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手のひらの孤独

電車に乗れば目の前の座席1列に座っている人の全員が視線を下に落としている。視線の先には手のひらに握られた目に見えない電波を放つ四角く細長い機器、つまりスマホだ。こんな光景がいつから当たり前になったのだろうか。慣れというのは恐ろしいものである。

私は大学生になるまで自分の携帯を持っていなかった。中学生の頃にはみんな持っているのが当たり前だという風潮があったが私は自分の携帯を持つことはできなかった。厳しい母親の教育方針があったことやそもそも家庭の経済状況的に余裕がなかったのも今になれば理解できる。
スマホを持っていなかった利点は学生時代に勉強時間が大いにあったことや学校で友達と話す機会を大切にできたことだと思う。私の妹は現在、高校生で既にスマホを手にしているがスマホに時間を費やし過ぎてしまうからけじめをつけるのが難しいと言っていた。
私が思う携帯を持つことによるマイナス面は目に見えない誰とでも繋がることだ。電車の両隣に座っている人ともしかしたら繋がっているかもしれない。”誰とでも”は良い響きのように感覚を鈍らせてくる。さらに、つい最近にも事件を起こした誹謗中傷の嵐。どんな時でも言葉の選び方や使い方は慎重にしなければならない。手のひらにはさまざまな嫉妬やプライド、自慢が詰まったたくさんの人の”孤独”が息をしている。その”孤独”が時に傷付け合い、助け合い、励まし合うのだ。なんとも扱いづらい化け物である。

あんなに小さな物体が人を惹きつけて離さないのは中毒性があって恐ろしいと感じる。この先の未来に生きる人が”手のひらの先に落とした視線が見つめるものが全てであり、答えである”なんて言う世界が来るかもしれないと思うと背筋がゾッとする。そんなことが起きるわけないなんて笑っているあなたは1番危険かもしれない。あなたが握る手のひらにはもう一つの世界があることをお忘れなきよう。

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