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移りゆく季節と気持ち

7月の終わりにちょこっと体調を崩し、ようやく風邪症状がおさまった、よかったよかったなんて思っていたら季節が8月へと移ろいでいた。
ほんの半月前、海の日の頃はまだ透き通っていたプールの水が今日見たらすっかり濁っていて、底には藻のような深緑が淀んでいて、たしかにこれだけ暑ければプールも危険だよなぁ、と考え、っていうか今は夏休みだからこうなるか、と思い直すなどした。
きっとまだまだ暑い日が続く。そう思うと心底うんざりするけれど、季節が、時間の流れが足を止めることはなくて、その当たり前がなぜかせつない気持ちを思い起こす。くるりの『八月は僕の名前』が心地いい昼下がり。

季節と同じように、人の気持ちというものも移りゆく。

最近になって、かれこれ10年近く続けているTwitterを(Xと呼ぶのはいまだに憚られる……)やめよう、という気持ちが固まってきた。学生の頃にぼんやりはじめて、なんやかんやで今の今まで続けてきたSNS。
便利だよな~と思う一方で、前(それこそはじめたばかりの頃とか)のほうが使いやすかったな~とか、バズりやら炎上やらを目にして不用意に心を乱されることが増えたな~とか、率直に言うとそういういろいろに疲れてしまったがゆえ。

わたしは自他共に認めるオタクなので、大好きなバンドが活動休止を決めたことも理由のひとつではある。もともとはそのバンドのことが語りたくてわざわざアカウントを作りなおしたくらいだからね。
活動休止についてはもちろん寂しいし、そうなったあとのことは到底想像もできないのだけれど、「区切り」という言葉には腑に落ちた。いろんなことを考えて、いろんなことをたくさんの人たちと話し合って、それでも揺らがない決断ならば、受け止めるしかないでしょうよ、と。

たぶん、5年前の自分だったら受け止められなかったと思う。日常において、人生においての割合が大きかったから。

それが、時間が流れるにつれ、環境も思い入れも考え方も変わっていった。自然なことであり、決して悪いことでもない。たとえるなら、「大好き」という気持ちは変わらないまま、その気持ちを掬い上げる器のカタチを変えた、という感じ。大きくて美しい陶器から、そこまで大きくはないけれど割れにくくて耐熱で、それでいてお気に入りの器に移し替えたの。

そうしたら、なぜか以前の自分との温度差が気になるようになってしまった。
同じ熱量のままなのに、耐熱だからそれが伝わらない。素直な気持ちのはずなのに、なぜか「ちがう」と感じる。わたしの気持ちはわたしだけのものであって何も違わないのに、「ちがう」と言って消したり書き直したりまた消したり……

そういうのが続いて、いい加減やめよう、と思った。

たくさんの人に出会わせてくれて、Twitterを通してでしか話したことがないのに近くに感じることができて、そんなすごいツールを自ら遮断するのは寂しいような気もするけれど、それもまた、移りゆくものだから。そういうものだから。

まあ他にもあるからね、SNSっていうものは。どうしても繋がりたい人とはどうにかして繋がれるはず。そしてたぶん、わたしにはnoteが合っている気がする。文章を書くタイプのオタクだから。

気持ちを整理するためにつらつら書き綴っていったら、だいぶ考えがまとまってきた気がする。
わたしのTwitterのアカウントが消える頃には暑さも少しはマシになっていてほしい。切実。