。

 忠固の欠点は何か? 斉昭のようにしつこく、熱狂し、ゴリ押しをすることができなかったのか。プッシュやアピールが弱かったのではないかという印象も受けます。スマートすぎて、力で強引に押し通すことができない。そう思えてくるところはありました。

 そう、そこが本書のよいところでもあります。幕末は、先祖顕彰をともかくしたい、先祖の仇討ちをしたい、そんな書物が多くあります。近年は、明治維新を過ちと定義するベストセラー本もある。興味深いテーマであっても、感情的になりすぎていて、もう少しトーンを落として欲しいとはどうしても思ってしまう。

 本書の場合、バランスが極めて丁寧にとられています。松平忠固という人物を再検証するのみならず、冷静な評価も同時にしているのです。

あやまった選択をし続けた、不都合な史実

 そんな冷静な目線で見ていくと、幕末史は別の姿が浮かび上がってきます。智勇に優れた英傑たちが正しい選択を続け、その結果新たな国家ができた? それどころか、ことごとく間違った選択を続けたことが見えてきます。

・開国と交易という、して当たり前の選択で揉める
・徳川斉昭の権限を削ぐことができず、懐柔しようとした阿部正弘にも問題がないとは言えない……むしろ斉昭の下劣な性犯罪に嫌悪感を抱き、排除しようとした大奥が正しかったのでは?
・吉田松陰は、佐久間象山のもとで学び続ければ、尊王攘夷にああも傾倒しなかっただろう。その弟子たちも……
・水戸学の尊王攘夷思想が、何もかも悪化させていった
・それなのに、そんな水戸の一橋慶喜を将軍候補にした時点でおかしい
・赤松小三郎がそのために奔走したように、戊辰戦争回避はできた。それなのに、彼という才能を殺してまで、戊辰戦争を推し進めた。あの無駄な戦争で、どれだけの才能が浪費されたことだろう!

 上田というカードの真正面には、水戸というカードが浮かび上がってくる。水戸の先には、尊王攘夷を掲げた長薩をはじめとした勢力が見えてくる。本書では薩長ではなく、“長薩”という表現を使います。その理由を、読んで是非とも確かめていただきたいところです。私もこれには、納得しかない。

 じゃあ、そんな失敗の連続でどうにかなったのはなんなんだ? そういう疑問は湧いてくることでしょう。それは日本史ではなく、世界史の勉強にも突入します。グローバルヒストリーでも学んでください。要するに、戊辰戦争で維新側を支援したイギリスの思惑ありきの成功です。

 幕末史は、誤った選択をし続けた――これは私個人としても、納得のできるところではありました。“尊王攘夷”と訣別をせず、その思想と維新志士を結びつけ、美化する姿勢に、日々苦いものを感じているところではある。英雄論なんて結局、ことごとく失敗した選択肢を誤魔化すための糖衣でしかないでしょう。

 今こそ、“尊王攘夷”の弊害を議論し認識せねばならない。言語道断であり、現代におけるヘイトとレイシズムに通じるものがあるのだから。いくら口先でヘイトやレイシズムは悪いと言おうと、教科書ではそんな犯罪に手を染めた人物が偉人として称えられる。前述の通り『るろうに剣心』は今でも大人気だ。

 ええ、理由はわかります。尊王攘夷にかぶれた人物を徹底して排除してゆけば、幕末史に残る人物なんて、ほぼほぼ消えてしまいかねない。新選組だって、思想的には維新側とそこまで隔たってはいませんから。

 幕末モチーフのフィクションが大打撃を受ける? そんなことは些細な問題です。もう幕末史は神話になりました。世界遺産に松下村塾が登録されたからには、立派な国際的政治案件です。

 そんな政治案件の底にあるきな臭さをどうするべきか? 明治政府元勲だってそれは考えると。尊王攘夷を否定するとなると、自分たちのやらかしも反省しなければならない。そう考えた明治政府は、どうすればよかったのか? 根本からカードをひっくり返すのです。

「弱腰幕府が不平等条約を締結したからだ!」

 こうやってひっくり返すと。締結当初は公正で、決して不平等とは言えなかった、清よりもはるかに好条件であった条約。そもそも西洋諸国の狙いは、植民地化よりも交易による経済活動を念頭に置いていました。前述の通り、忠固はそこを見抜いていたのですが。

 それでは、どうして不平等になったか? 攘夷を掲げたテロリストたちが、外国人殺傷や外国籍民間船への砲撃を行った。そのたびに幕府は、相手の言い分を飲まされていっただけなのです。幕末史は狡猾なマッチポンプがある。攘夷で諸外国の感情を悪化させ、幕府との交渉を妨害する。そんな弱腰幕府と我々は違うと掲げて明治維新を行う。そこに疑念を挟む抵抗勢力から言葉を奪い、主張を奪い、疲弊させる。そういう構造です。

私たちは無駄な幕末論議に時間をかけすぎではないのか?

 こういう構造にしておけば、殴られた側はまず先祖の名誉回復にエネルギーを費やすこととなります。会津藩を悪く言うつもりはないけれども、彼らが自分たちの正義を掲げれば掲げるほど、本質的な論争とは別方向に流れていきます。

「会津は嘘つきだ! 遺体埋葬禁止論をみろ!」
「新選組だって白色テロリストなんだ!」

会津戦争の『遺体埋葬論争』に終止符を……亡骸の埋葬は本当に禁じられた? https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2019/10/23/114242

 相手がこう喧嘩をかい、あとは罵倒になって……そういう流れがどうしても出ていく。名誉の回復は大事ですし、否定するつもりは一切ありませんが。先祖が悪様に罵倒されていたら、反論したくなるのも人というものでしょう。けれども、幕末の話は同じ場所をグルグル回っている感があって、私は近寄ることすらしたくない境地に至りました。
 幕末史は興味もあるし、仕事の種でもあるし、先祖も関わってはいる。それでも、どの藩なり地域にも関わりたくありません。こんな三流ライターでも、幕末史がらみでは顕彰を掲げた人に叱り飛ばされ、流石に懲りました。誰かが幕末の話を始めたら、「へえー知りませんでした!」と聞き流すか、黙り込むか、なるべく早急に退席するよう心がけておりますが……。

 そういうややこしい幕末史という縄を、快刀乱麻によって断つカードがあるとすれば? それがあったかもしれない、上田に! 

 上田というカードは、そもそも【不平等条約ではない】という視点を明確に強化していきます。

 岩瀬忠震ら幕臣再評価の中、上田はこの流れを一歩進めます。松平忠固、佐久間象山は途中で影響力なり命を失う。それでも維新前夜まで、赤松小三郎は残っていた。

 本書と『赤松小三郎ともう一つの明治維新』は、もうひとつの可能性を指し示す。どうして上田のことを知らずに来たのか? それはあまりに強力すぎるから? どうしてこんなに先進的なのだろう! 読み終えた今も、熱気と疑念が渦巻いています。もっともっと解明され、研究が進み、広く知られて欲しい。そう思えるからこそ、興奮気味でまとまりのない書評を書いているのです。

 もう、地元なり先祖自慢なり、パワーゲームはやめましょう。そんなことは何ひとつ、生産性がない。

 道理は何か? 現代の目線からあえて判断してみて、幕末における正しい選択肢は何であったのか? 冷静にそう考える時は、本来とっくに到来しているべきであったのです。

 もう、150年以上経過しているのですから。それなのに、結局のところ私たちは明治政府の作り上げた神話ありきで生きてきたのだと思うと、気が遠くはなります。けれども、だからこそ、目覚める必要はある。本書は、目覚めるようにゆさぶりをかけてくる一冊です。

女性と民衆の視点から見る歴史

 とはいえ、本書のレビューがあるとすれば、変な低評価もつくだろうとは予測がつきます。

 それは民衆や女性の力まで、本書は扱っているがゆえにそう思えます。松平忠固だけでいいのに、大奥だのなんだの。フェミニズムを無理矢理入れようとしたようで不愉快だとか。生糸の話は無関係だとか。そういう話です。

 けれども、そこがあるからこそ、本作は素晴らしいと思えます!
 幕末史は、男の英雄が時代を作るというお約束がある。風呂から龍馬に危機を知らせるおりょうの姿が象徴的です。新島八重や中野竹子のような個人に注目が集まることはあっても、あくまで彼女らは男性的な武勇を発揮したからのこと。

 女性の政治力と発言力は、意図的に矮小化されているとは感じます。篤姫にせよ、和宮にせよ。悲劇のヒロイン扱いをされるだけで、その政治力はあまりに語られない。2015年大河ドラマ『花燃ゆ』では、吉田松陰の妹のうち、最も政治的な関与をする長姉・千代の存在が消されたうえに、史実では目立たない末妹・文がおにぎりを握り続けるという、ひどい設定でした。

 幕末から明治史を調べていると、この手のミソジニー(女性嫌悪)に疲れ果てることがある。幕末の政治局面で明らかに強い権限があり、かつ徳川斉昭排除という動きを見せた大奥について、本書きっちり評価しています。

「男日照りでヒステリックなババアが政治を引っ掻き回した」

 そういう嫌悪感や偏見はありません。そう、幕末の大奥を見る目には注意が必要です。一橋派の薩摩藩からすれば、大奥のババアどものせいで失敗した恨みつらみがある。陰湿に、そういう目線は反映されます。実にヒステリックでネチネチしていますね。

 けれども、本書は大奥の判断理由を掘り下げています。

 斉昭は、精力絶倫だから嫌われた、そういう単純な話ではありません。公家出身の正室は大事にしていたという斉昭。そんな彼が、大奥入りに際して不犯の誓いを立てていた唐橋に性的暴行を加え、妊娠堕胎までさせ、嫌がらせのように妾扱いをした。この行動には、性欲ではなくむしろ支配欲を感じさせます。将軍権力、女性の発言権、プライドを踏み躙る邪悪な性格をどうしたってそこには感じてしまう。

 現に、斉昭は政敵の意見を握り潰そうとし、異人を殺せとヘイトクライムを扇動する、交渉のテーブルにすらつこうとしない、人格的に問題がある人物ではありませんか。女のヒステリックな好き嫌いだのなんだの言われますが、こんなひどい理由で女性を弄ぶ人間はろくでもないということではありませんか。#Metoo運動の時代に、これは重要な指摘です。

 そんな大奥の再評価とともに、民衆の目線も入れてきます。

 ディアナ号事件では、ロシア人を必死に救出した人々。黒船来航に興味津々であった人々。

 そして、これからは交易の時代だと理解し、養蚕の品質を高めていった人々。

 輸出まで見据え、産品の生産にあたっていた人々。

 ロマンあふれる幕末史からは排除されている彼らこそ、日本の強みである優れたものづくりを作り続けていたのです。

 ここでも、どうしたって皮肉な思いが湧いてきます。明治以降、日本の生産品は海外の万博で高評価を受けるようになる。けれども、そうした生産を担っていた人々には光が当たらない。

 民衆が未来を見据えてものづくりに励んでいた頃、尊王攘夷というヘイトクライムや、政権争いに終始していた政治家が、自分たちの手柄のように鼻を高くしている。そういう図式が、教科書からフィクションにまで、あふれている。

 本書には、そんな消えた声を再生させる力がある。だからこそ疲れて、辛くもなってしまう。本書は力強い平手打ちのようで、目を覚まさせてくれる力がある。

 本書は、歴史の時間に習ったこと、大河ドラマや小説で描かれたことがおかしいという問題提起だけではない。

 嘘でも、でたらめでもいいから、カッコいい英雄像を見ていきたい。女も民衆も脇役でいい。スカッとする幕末が見たい! そういう気持ちに対しても、強い一撃を加えてきます。

 幕末史をひっくり返す、力強い本が届きました。歴史の転換点であるBLM時代の今こそ、読まねばならないそんな一冊です。これからも、上田からどんな史実が解明されるのか? 幕末こそ上田だと常に頭に入れておこう。そう思える、とてつもない一冊でした。

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