極夜(小説)
水の音が止んでも頭の中で繰り返されて次第に酔ってまどろむ。
布を介して伝わってくるシャンプーの匂いが愛しく、肌にまとわりつくシーツがこそばゆい。
そこら辺のごく普通の人間と比べ、胴や足にシーツがよく絡みつく。
それもこれも私に何もないせいだ。
体の弱い母が無理して両性具有と呼ばれる一種の奇形児で私を生んだせいだ。
ぱっと見、貧乳の女に見えるが、どう揉んだって胸は膨らまない。局部はにじりとも動かずぴったりと閉じている。
子宮は私自身が消そうとしたのか、小さく縮こまって動かないし、本来外に出るはずの精巣だって腹の中で作る途中のままになってほっとかれている。
未発達も甚だしい私の体は形だけで実は機能を全く果たしていない。
そのせいでホルモンが不安定になり、今日は女らしかったけど、昨日は男らしかったということはよくある。
ただ、気持ちの中ではまだ女の割合が多いので、少し助かっている部分もある。
私の自我はいつだって女らしくいようとする。
どっちつかずな私は最初からいないので、私は女なのだ。
私自身を丸ごと理解する人間は滅多にいない。
比較的親しいと言える人間の中でも告白できたのは生まれてこの方、誰もいない。
形に騙されてすっかり女だと思い込んでいる人間には少しばかり粘っこくて重たい事柄だろう。
普通の人間には到底わかりえないと想像するたび、心臓が膨らんで肺を圧迫する。
私は新しい人間に出会いたくなくて、周りが続々と就職していく中、私は横目でそれを見ながらバイトをし続けた。
別に人間不信になったわけではないのだが、新しい人間に私を理解してもらおうとする営みがもどかしく嫌いだったからそうした。
接客業は長くて三日まで。長期でするなら全く人と会わない、もしくは個人でできるようなバイトばかり選んだ。
このような生活を何年も続けると、まんまと私は人間の群れから離れることができた。
一刻も離れたいと思っていたのに、離れてしまえば呆気ない。
私を人の輪に戻す人間など最初からいなかったということだ。
小さい頃の私だったら、今のような状況を悲しがっただろうか。
ただ、今の私と昔の私が会ったら、きっと昔の私は今の私を鼻で笑うことは確実だ。
昔の私は年相応に幼かった。
自分の身体をいつまでも認めようとはしなかった。
それなりに人間らしかった私は醜さを誰からともなく注がれてもっと人間らしくなった。
黒に少しでも染まれば、真っ白には戻れない。
白は実のところ、一番濁った色だと聞いたことがある。しかし、一番美しい色を作り出すのはいつだって白なのだ。
私の中で白に憧れる時期は終わった。黒に近づいたならば、とことん飲み込まれてやろうとさえ思う。
濁った白色をした私を力いっぱい抱きしめて私はこの先に進んでいく。
排気ガスと胸の奥にある塊に私は交わらなければならない。
結ばれて、離れて、混ざって、捨てて……。
何か行動に移すたび、悲しくなってくる。
この先に何もないことを願う日々が続く。
願いながらまた、人ごみにまみれにまみれて自分の生活を探しに街へ出る。
空腹が続かない程度に金があればと思っていたが、今の自分にはそれさえもない。
私の望むまかないが出る割のいいバイトがそこら中にあるわけもなく、何時間も不自然に店をにらんでは歩く。
家を出たのは昼過ぎだったが、路地裏に立つ小さなビルに気づいた頃には街灯が道をぽつぽつと照らし始めていた。
ビルの中身は怪しげな個人事務所と名の知れない画家のアトリエが入っているだけのようだ。
外見は無駄のないデザインなのに、街には無駄と言われているようにポイ捨てが隅に山になって溜まっている。
表の華美さが裏の汚染に繋がっているいい例だ。
私はビルの陰に惹かれてドアに近づいた。
ドアには内側から張り紙がされている。内容はデッサンモデルを募集しているというもので、問い合わせ先はビルに入っている画家のアトリエ。
張り紙の下に書かれた足だけが切り取られた落書きに目が行く。繊細なはずなのに、はっきりとした実線で描かれていて、慣れを感じる。どんな手つきでどんなことを思って描いたのだろうと頭の中で勝手に想像が始まる。
画家には会いたくないが、絵には会いたい。もっと他の絵が見てみたい。何なら、描いてもらいたい。
自分の中で感じたこともない渇きのようなものが湧き上がってくる。
先に電話をしてくれと書いてあるが、ここで電話してもまどろっこしいだろうと勝手に決めつけてさっさと重いドアを押した。
画家のアトリエが入っているという二階へあえて階段使って上がると、すぐに狭く薄暗い廊下に出た。両側にアルミのドアが並んでいる。
どれだろうと思う前に画家のアトリエらしいドアを見つけてしまい戸惑った。しかし、自分でも驚くほど、躊躇なく壁に引っ付いたインターホンを無視して、ドアをノックした。
中から男のくぐもった声がして数秒でドアが開く。
つなぎや手を元の色がわからないほど汚した男がドアをわずかに開けて、胸から先を出す。このアトリエの主である画家に違いない。
「あの、下の張り紙を見てそのまま上がってきてしまったんですが、大丈夫ですか」
「あ?……ああ。モデル希望か。あれもう見つかって今から剝がしに行こうと思ってたんだよね」
「もういりませんか」
「うん。いらない」
男はきっぱりと言い放ってドアを閉めようとするので、足をドアの内側に差し込む。
「ほかに何か?」
「その、私の体を見てもらえませんか。きっと気に入ると思うんです」
「あんたがどれだけ自分に自信があろうが知らないから」
ドアノブを内側に引く力がぐっと強まった。挟まる足にアルミがめり込み、汗でノブにかかった手が滑る。
「しつこい」
「見てもらえるだけでいいんです。描いてもらえなくてもいいですから」
「興味ない。あんたはラインがそそられない」
下から舐めるように見つめた後に言い放つ言葉ではない。
今日の私を家に出る前に姿見で見てきたが、何もおかしいところはなかったように思う。
服を着れば、それなりに女に見えるし、間違っても男には見えないはずである。今日は。
「私、きちんと女に見えてますよね」
「男なら尚更。お帰りはあちらです」
指された先に視線がいった隙に男は足のすねを蹴り、ドアの向こうに引っ込もうとする。しかし、閉まりきる寸前にドアの端を受け止めてまた阻止した。
「お願いします。見て損はないですよ」
「今すでに損してっけど」
「両性具有って知らないですか」
男の動きがぴたりと止まる。
両性具有で聞き耳を持つなんて、画家を名乗るなりにはほどほどに変人らしい。
「どっちの性も持つっていうあれ」
「そういうことらしいですね」
「架空のものだとてっきり……」
「皆さんそう言います」
男は少し迷ってから入ってと私を招き入れた。
中は男の体にこびりついたものと同系色の絵具が至る所に飛んでいて、アトリエというよりも子供部屋という印象を受けた。
元は白かったであろう壁には所狭しと男の絵が並んでいる。抽象画を主に描いているようだが、リアルな人物画もあるにはある。
この中に私の絵が紛れるのかと思うと、珍しく胸がどこなのか分かるほどに数回跳ねた。
「そこ座って」
そう勧められたのは絵を描くときに座っているのであろう薄汚れた小さな丸椅子。本人は画材でほとんど埋められた机の端に腰かける。
「名前は?」
「……」
言わないならじゃあウメコねとどこから来たかも分からない名前を勝手につけられた。今からここではウメコと私は呼ばれるらしく、不思議と頬が引きつった。
「俺、よしのだからよしのせんせとか何とでも呼んで」
せんせとは画家の先生という意味だろうか。先生という柄ではなさそうなのにと一人でに中でちぐはぐした。
「とりあえず、脱いでくんない?」
直球すぎるその言葉に少し怯みはした。しかし、目の中に光がないことに好感が持てて、なぜか安心して脱げた。
身体に張り付いていた最後の一枚を脱ぐと、すぐによしのと名乗る男は太い息を一気に吐いた。
「貧乳の女そのものだな。つまんな」
そう言って一度は握った鉛筆をすぐに放り投げてしまう。
「俺、女なら巨乳がいいのにな。知ってて嘘ついたんでしょ」
乗せられたのはそっちなのに。私は両性具有と言って脱いだだけなのに。私の知りえないところで期待して落胆されても困る。
「女とどこが違うか見せてよ。じゃないと描けないな」
「見た目じゃ違うとこは胸ぐらいしかないから」
「なにそれ。じゃあ、何で言ったの。体見てって」
よしのの鋭利な言葉が私の敏感なところをかすっていく。
その場しのぎだったはずの言葉を的確にとらえられると、どうしても言い逃れできない。
「内蔵みたいなところが女でも男でもないんですよ」
「俺、見えないとこ言われてもわかんない。人の目に見えるようにするのが仕事だからさ」
「見えるようにしてください。私のここを」
私は子宮と精巣が隣り合って浮く下腹部を優しく撫でた。
よしのの目は先程よりも闇を深くしたが、水分を少し含みだした。
「何があるのそこに」
「小さな子宮のかけらと精巣の出来損ないが……」
よしのは手を伸ばして私の体に触れようとしたが、指が届く寸前で後ずさって逃げてみる。
「触れてほしいんじゃないの」
「あなたこそ無駄に自信があるようですね。私はただ描いてほしいだけ」
「俺の絵が好きなの?」
「たぶん」
なにそれと呟くとよしのは初めて私の前で笑いじわを深くした。人を馬鹿にして本性を出すなど、どこの古いコメディ映画だ。
「気が変わった。描いてやる。そっくりそのまま」
「ありがとうございます」
「描いた絵が俺の心を掴んだら、また呼んでやるよ」
まるで他人事のように言い放った言葉が体を虫のごとく、這いずり回って鳥肌が一気に立った。
その言葉通りよしのは数日で絵を描きあげて私をまたアトリエに呼んだ。
以前訪れた時よりも雑然とした空気そのものに押されてしまい、今すぐにでも逃げ出したくなったが、私を題材とした絵の前に立っただけで、絵そのものによしのに対する警戒心をも吸収された。
頭からつま先まで忠実に再現された裸の私は毎日姿見で性を確認する私とそう変わらない。
目はこちらを見据え、肌は触れずとも感触が伝わってくるほど瑞々しい。骨格はアンバランスがバランスの良さを形成し、人間の好意を躊躇なくかわしていく。
見れば見るほど、どちらが本物かわからなくなり、絵の私は現実の私を食って替わろうとした。私のようで私ではない化け物。なにより、絵の中の私の下腹部には子宮と精巣が半分ずつくっついて、こちらを向いており、それももはや私の真の姿なのではと錯覚さえした。
「綺麗……」
無意識に出たその言葉は正面の絵の艶めかしさにまた呑まれていく。
「思ったよりも綺麗になりすぎた。本物はここまでじゃない」
私の容姿を絵の評価に紛れてけなした言い方にむっとした。
「綺麗に描いたのはあなたの落ち度」
「あなたって言われるの気に入らない。よしので」
「上かも下かもわからない名前を呼びたくないです。親しくもないし」
「名前は呼ぶためのものなんだから、呼べよ」
言葉を返せば返すほど、よしのの思うつぼなように思えて、口をつぐんだ。
「口が利けないなら人形だな。人形ならいらない」
「いるいらないで考えないで。人を振り回さないで」
「俺は元々抽象画が好きなの。でも、あんたがどうしてもっていうから珍しく人物画描いたんじゃん。振り回してんのはどっちだよ」
しっかりした人物画に仕上げろとは言っていない。デッサンモデルという名の通り、デッサンの域を超えない程度で良かったのだ。どこまでも自分が可愛くて可哀そう。
人間と触れ合う感覚が蘇ってきて、喉の奥がせり上がってえずく。やはり群れから離れて正解だった。私が集団生活を続けることは死海に軽石を沈めるほどに容易いものではない。
「結局、デッサンモデル続けんの。続けんならこの絵の分の金用意するけど」
「この一枚限りでお願いします」
「嘘だね。顔がもっと描いてほしいって言ってる」
私の顔色が手に取るようにわかると言いたのだろうか。たった二回会った程度で。
どこまでも人の陰りを知らない男だ。男の信じる―表の顔と心に秘めたるものが釣り合っている―人間がどれほど転がっていると思っている。
清い人間は世間の穢れに必ず負ける。いくら清い一面が見えたとしても、他の一面はきっと不透明だ。
人間の創造物の中は清い面を持った人間が基本的に好まれる。リアリティ色の強いものでも最後は清さに戻ってくる。人間が清い生き物だと思いたいという願望からなのかはわからないが、現実は醜さの塊だということを忘れてはならない。
よしのが仮にまだ清いならば、私が染めてやりたい。一寸先も闇になるほどに。
よしのが私の闇に触れた時、私たちは初めて生きていると実感することだろう。
「私は描き甲斐ありますか」
「それ聞いてどうすんの」
「どうもしません」
「……あんたは人間以上に生々しいよね」
それっきりよしのは一言も話さず、私の存在など忘れたかのように未完成の絵とばかり向き合った。
空間にも取り残された私はじっとりと静かによしのの背後に立つ。
色をのせてはぬぐう、のせてはぬぐう……。
絵の見せる顔というものが次々と変わっていくのが面白く、奇妙だった。屈強な男になったかと思えば、壁の向こうからちらりと顔を覗かせる愛らしい少女になったりもする。
よしのはその者たちを指の腹一つで生かしたり、殺したりする。
キャンパス上で踊り狂う人間たちは男に数秒でも生かせてもらって甘美の表情を浮かべては消えていく。
小さな世界の大きな連鎖に自然と目が離せなくなる。これもよしのの策略なのだろうかと考えが働いても、身体は一向に動かない。
絵はモノを見る目線なのか。よしのの見渡す先が絵の重なりを通して瞼の裏に浮かぶ。
形がないにも関わらず、よしのの思うものを感性に直接擦りつけられたように訴えかけられる。
私の身体は思わず、うっと喉の奥深くから苦痛を覚えた本能から警告を示した。
よしのはそれを感じ取ったかしたか、しきりに笑って絵具の塊をけたたましい音を立てて塗りたくり始めた。
よしのの脳が開いた瞬間を目の当たりにすると、身体は余計に硬く閉じてしまう。我ながら、逃げるタイミングを失ったと思った。
絵からは表情が消え、激しさばかりが増す。絵の吐き出した血肉が一気によしのに降りかかる。
人間の欲と歪みを糧にする悪魔の造形物。精神まで毒気にあてられる前に早くこの場を去らなければと心臓がうるさいほど脳に振動を伝わらせる。
足は床に吸い付いたままだが、上半身は少し正常を取り戻してきた。
少しでもドアに近づこうと、動く範囲だけを前のめりにした。重力を味方にしてすっかり呑まれた足をこちらに持ってこようと思うと、予想外に腕だけが前に出た。結果、宙ぶらりんとなった腕は空を切る。
感覚が鈍っていたせいか、よしのが肩を掴んでいると気づくのに数秒かかった。
肩を自分の方にぶんと振るわせても、よしのの手は落ちずに力がこもる。
口からは荒い息が漏れ、顔全体に吹きかけられる。目は心なしか焦点が合わない。これが正気と誰が言うものか。
自衛本能というものは素晴らしいが、私は少しよしのの絵に魂を預けすぎた。私の頭の端はここで捕まってよいのではと言う。ほんの端っこが本能に逆らおうとするなんてと怒りがこみ上げてくると、無意識に身体に力が入り、よしのの手からするりと抜けられた。
後はノブを握るだけ―私はまんまとあの沼からなんとか脱した。ビルが見えなくなってもなお、私は走り続けたからなのか、気が付くと息が上がるどころか、どこで呼吸しているかもわからなくなっていた。
落ち着こうと、立ち止まってもしばらく息苦しさは変わらない。
ひんやりと何か硬い無機物が恋しい。冷蔵された何かなどではなく、常温でも体温よりは低い何か。
家に着いた頃ともなると、流石に肩で息をすることはなかったが、何も敷かれていないフローリングにどこか惹かれてへたりこんだ。
火照った体を予想以上に冷たいフローリングが冷ましてくれる。
電気もつけずに時間を忘れていつまでも寝そべる。
暗闇に目が慣れてきて、安心して寝返りを打った。
部屋のそこらに転がる綿埃が私を仲間にしようと寄ってくる。
ずっと前に私の元を去ったごみたちが今度は私もごみだと主張してくる。
そんなわけないとかわしても、いくらでもくっついてくる。
負けたくなかったら正しく捨てればいいのだが、面倒になって負けそうになるのがいつまで経っても私が人間である理由。
わざと巻き込まれてやろうか。そうしたら私は人間ではなくなり、明日は我が身という目で炎を見つめなくてはならない。これだから、私は人間をやめられない。
私を置いて夜は更けていく。窓の外の濃紺に紛れた橙や赤の粒を凝視する。視界がじんわりと滲んでくるわ、くるわ。近くの綿埃よりも遠いところに目をやる。引っ越した際に最小限に抑えた家具たちがシルエットになって静かに転がる私を見つめてくる。部屋に馴染んだそれたちは綿埃と違って他人面で白い目をしてくる。
きっと今の私は部屋の中でひと際異臭を放っていることだろう。
絵具の鼻をつんと刺す臭いが身体の芯まで入り込んでいて離れない。
風呂に入れば滴る水に溶け込んで風呂がその臭いでいっぱいになることだろう。そしてまた私は風呂の道具たちにも白い目で見られるのだ。
口の中で声にならない会話をすればするほどに昔の懐かしい集団遊びを一人でしている気分になってこっぱずかしくなった。そう言えば、小さい頃はこれがよく声に出て大人たちに笑われた。その度、今と同じ気持ちになった。だが、笑う大人は周りにはもういない。会うこともないのだと思うと、腹から一気に空気が抜けた。
だからなのかはわからないが、ふとソファに隠れていたある一角が見たくなって上半身をゆっくり起こす。その一帯だけ赤く点滅して少し明るい。電話の親機が乗った台のせいだろう。
重たい腰を上げ、電話にいそいそ近づくと、留守電のボタンが光っていて、眩しかった。
ボタンを押すなり、聞きなれた甲高い声が部屋中に響いた。―叔母だ。
叔母は死んだ母の年の離れた妹だ。家事のできない父に代わって時折うちを訪れては私の母、父の妻を代わりにしてくれた。そんなこんなで今はちゃっかり父の彼女になっているのだから、笑える。それこそ、汚い手を使って、と言う。
端的に言えば、折角自分があまり連絡をしないでいてやっているのに、私から一切連絡を取らないのは筋違いなのではないかという内容の文句だった。
叔母の言うことには他人のことを考えたものは一切なく、真面目に聞くのは馬鹿らしい。大したことではないと分かっていても、暇になれば、脳は叔母の口調の真似をしてうるさく言ってくる。
強がっていたとしても、ちゃんと叔母の言葉として受け取っている自分にいつも驚く自分がいる。
私が人間そのものにうんざりしていることがわかっていないことももちろんのことだが、私が群れから離れられたのは叔母がいらない気を回したことも手伝ったことだということにも腹が立つ。
私は自ら独りを望んでなったのではなかっただろうか。
人間に頼らなければ、独りになれないほど寄り掛かっていただろうか。
そこまで私はたかだか孤独に憧れる群れの中の一匹でしかなかったのだろうか。
何とも似つかない乱暴な感情が身体中を駆け巡って支配する。
吐き出したくても、吐き出し方がわからない。どこかに当たり散らすのでも、叫ぶのでも、泣くのでも解消できない。
首から胸に。胸から腹に。腹から下腹部へと流れ込んで渦をまく。ここまで下がってしまえば、私自身、何もできることはない。血液中に吸収されるのを待つばかり。私はまたフローリングの上で死んだ魚になった。
そのうちにずきりと鈍い痛みが、ある一点にじりじりと近寄ってきた。経験したこともない痛みに奇妙だが喜びが込み上げてくる。今まで感覚があるのかと疑いもした下腹部が可愛げのある悲鳴を上げたからだ。
これは女としての喜びか。それとも、人間としての嘆きか。
授業や人づてに見聞きしていた現象に一時は憧れ、諦めたものが今になって少しずつ現実味を帯び始めた。
しかし、肝心の下着が濡れた感覚はまだない。
今まで使われていなかったのだから、痛みを持ちだしたからと言ってすぐに機能するはずではないと譲歩して眠りについたが、あくる日もあくる日も下着が濡れることはなかった。
どうしていつまでも反応を示さないのかが理解できない。
私の子宮は痛みを持つまで本当に存在するかも怪しかった。まるで自分から私の元を離れようとするかのように。熱を持って私のために働くことをどこまで抵抗するのかどこまでも追いたくなる。
たらりと音もなく足に子宮の声の伝う日は私が覚醒する日だ。
ただ待つだけではなく、こちらから迎え入れなければ。
まだ通常の感覚を残す下着にトイレットペーパーを何重にも敷き、上からさらに二枚下着を履く。履きなれない暗い色のスカート姿で生理用品を求めに近くの繁華街に出た。
平日の繁華街は寂しさを必死に隠して無理に明るく振舞っている。
出歩く人間は少なくもないが、一癖も二癖もある人間がうようよしているようにしか見えない。
眉間のしわと口角の下がり具合に気を付けながら無心で人間の間を縫って進むと、当然ながら目的地にすぐに着いた。恥じらいもくそもなく、素知らぬ顔で物を買って足早に店を出た。
ぎょろりと街並みを眺めた。ここには大した思い入れもないのだが、来るといつも一度はしみじみ見てしまう。
何かにまみれた綺麗とはお世辞にも言えないありふれた街に辟易しつつも離れることはできない。
離れられる糸口を探せば探すほど私の方がほつれてしまうかもしれない。
人間と離れることよりも難しいと思わせるこの街と私の結びつき。
別の街に移る時はこの街がすっかり色あせて戻らなくなった時。
色あせるというのは例えば、高飛車な車の排気ガスが街に充満すること。
すでに街に入り込んで違法駐車をした赤の派手な車に転がるアスファルトの破片を蹴ってぶつけようとしたが寸止めした。野放しにしてもっと怒りがたまった時にはけ口にすればいい。
中に人間の気配を感じて傍を離れた途端に車の主が出てきた。
身体がまだ向きを変えきれていなかったせいか、車の主と目が合う。
よしのその人だと脳は咄嗟に言う。認めたくない事実だが、認めざるを得ないのもまた事実。
アトリエで着ていたつなぎなどではなく、似合いもしない小綺麗な格好をしているよしのは相変わらず薄笑いを浮かべてこちらを見つめてくる。
「絵の完成以来か。どこ行くの」
「帰ります」
「用がないなら付き合ってよ」
「知り合いでもないのに」
「おかしいな。雇い主に向かってその口の利き方はないんじゃないかな」
相変わらずつけあがった物言いが気に入らない。
雇われることを断って今は無関係のはずだが。
「今から教会に行くんだ」
「聞いてません」
「聞いてませんじゃない、行くんだよ」
外なのを気にしてか柔らかい口調だが、言っていることは横暴そのものである。
「私を縛れるものなら縛ってみてください。まぁ、無理でしょうけど」
物理的にはなしですよと付け加える。
よしのはふんと鼻を鳴らし、下劣な笑みを浮かべて言い放つ。
「あの絵、燃やしていいんだな」
その言葉によって思考停止を余儀なくされ、その場で固まる。
描かれると分かったあの時からあの絵は私の分身だ。親よりも私に近い。私になりうるもの。唯一私が生きていたということの証でもある。
要は私を殺すことよりも罪が重いことをこの男はしようとしている。
「俺が描いた絵だし、勝手にしていいよな」
一度言ったことは本当にやりかねない男だ。私がそれでかき乱されるなら、尚更。
「いいですけど、後悔するのはあなたのほうでは」
「そう。よくない。だから行くんだ」
言葉一つで揺さぶりをかけるのが気持ち悪いほどにうまい。
そこらを歩く人間よりもよしのの言葉を鵜吞みにしてしまった人間の方が多いのではないか。
「行ったら気が済みますか」
「さぁ。行ったらわかるんじゃない」
その言葉を聞いてでは、と切り出したらもう私は後悔していた。
よしのの罠に引っかかっている自分は無様だ。
頭で分かっていても、かからずにはいられない。蜘蛛の巣に自らかかりに行く蝿のように私は私の意思で餌になりに行く決心はきっとこれからもつかない。
よしのは車を置いて徒歩で行こうと提案する。そんなに歩く距離でもないらしく、私がいなくともそのつもりだったという。その言い訳のような提案に無言で頷いて歩きだす。
進んだこともない方向へつま先を向けるよしのの後についていく。
ついには繁華街を離れて住宅が立ち並ぶようになってきた。
「ここだ、ここ」
よしのは常連の店のように私に見せつけたそれはいかにも教会らしい外観をしていた。
一言発したっきり何も言わずに扉の中へ吸い込まれていったので、私はまた真似をした。
中は長椅子が立ち並び、ステンドグラスの光が方々から差し込む幻想的な世界が広がり、中央には空間を包み込むように十字架が掲げられている。
自然と背筋が伸び、呼吸が静かになる。
「よく来るんだ」
聞いてもいないのに答える。
響く声を気にせずに話す態度はこういう場に慣れているなと思う。
誰もいない空間に二人きりというのは初めてではないのに、緊張さえしてくる。
「聖書って読んだことあんの?」
よしのが扉近くの椅子に端から余裕をもって座った。その余裕の部分に私も座る。
「ホテルにあるのはめくるぐらいはしました」
「まぁ。ほとんどの人がそう言うね。普通は面白くないらしいし」
さも自分は面白げに読めると言いたげだ。
自慢を躊躇もなくしてくるところがすごく嫌いで、少し好き。
沈黙が流れる。気まずくも口を開くことはどちらもしない。
ステンドグラスからの光が少しずつ陰っていく。
「……なんで私をここに連れてきたんですか」
「ここがウメコの還るべき場所だから」
それは私自身か。別の誰かか。ウメコか。
疑問がいくら浮かんでも発言はしない。今日の私は少し男に寄っているということに響いた声で気づいたからだ。
外からの光がなくなってかなり薄暗くなった空間は厳かな雰囲気が増した。
空気がほのかに薄くなっていくような気がした。
「天使が両性具有って聞いて昔、めっちゃ両性具有に憧れた。元々は姿形を持たないところから来てるらしいけど、それだけで両性具有っていう設定作る人間ってすごいと思うんだよね」
天使の出てくる神話について刻々と話し出すが、聞きたくもないので適当に相槌を打って流す。
よしののつまらない話よりも壁や床の模様を数えるのに忙しい。
話を聞こうとしなくとも、よしのが両性具有を勘違いしていることだけは分かる。今あなたの横に座っている私はそそんなフィクションで塗り固められたお綺麗な天使様などではない。ただの人間の営みに疲れた何にもなりきれない中途半端な失敗作でしかないのである。
「天使って嘘っぽい」
気を取られすぎて心の声がほろりと零れた。
「何?俺の話が信じられない?」
「いや。人間が信じられない」
「信じなきゃ天使じゃないだろ」
反応する間もなくよしのの手が肩に乗り、視界が一転した。
今、よしのの下心が容易く掴めた気がする。
慣れた手つきで事を始めようしたので、力を振り絞って抵抗すると、耳元で両性具有の癖にと囁かれた。今から身体を重ねる意思のある相手に使わないであろうドスの利いた声で、だ。
これは脅しだ。蔑みだ。身体から危険信号がありありと出る。
よしのはその体で両性具有を味わおうとしている。無論、私のことは丸っきり無視だ。
「両性具有のウメコ」をその身で受け止めて物にしようとしている。
私はよしのの中では題材の一つでしかない。女でも男でも、人間でもないただただ醜形の、珍しい題材としか見れないのだ。
私は同情してやろう。生きている人間を生きていないと扱う人間は死んでいるのに等しい。
私は人間ならざるモノを見んとするこの男を一人の人間「両性具有のウメコ」として受け止めてやろう。奇形に恋し、性に負けた男は誰も知りえないところで天罰が下ればいいのだ。
指を絡め止られてはっと口が開いたのをいいことに唇に唇を重ねてきた。少しの隙間から舌で上前歯の裏をなぞるだけで口を放した。唾液を流し込むでも、舌を有象無象と身勝手に動かすでもなく、ただなぞっただけなのだから余計質が悪い。よしのと私は銀の糸でつながれ、やがて途切れた。男は性癖をさらすとともに、私との絆だと銀の糸を勘違いしたことだろう。ただのあんたの興奮の証だ、それは。脳内は失笑にもならないもので一杯になった。
その口づけを皮切りに身体をまさぐり、スカートの中へと手を伸ばすと声を存分に上げて笑った。
「なにこれ。自分に生理が来ると思ってんの?来るわけねぇだろ。こんなのはなぁ、人間の女に任せときゃいいんだよ!!!」
尚もよしのは笑ったまま、私は黙って―中ではよしのよりも笑って―事を進めた。
処女らしく初々しい声など上げてなどやらない。嫌がらせのように押し殺して、まるでいつもこんなことをしているような反応ばかりして見せた。
よしのの望みは処女である「両性具有のウメコ」をなぶって楽しむことだ。ならば、私はウメコをなぶるよしのを嘲笑ってやろうではないか。
よしのが私の中へと自身を沈み込ませた時、よしのは初めて表情を曇らせた。
すっかり忘れていたことだが、私は膣までもが未発達だ。
形だけはそれらしく、途中の方がきゅっとしぼんで、行為をすれば膣が傷ついて危ないと医者から止められていたのだ。
そんなことは露知らず、行為を続行するよしのの姿がまた面白い。
きっと気持ちよくはないのだろう。よしのの顔は青ざめ、私の腹は上に跨るよしのの汗でべたべたになり、生乾きになりかけている。
私はと言えば、よしの自身が中でうごめいていることが吐き気を催したと同時に膣にもちりっとした痛みを覚えた。ものの数分男を受け止めたぐらいでもう私の膣殿は根を上げ始めたのだ。我ながら早い。もう少し持ってくれると期待していたのだが。
膣から血が漏れだしているのが分かると、よしのは分かりやすく顔を歪め、萎えたと言って自身を中から引き抜いた。
成功かわからない事後は案外優しいもので、いつまでも服を着ようとしない私に早く着るように促した。
結果的に言えば、私は勝利した。何にとは言わない。たが、この地球上に存在する全てに勝利した気分であることは間違いない。
身体を許すことになり、膣まで傷つくことになったのは予想外だったが、私の身体を体感してよしのは不快に思ったことだろう。これは勝利と言わずして何と言う。
よしのは私が服を着たことを確認した否や、すくっと立ち上がり帰るぞと言った。
その発言は三歩後ろを歩く奥ゆかしい妻に向かってするようなもので、予想外にツボに入った。
よしのと二人で来た道をよしのの車のあるところまで戻った。不思議と逃げるという選択肢は浮かばないものである。当然という顔をして大人しく助手席に鎮座した。ただ静かによしのは信号で止まるたびに優しく私の腿を撫でた。
それを数回繰り返すと、聞いたこともないホテルにするすると車ごと入っていく。
よしの曰く、特定の住まいを持たず、ホテルを二、三か月ほど継続して借り、退去を命じられると、また別のホテルへと移るという生活を画家になってからずっと続けているらしい。
今では電車で約一時間圏内の名の知れたホテルは大方泊まってすでに出禁を食らっているというのだから、しょうのない男だ。
部屋に着くなり風呂に入れと命じられ、大人しく入ると服を着ないままにベッドに押し倒された。
人に風呂に入らせておいて、自分は入らず事に及ぶというのはどうなんだと疑問を抱きつつも、形だけそれを受け入れると、よしのはぐったりと力を抜いて覆いかぶさってきた。重いと言うと、次には寝息が漏れだす始末。
要はもう限界だったのだ。
アトリエでずっと引きこもって絵を描いているのだ。少し外に出れば気が張って疲れることだろう。
私の身体の上で無邪気な子供のように寝息を立てる男をやっとのことで剥がして布団をかけてやる。
よしのの住む部屋で寝床になりそうなのはダブルベッドと一人用のソファしかなく、私も安眠のためにはよしのの横で眠る他なかった。
もう、服を着る余力もないのだが、横で眠る男の寝息が気になり瞼が完全には落ちてくれない。
しばしよしのと同じ方に体の正面を向けた。
これが私を女にした男の背中。アトリエで見た背中とは点で違う。画家の皮を脱ぐとぐっと私の物になった気がした。下腹部が水っぽい音を立ててよしのを愛しそうに呼ぶと寝言でよしのが返事をする。
奇妙な呼応が行われたことに心の浅いところで声を出して笑った。
寝ぼけ眼で笑っていると、いつの間にか眠りに落ちていた。
朝日につぶった目をやられて開くと、半裸のよしのが傍らに佇んでいた。裸で寝転がる私にシャツを一枚ぱさりとかけて出かけると一言だけ伝えた。これは私も行くという意味か。
頭がしゃんと起きないままに身支度を整えると、昨日と同じ車に押し込まれた。
何も言わずにウメコの私と一束の小切手を連れて向かった先は近場の画廊。
慣れない場所でもぞもぞする私と違ってよしのは知った顔で奥へと進んでいき、ふいにどこかへ消えていった。
画廊というだけあって、細い通路に等間隔で絵がひしめき合っている。
ずぶの素人の目からすれば、並んでいる絵の違いは全くないように思う。
何を伝えようとしているのかも汲み取りたくもない。汲み取れば、帰る頃にはお荷物だ。
それぞれ作風が違うと言えども、よしのの絵は浮いていてちゃんちゃらおかしい。しかし、芸術のわかる人間には評価が高いのか、他の画家よりも作品が数点多くさらにはメインとさほど考えずとも分かる飾られ方をしている。
皆、他の絵には見向きもしないにも関わらず、よしのの絵たちには人間がたかる。
中でもたかっているのが目立つ行き止まりの絵。蝿よりも聞き分けよく避けた人間の先には裸の私がいた。
鏡に映った私と寸分違わない姿をした私は今尚変わらず澄ました顔をしており、絵の前に立ちすくむ私も無意識につられた。面と向かうのは初めてではなくても、絵の前に立つ私は本当に絵の前に立っているのかも怪しくなった。
絵の中の私とはまだ一度も触れ合ってはいない。以前はよしのがかなり警戒して私を見張っていたが、今は消えていて影もない。
絵の中で異次元が広がっているとすれば、必然的に触れ合えるはずだ。
この中の私を助けてあげようという気分は独りよがりだと分かっている。だが、思わず目の光をなくしてもう一人の私に手を伸ばしてしまった。
「美術品には触っちゃダメって学校で教えられなかった?」
今、言われたのは私だろうか。周りを見ても私のように手を伸ばす者はいない。代わりに女でも息をのむほどの美人がこちらを鋭い眼光を突き刺している。男女と隔ててはならない気を起こさせるほどの美しさだ。
「あんた、ウメコでしょ」
美人は真正面に立つ。変わらない眼光によって少し距離を取らざるを得ない。
「よしのから聞いてるわ。この絵のモデルなんでしょ。よく見りゃ似てるし。だからって触るのは許さないけどね」
こんな美人と知り合いとは微塵も思わない身なりをよしのはしていると改めて感じた。
「すみません。つい、絵の私と話したくなっちゃって……」
「あんた、絵の見方ってもんを知らないのね」
見なさいと言われ、裸の私と再び向き合う。
「人物画ってのはね、大方目で語りかけてくるもんなのよ。小物を見ろとか表情を見ろとか言う凡人がいるけどね、絵の本質は目よ。目を見れば、全部分かるもんなの」
美人の言う通りに目をじっと見る。ここに立つ私よりも深い闇を抱えたようなあなた。あなたは何を伝えたいの。問いかけても答えは当然返ってこない。音がぐわんぐわんと闇の中で響き渡る。声になりきれない意味ありげな音。手を探っても何も掴めない。進み方もわからない。もがくだけもがいてみると、突然、闇に隠されていた扉が現れて不協和音を鳴らしながら開いた。扉の先は光に包まれていて何があるのか全く分からない。好奇心が揺さぶられる。もっと深いところまで紐解きたい―。
「ちょっと、持ってかれすぎよ。そこまでじゃなくていいのよ」
美人が私の頬をつねってくれたお陰で現実に戻ってきた。
「危なっかしいわねぇ。うっかり何かにはまると中々抜け出せないタイプでしょ。怖いわぁ」
「かな」
入り口近くに立つよしのの声が静かな画廊の中に一筋通った。
「声おっきいわよ。何?」
美人が駆け寄り、たちまち声のトーンを下げて話し込みだす。
この空間で一人にされるのは非常につらい。自分のフィールドでは放されることを望むのに開拓地では心細い。自分でも不思議だ。
先程まで客になったつもりではなかったのだが、一人であれば客に紛れなければ。興味深そうに絵を物色する老人にならってみるが、二人の話す内容が気になって絵が壁と同化してただの背景になる。
二人の立ち姿はお似合いだ。私には到底無理だが、外野からは今にもやっかみが飛びそうだ。
二人と絵を行ったり来たり数回すると、二人は話を止めて近づいてきた。
「ウメコ。あんたの絵欲しいってやつが出た」
「こいつね、開口早々売れたか、ですって。何様って感じ」
よしのにつられて注意した本人である美人も声が一回り大きくなった。他の客から怪訝そうな目が突き刺さる。
「買ったのはどんな人ですか」
「それは流石に言えないわねぇ」
守秘義務というやつらしい。
「言えば、あんたはモデルじゃなくなる」
「そうね。本来、モデルは絵が取り引きの場にいるべきじゃないわね。何も知るべきじゃないわ」
二人で通じ合っているものがあってよろしい。
何も知るべきではないのなら、なぜよしのはここへ私を連れてきたのか。当の本人の態度は相変わらず飄々としている。
「あんたが知ればどうなると思う?」
二人して真剣な目をしてくるのでむず痒い。
息を飲むとまでとはいかないが、それでも耳に神経を集中させるほどには気になった。
「売れる絵を意識しすぎて直に壊れてしまうの。モデルでもなく、人間でもなくなってしまう。そうね、言うなれば『石膏』かしら。あれは描くためだけの物じゃない?あれよりも都合のいい物になってしまう可能性だってあるわ」
美人は俯いて悲しそうにそう言った。
「石膏はもういらない。欲しいのは生身の人間だ」
「ちょっ、そんな言い方……」
「だって本当の事だろ」
よしのの言葉は私を充分に浮つかせたが、この男はアトリエでしっかりと私に向かって人間以上に生々しいと言い放った張本人である。
なのに、生身の人間と言われたのはかなり久しいということも手伝って、うっかり感動を誘われてしまった。
人間扱いされていないことを自覚したのは叔母に両性具有と打ち明けた時だったと記憶している。
当時私の中ではまだ叔母の存在は少々お節介ではあるが、世話をしてくれるいいお姉ちゃんとして確立していた。
叔母はいつまで経っても生理の来る気配のない私を心配して家に来る回数を増やした。何か悩みはないか。しっかり食べているか。過度な運動はしていないか。何度も何度も私を問いただした。
来る度に肩を揺さぶって聞くので痺れを切らして両性具有のことを打ち明けると叔母は私を確かに蔑み始めた。
その瞬間目が覚めたのだ。この人は保護者ごっこをして自分に酔いしれているだけだと。
そこからだ。人間の端々から出る本音を拾い上げながら、自分は普通に溶け込んだ人間だと主張する生活を送るようになったのは。その反動が今というのだから世の中うまくできている。
よしのは私を人間扱いしたいのか、畏怖の象徴として扱いたいのかどちらなのかが全く読めない。
よしのは私が本性を露にしたら、露にする前と同じように接することができるだろうか。
できたら同類。できなかったらよしのの元を手早く離れるだけのことだ。
「これだけは答えてもらえますか。買ったのは男性ですか。女性ですか」
「教えられない」
私はその言葉を呑んだっきり二人の傍を離れてふらふらと画廊を彷徨った。
私は絵を鑑賞するでもなく、ただ二人の言い残したことに捕らわれたままだ。
絵は誰の手の中に入るのか。どんな用途に使うのか。私のことをどういう目で見るのか。
隠されたら隠された分だけ好奇心を掻き立てられる。
ここで飾られている今は絵を通して視線を感じたことはないが、これからは絵を買った人間の視線をひしひしと全身で受け止めることになるのだ。
絵の持ち主がもし男ならば、女に対する湧いた考えを貪り食ってやる。
女ならば、女の悦びというものを地獄に変えてやる。
絵は私の化身だ。私の言うことを聞かないわけがない。
これは報いだ。男だとか、女だとかそんな物で幸せを手にしている人間たちが憎い。
両性具有の私を芸術だと賛美する人間たち全てに軽蔑する。
また一人。男が絵の私の前で立ち止まって感嘆の息を漏らす。男は振り向き様に私に気づいて近寄ってきた。
「あの絵のモデルの子かい?絵と同じようないい表情をしているね。どうだい。話を聞かせてはくれないか」
「……れろ……」
「え?」
「呪われろ」
私は男の太い脂ぎった首につかみかかった。上からの重みに耐えきれず、男がカーペットに倒れこみ馬乗りになってもなお、首を強く強く締め上げた。
男は苦しそうに私の手を剥がそうと搔きむしり、もがく。
モーターが回りっぱなしの人形を押さえつけるようで楽しい。
男の首に指がめり込んで今、人間を殺そうとしているのかと実感する。
男が足をばたつかせようが、どんな声を出そうが手の力は緩むことはない。
喉の管を閉めると骨の質感が伝わってくる。頭と胴を繋いだこの骨を折れば私は人殺しだ。
男の顔から生気がなくなってくると、いよいよと言うように下着に張り付いた乾ききった生理用ナプキンが濡れた。血か愛液か。どちらにせよ私がド変態だということには変わりない。
死と生の境目がもう私にはわからない。
人間が死のうが生きようがどうでもいい。
周りの声は聞こえない。男の最期の振り絞った声だけが私を高ぶらせる。
「ウメコ!ウメコ!」
男の意識がなくなり、力が抜けてきてやっと私を呼ぶ声が入ってきた。
「あんた何してんの?!殺す気?!」
美人だった。よしのの姿はまたもやない。
「兎に角、逃げましょう」
「どこへ?」
「どこでも、早く!」
美人は私の手を取った。私も美人に動きを委ねる。
軽く走るが追っ手が来る気配はない。大して離れていないにもかかわらず、走ることをすぐにやめた。それでも、息は上がる。
「客が揃いも揃ってインドア派で行動力ないから追いかけても来ないのね。安心したわ」
割と高めのヒールを履いているからか、美人の足はすっかり笑っている。
「私、どんなでした?」
「どんなって何が?」
「人を殺してる時の顔はいつもの私と同じでした?」
「……あんた、何言ってんの?頭おかしいんじゃないの」
緩んだ頬を美人は平手打ちした。
「あんた、自分のしたことわかってんの?人殺しよ。あれは。人が一番やっちゃいけないことよ」
「私、人間じゃないらしいのでわかりません」
「誰が言ったのそんなこと」
誰が言ったのでもない。だけど、人間の本心がそう物語っている。
人間界から離脱しているのは私自身でも、その原因を作ったのは人間だ。
人間が正しいとは言わせない。両性具有が間違っているとは言わせない。
私が黙りこくっているのに比例して、美人の顔はみるみるうちに赤く腫れあがっていく。
「誰も言ってないなら、それはあんたが思い込んでるってことよ。思い込みで人を巻き込むのが一番やっちゃいけない」
でもと言い返す言葉が出ると、もういいわと話を強制終了させられた。
美人が新しい道を進んだので、私も続く。
すぐにこの街から塩を撒かれている気分になった。初めて見る建物が多いだけじゃない。どこか窮屈だ。
美人は笑った膝を時折さすりながら変わらないスピードで進んでいく。私を引き離したいみたいだ。負けじと私も地面を掴む。
酒気を帯びたサラリーマン勢がわいわいと騒ぎながらすぐ横を通り過ぎて行った。
画廊に着いたのは昼過ぎだったが、もう二次会を始めてもおかしくない時間帯にまでになっていた。
空腹に気が付くと、腹の虫が間抜けに響いた。
「……お腹、空いたわね。どこか入りましょうか」
「はい」
入ると言っても、周りには居酒屋しかない。少しでも腹の膨らむものが出そうな店に入った。
「お酒、飲む?」
「いえ。下戸なので」
「私もよ。さっさと食べて帰りましょう」
美人は慣れた手つきで注文した。
大して好きでもないたメニューも含まれていたが、言いだせなかった。
「さっきはごめんなさいね。殴ってしまって。あなたが、その……あんなことしようとしたからって暴力はいけないわよね。痛くない?」
殺人を『あんなこと』と置き換えたのはここに人間がうじゃうじゃいるからだろうか。気にすることではないのに。どこまでお人良しなのだ。
「いえ。大丈夫です。私もすみませんでした」
心にも思っていないことを謝るのは冷たいことだろうか。
「普通に話しましょう。普通に」
「はい。普通に」
美人の態度が一番普通じゃない。私は普通だ。
美人を見ていると、嫌に落ち着きを払っている自分が異常なのではないかと思えてきた。
「よしのとはどうやって知り合ったの?」
私がウメコだということは聞いてても知り合った経緯は知らないのか。よしのも変わった教え方をするものだ。
私はよしののアトリエを偶然見つけて押しかけたと正直に話した。
意外にも返事は無難な、そうなのという言葉だった。
「えっと。……かな、さんは、よしのとどんな知り合い方を?」
よしのが画廊で美人をそう呼んでいたのを思い出して恐る恐る質問してみる。
「さんなんてやめて。ちゃん付けにして。あと敬語もできるならやめてほしいわ。他人行儀で堅いの苦手なの」
そう言って出されたお冷を酒のように一気に飲み干した。
高圧的な物言いが『かなちゃん』の普通らしかった。
頼んだ皿が一気にやってくると、かなちゃんは口に箸を運びながら器用に話し出した。
「私とよしのが初めて会ったのは高校よ。同じクラスだったの。その頃私はゲイって自覚したばっかで、男に触られただけで意識するのようなうぶな子だったのよ、今じゃ考えられないけど。私があまりにも女々しいから周りは薄々勘づき始めてね。距離を置かれちゃったのよ。いじめられるならまだよかった。変に気遣われる方が酷なのよね。でも、よしのだけは変わらず接してくれてね。良い意味でも悪い意味でもマイペースだからってのもあるんだけど、周りの言うことなんて真に受けるなって言ってくれてね。今思えば何てことない一言だけど、昔の私にしたらすごく沁みてね。この子は一生大切にしなきゃって思ったの。あ、恋人とかじゃないわよ。友達として。だから、今画廊で働いてるの。夜はオカマバーだけどね」
あっさりされたカミングアウトに呆気にとられながら、明るい口調で語られたありがちな昔話になるべく感慨深そうに見えるように相槌した。
「かな、ちゃんはオカマだったんだね。すごい美人だから全然気づかなかった」
「わかりやすいお世辞ありがと。あと、オカマは自分でオカマって言うのはいいけど、他からオカマって言われるの嫌うから気を付けた方がいいわよ」
目の笑っていない忠告に感謝しつつも身じろぐ。
それからもかなちゃんはたがが外れたようにいろんなことを話してくれた。
自分の顔は天然だが、流石に胸はシリコンを入れていること。まだ性器は手術をしておらず、戸籍も男のままだということ。だから、今は私と全く逆の状態だが、親近感がとても湧くとも言ってくれた。
また人を信じれるきっかけになるかもと先に光が見えた気がした。
かなちゃんはお冷を酒に持ち替えてこちらに話す間も与えずに話し続けた。大方よしのの愚痴だった。
かなちゃんがよしのの知られざる顔だと恐らく思い込んでいるものが満杯になった風呂のように溢れ出る。それでも、よしの以外に対する言葉よりも割合棘が柔らかいように感じた。
画家以外は到底勤められないほどに意地汚いということを延々と話すかなちゃんに正直初対面のときから薄々知っていたとは言い出せず、うんざりなこの付き合いはまだ終わりそうもない。
かなちゃんの言葉を一文字一文字吞みこんでいるとどうしてか胴の中心辺りがよじれて口に胃酸の風味が広がった。酒の味がわからなくなった。それでも頑張って酸味を酒で呑み下す。
かなちゃんがしゃっくりをし出したので、話を止めようとこの隙に口を挟む。
「じゃあなんで何年も一緒にいるの。聞いてる限りじゃ、大分迷惑してるみたいだけど」
かなちゃんは意外にもその言葉をすんなりと受け入れた。
「そうよね。私もそう思うわ。だけど、恩返しっていうのかしら。まだ返しきれてない気がしてどうしても離れられないのよね」
この一言でかなり酔っていることが伺えたが、よしのという男をつま先から毛先まで知っていることをひけらかされたことにより、絡まった糸から出来た種がしぶとく根を張り、今にも芽吹きかけている。
「もう離れるのは無理だね。中毒だよ。それって」
「どっちかが相手見つけでもしたらきっと疎遠になるわよ」
きっと自分でもはっきりとはわかっていない。愚痴はこれからも一緒にいるために、堪忍袋を空にするためしているのではないか。
今度はグラスを傾けながら座った目で人間観察し始めた。
「あら。いい男。誘ったら来るかしら」
「無理でしょ。かなちゃん男だし」
「男ってばれないうちにいい夢みるんじゃない。常識でしょう」
「どうやって」
そう聞くと、かなちゃんは突然立ち上がって目を付けた男にキスして見せた。男は最初は驚いた様子だったが、まんざらでもない顔でかなちゃんを飲みに誘い、飲みかけの酒を片づけたところで二人っきりで居酒屋を出て行ってしまった。
残された者たちはしばらく口をあんぐり開けていたが、これも縁と言いたげに男の連れが引っ付いてきたので早々と抜け出した。
酒が入っていたから愚痴も多くなるし、男も引っかけたくなるのかと考えたが、数回会って遊ぶと、素面も大して変わりがないことを学んだ。
かなちゃんと会うたびによしのの知識は増えていく。望んで増えた訳ではないのに人間関係を作っているという心地がして悪い気はしなかった。
かなちゃんは私が人間不信だということに知ってか知らずか、人間と嫌でも触れ合う場所ばかり私を連れて行く。かなちゃんの働いているオカマバーによしのと一緒に訪れると、いつも以上にかなちゃんのテンションは上がっていた。
ちゃらちゃらした音楽が流れる中、よしのはすっかりオカマさん方に囲まれた。私はかなちゃんに招かれて静かに座る。
「この子ね、梅子って言うのよ。ね。同じ名前でしょ」
そう紹介されたのはまだまだメイクが顔から浮いている愛想のないオカマ。
どうもと形だけでも挨拶すると眉間のしわをより深くしてそっぽを向かれた。かなちゃんが間にいなければ、私も出来れば仲良くしたくない。
かなちゃんに目線で伝えると逆にウインクが返ってきた。伝わっているようで伝わっていない。ちゃんと伝える前にかなちゃんはよしののいる方へ紛れに行ってしまった。
気まずくとも仲良くする意思がない相手とは話したくはない。梅子もそういう考えだと思っていると、案外早く口を割った。
「よしのの絵のモデルしてるんだってね」
「初対面で小言?」
「あんた、何か勘違いしてない?よしのはただ絵が描きたいだけよ。あんたがいてもいなくても描いてるわ」
「あんたこそ、勘違いしてるね。私がよしのと一緒にいるのはよしのが引き止めるから」
嘘だ。引き止めたのは一度でそれ以降は私の意思でアトリエに通った。
梅子は男そのものの顔をして応戦する。
「かなの働く画廊で殺人未遂事件起こしたらしいわね。そのせいでかなが画廊で働けなくなったの知らないの。知ってて一緒にいるなら尚更最低ね」
梅子はいい気味と言うように酒を煽った。
「……かなちゃんが言ったの?」
「そうよ。嫌んなるって言ってたわ」
あの後、居酒屋で話したことは何だったのか。いい気を持たれるはずもないが、水に流してくれていると思っていた。いや、私はかなちゃんに何も危害は加えていない。私はただ絵をオカズにする人間を排除しようとしただけ。そうだ、人間が悪いんだ。私は悪くない。悪くない……。
「よしのと寝たの?」
「何で言わなきゃなんないの?」
「そう。寝たのね」
煙草に火をつけた梅子はより一層偉そうになった。
「身体を重ねただけであんたの物じゃないのよ」
「そんなこと誰も言ってないでしょ」
「だって顔に書いてあるもの」
「全部決めつけて何が楽しいの」
「でも、本当のことでしょう」
それ以上何も言えなくなった。言い返したら、私の脆さが露呈する。
「あと、良いこと教えてあげる。よしのとかなはセフレよ。身体の関係なのはあんただけじゃないの」
梅子のその言葉は重りとなって私の動きを妨げる。
言葉が声となって文字となって私の周りを取り囲んだ。
嫉妬か羨望か憤怒か愛情か悲哀か。感情が乱れて何が何なのかもわからなくなった怪物が精神を食いつくしていく。ぐちゃぐちゃぐちゃ。汚い音を立ててなくなっていく精神をろうそくの火のように見つめる。
私は今、壊された。最初から壊れて生まれてきた私はいつかは完全に壊れるべきだったのだ。壊れるのが遅すぎた。
「あとね。良いこと教えてあげる。ここによしのとかな、いないでしょ。奥に行ったのよ。何してると思う?教えなーい」
その言葉はある種の扉だった。絵の前で開きかけた扉がまた私を呼んでいる。
私は素直に梅子の指した方へと進んだ。
関係者以外立ち入り禁止と書かれた札がかかった部屋の中からかすかに声が聞こえる。
好奇心で中を覗いた。現実はどこまで行ってもむごい。―かなちゃんとよしのは梅子が想定するように行為中だったのだ。
声は最小限に抑えられていてそれが返って事実を突き付ける。
かなちゃんはよしのをねじ伏せて聞いたこともない甘い息を漏らす。よしのも頬を紅潮させてかなちゃんを受け入れる。
よしのは私としていた時とはまた違う興奮しきった顔をしている。かなちゃんはそれにまた興奮する。二人は事をすっかり楽しんでしまっているように見えた。
行為というよりも交尾だ。おびただしい人間味をまとっていて獣臭い。
力の入りきらないよしのの足が不毛に動くたびに背中が引きつった。二人の寝そべるソファの軋む音が速さを増す。自分と相手の心臓を交換でもするかのようにねっとりと濃い口付けを交わす。
目先の相手を誘う腰つきは性的で妖艶な煙をくゆらしている。私には欠けた物ばかりで繰り広げられる情景は恍惚至極だ。
結局よしのも人間に負ける人間だった。いくら人外に焦がれても人間とも身体を擦り合わせる。
毒にやられたような痺れがやってくる。目の前が画面を通したように遠のいていく。
膣が疼いた。聞こえてくる声に熱がこもると、膣も熱くなって疼きが激しくなった。
私の中の女がとうとう産声を上げた。ナプキンをしてもよしのに抱かれても目覚めなかった女が人間の交尾を観察することで人間らしく呼吸をし出した。濡れたことはあっても欲情したのはこれが初めてだった。
私も所詮人間の女であった。
下着と肌の間へと指を滑り込ませる。火照った体を鎮めるにはこうするほかなかった。
座り込むとナプキンに愛液が染みて尻が冷える。それでも私の熱は取れるどころかどんどん上がっていく一方。
部屋からの声が大きくなってくると、私も紛れて声をわざとらしく出してみる。声が交わって私も二人の間に入ったような気分になってより欲情が加速する。
二人が事を済ますと、私は逃げ帰った。
単純に怖かった。のぞき見がばれるのも二人の情事をオカズにしたことがばれるのも怖くはなかった。自分が人間にぐっと近づいたことが怖かったのだ。
今まで人間ではないことに一種の劣等感を感じていたはずだが、いざ同じ現象が起こると戸惑うものなのだ。私は人間になりたかったのか。交尾がしたかったのか。元の醜い身体に問いかけても答えは何も返ってこない。
濡れ切ったナプキンをさする。これが愛液。ナプキンが愛おしかった。ずっと眺めていられた。
これでやっと部屋の家具たちが自分を主人だと認めてくれた気がした。
自分の匂いを発することで外の匂いを持って帰ってくることはもうない。
子宮が機能を果たさなくても、精巣が体内に存在しても、膣が相手を受け入れてくれなくても、私は人間の女としてこれから生きて行かなければならない。
家具たちがそれを証明するように暗闇にぼうっと浮かんで自分たちのほうに私を招く。
私はあんたたちみたいに使われて一生を終える馬鹿じゃない。私はあんたたちも人間も使ってやるの。分かった?
独特の匂いを放つナプキンを抱いて家具に叫ぶ私はさぞかし滑稽だろう。
奇形に生まれた自称女が男同士の行為を見て欲情したなんて誰が想像できようか。
何て可哀そうな私。寂しくて泣いてるのは本当に私か?
思春期の餓鬼みたいに欲に支配されてうんうん悩んでるなんて阿保らしくて見てられない。
私は穢れている方が似合っている。
人間らしいところなんて一つもない。腹の中で造られたときから私は化け物。
見れば見るほど汚くて醜い。
死んだほうがまし?生きているのが辛い?ならば、いっそのこと誰かを壊して私も壊れようか。
私は電話の受話器を取って見えない相手にアトリエへ来いとだけ言い残して切った。
私がアトリエに着くと、鍵こそは開いていたものの電気がついておらず、よしのもいなかった。
「見てて気持ちよかった?」
かなちゃんはアトリエに入ってくるなり、私の話したい本題を自ら放り込んでくれた。
「知ってたの」
「そりゃ気づくわよ。別の声がすぐ外から聞こえるんだもの。よしのも多分気づいてるわよ」
「してたらダメなの」
私の質問にため息が返ってくる。
「ダメって言うか、気持ち悪いのよ。自分がヤッてるのをオカズにされるの」
「かなちゃんだってあるんじゃない。そういうこと」
「ないわよ。ウメコみたいに悪趣味じゃないもの。私」
どうしてそこまで言われなきゃならないの?私たち仲が良かったはずでしょ。―何て言うはずもない。形だけ仲良くしてればつけ上がって、自分から私を切ろうとするなんて。もう私はかなちゃんとは違う世界の住人になった。
あんたから関係を切るんじゃない。私から切るんだ。
「セフレなんだってね。よしのと」
「そうよ。高校の時から。よしのの女が切れると私がいつも体張って慰めてたの。面倒なのよね。あの男」
かなちゃんはいつもそう。昔話をする振りをしてよしのの悪口を言う。
ずっと一緒にいた相手を、身体を定期的に重ねる相手をどうしてそこまで悪く言えるのか私には理解できない。
「私、かなちゃんのそういうとこ大っ嫌い」
「あら奇遇ね。私もあの時から嫌いだったの。よかったわ。じゃあ。金輪際、私たちの前に現れないでね」
私たちって誰を含んでるの?もしかして、よしの?はっ。聞いて呆れる。
「私、よしののこと全部知ってるっていうその口ぶりが嫌いなの。お願いだから消えて」
私は近くにあったナイフを握ってかなちゃんに肉迫した。
後数センチというところでかわされたが、ただでさえ狭いアトリエで逃げ切れるはずもないと高を括る。
「どうして!?私、良くしてあげたじゃない!?!?」
「そういう上から目線も嫌い」
「あんたなんか両性具有の癖に!あんたなんか!あんたなんかよしのに見向きもされてないじゃない!!」
かなちゃんは私の沸点に触れてしまった。
私はあくまで冷静にかなちゃんを行き止まりへと追い込んだ。手首を掴んで爪を立てる。かなちゃんは諦めきれないという様子で命乞いをする。聞くのに飽きたところで手首を引いて一突きした。鯉のごとく無残に死んでいく。
鮮やかな赤が辺り一面に広がっていく。なんてテンプレじみた最期だったろう。
看取るのが私でごめんね。簡単に殺させてくれてありがとう。
開いたままの目を閉じていると、どこかへ出かけていたよしのが帰ってきた。
「この為に呼んだんだな」
「はい。死体はすぐに片づけますから」
「いや。作品に使うから、後でいい」
よしのは力が抜けるほどあっけらかんとかなちゃんの死を受け止めた。
そして、私が手放したナイフで手足をもぎとった。
鉄の臭いがアトリエ中に充満して吐しゃ物の臭いが喉の奥で留まって鼻に抜ける。よしのの笑い声が木霊する。
肉が切り開かれて中には赤黒い塊が点々とあるべき場所に配置されている。温かそうで、私の心を癒してくれそうで、気が付いたら塊に頬ずりしていた。
取り出したばかりは人肌よりも少し熱いぐらいだったが、時間が経つにつれて私が温度を吸い取ったようそこら辺にあるただのガラクタと化した。
胴から切り離された手足も白くつやつやしていたが、すぐに土気色になって断面は黒くなった。
よしのはこの世の者とは思えない様子で作品づくりに没頭する。
手と優雅に踊り出す。足でゴルフの動作をしてみる。流れ出る血を飲んでみる。
できる限りのことをして立体とも平面とも言えない奇妙なものを造り上げた。
作品に閉じ込められたかなちゃんは美しくしなやかで、死んだ今の方がずっと生きている。生きた証をやっと人間たちに示すことができた。
作品に一つ手を加える度によしのはおかしくなった。
目は光を取り込まずにいつだって黒々としている。口を開けば笑うことしかしない。食事を取らなくなって瘦せ細る。
よしのの臭気にやられて私もおかしくなりそうだった。けれど、離れなかった。
作品が出来上がると、よしのの絵関連の知り合いによって世に出ると、瞬く間に賞を総なめにした。
これまでの作品も決して評価されなかったわけではなく、小さい賞を細々と獲ってはいたが、世間的にはこれが代表作となった。
私はまさにその時、世の中は人間の腸が好きなのだと知る。同時にこの世でなによりも残酷なのは人間だということも。
グロテスク。けれども、核心を突くような作品が人間は好きである。
人間の需要によしのははまってしまった。
よしのには作品を造ってもらわなければ。私を頼るようにしなければ。焦燥に駆られて、私は街に転がる人間たちに手を出した。
最初は深夜帰宅する会社員だった。かなちゃんよりも手応えがなさ過ぎてつまらなかった。
用意したロープを後ろから首に引っかけて軽く力を込めて引っ張ると、はい。死体の出来上がり。
死体を差し出すと、たちまちよしのは作品を仕上げた。
その間にも行方不明だとか言ってマスコミはできる限り騒ぎ立て、警察は総力を挙げて事件解決を目指す。
私の成したことが一体、何人の人生に関わるのかと思っただけでぞくぞくする。
一気に人間界のヒエラルキーの頂点に立った気さえした。
両性具有の私が人間を操る日が来るとは思わなかった。今の私なら人間の生死を片手で操れる。上から見下ろして優越感に浸る私はこの世界の女王様だ。
初めて欲情したあの日から血が愛液に変わって流れ続けている。
自分の知りえないところで体外に出ていく血の感覚は程よく気持ち悪くて癖になる。血を吸って重くなったナプキンを鼻で笑って捨てるのも様になってきた。
こんなに女に酔った私をよしのは許してくれるだろうか。両性具有にしか価値のなかった私は人間以上に価値が出てきただろうか。
私が死ねばあの絵以上の作品にしてくれるだろうか。あの絵と並べて飾ってくれるだろうか。よしのは私で満足してくれるだろうか。私はよしのの血肉になって役に立てるだろうか。
死んだ後のことばかり考えてもしょうがない。だって私は今どうやっても生きているのだから。でも、生きていたってよしのの目に映らなければ死んでることと同じだ。ならば、生きているうちにやれることは全部しよう。俄然人間を殺さなければという使命感に駆られた。
手当たり次第に近場で何人も殺していった。
殺し方は様々。絞殺、刺殺、焼殺、撲殺、溺殺。
どれを試しても私としては楽しかったが、よしのが悦ぶのは綺麗に生きたままの状態を保った死体だったので、途中からはそれしか頭に浮かばなかった。
女の死体をあげると、お返しと言うように子宮をよしのからもらって掌で転がしてから丁寧に握りつぶして呑むようになった。喉でひっかかってから食道を痛めつけるように通って胃に入る。そして、私の細胞の一部となる。
よしのに美味しいか聞かれると、腐った人間の肉でもなんでも美味しかった。
ちゃんと呑めたかよしのに喉を開いて見せるようにもなった。
人間を演じて殺すにはこれが一番の近道だった。
徐々に行動範囲を広げていき、画廊付近にまで足を運んでいると、ある日梅子にぶち当たった。
「あんた、そこまで落ちぶれたのね。ただの両性具有者だって油断してた私が馬鹿だったわ」
恐らく探偵でも雇って調べたのだろう。私のこれから動向をも既に知っているような目をしている。メイクの馴染んだ顔が余計に腹立たせる。
「あんたも私たちの作品に加わる?」
「遠慮するわ。あんたに殺されるって考えただけで血反吐が出そう」
「そう。残念」
私は梅子に両手を首がすっぽり収まるように向けた。今は素手だが致し方ない。
「やっぱり殺すのね。邪魔になれば殺すってしてたらきりがないわよ」
「何?あんたも命乞いするの」
「しないわ。だって死なないもの」
その自信はどこから来る。かなちゃんを殺したのは私なのに、なぜ怖がらない。
「あんたはやっぱり弱いわね。殺すことでよしのを繋ごうとするなんて。弱い人になんか命あげたくないわ」
「弱いってのは人の弱点を突こうとしてるあんたのこと言うんだよ!」
首に触れそうになりながらも触れられない。精神的に私は負けている。
「あんたは元から人間じゃないでしょう。それでも人間を殺そうとするの?我がままだわ」
「両性具有が何が悪いっていうの?!?!あんたらオカマは自分から性別捨ててるでしょ!!元から性別を持てなかった私の居場所を取らないでよ!!!!」
怒りに任せて梅子の首になりふり構わず掴みかかると、梅子もすかさず私の首を両手で締め上げてきた。
痛い、苦しい、死にたくない、殺される前に殺さなければ。
込み上げてくる思いたちを両手に集めて力を入れ直す。
私の首にかかった梅子の手の力が弱まってきた。その瞬間を狙って私はさらに力を込める。梅子はもがく時間もなく静かに息絶えた。
勝った。私の中でその三文字が浮かんで消えた。
今日の人殺しの時間はおしまい。私の行く道を阻むものを消せたことで、いつもより達成感が何倍も大きかった。
あんなにも鬱陶しかった人間が死んでもまだ邪魔になる。人間はいつだって有害だ。無害な人間などいるはずもない。
アトリエに戻ってよしのに梅子の死体を渡すと、いらないと突っ返された。
「どうしてですか。私とあなたの敵がもういない、記念すべき死体なのに」
「そんな重いものいらない。もっと俺たちに関係のない死体をくれ」
「はい……」
よしのの言うことは時として理解しづらいものがある。
女の死体を渡せば体形が好きではないと言う。男の死体を渡せば筋肉が足りないと言う。だけど、そう言いながらもちゃんと部分的にだが活用してくれる。
私はよしのの理解者でいたかった。単によしのに必要とされたかったのである。
そして、私はまた殺人に手を染めていく。
よしのの名声が上がったのを見聞きすると、血がナプキンからはみ出るほど流れて、いつもより多く人間を殺した。
アトリエは人間の死体で一杯になった。臭いもきつく放つようになって窓を開けることは決してしなくなった。
作品と釣り合う量の死体は雑に転がって私が立つ場所でさえも失くしていった。
腐乱臭にも鼻が慣れてきたので、試しに家に戻ってみると案の定他人の顔をして家具たちが私を出迎えた。
絵具以上の臭いを振りまいているのだから当然と言えば、当然だ。
床に寝転がってももう埃たちでさえも近寄ってこなくなっていた。
私はゴミにも見放された存在だと知って安心した。
これでもう私にはよしのしかいなくなったのだ。よしのに命ごと捧げられる。
私はこの短期間で何人もの人間を殺したのだろう。
目を閉じれば脳裏に張り付いた死人たちの死の瞬間が今ここで行われているかのように浮かぶ。
叫ばれたことも引っ掻かれたことも危うく死にかけたこともある。
もうこの手は真っ赤に染まってもう元の色には戻らない。
床に私の体温が移って温かくなり、夢か現か判別できなくなった。
死体の山から湧き出たうじ虫が私の身体を上って吞みこもうとしている。
体内へと侵入したうじ虫は私の内臓を食いつくしていく。私が死体の子宮を呑むように。
肉の壁を突き破って這い出してきたうじ虫はまだ息のある私を住処にして仲間を増やしていく。
ついには私はうじ虫そのものになってしまう。
私はまだ死体じゃない。まだ死にきれない。
瞼を勢いよく引き上げると、背中が冷や汗でびっしょりと濡れている。
人間たちに精神を食われる前に多くの人間をよしのへと供えなければいけない。
私の精神を食っているのは誰だと考えた末に浮かんだのは他でもない肉親である父と叔母であった。
私は何十年か振りに故郷に戻って実家を訪ねた。
「今まで何してたんだ。電話も出ずに」
感動すべき父の再会の一言は出もしない涙がちょちょぎれるようなものだった。
叔母はと聞くと面倒臭そうにこっちだと案内される。
久しぶりに入った実家はすっかり女のいる家になっており、私のいた痕跡は綺麗さっぱり消えていた。
通されたリビングには叔母がソファでくつろいでいた。
「あら。帰ってきたの。丁度いいわぁ。何か手伝ってよ。何日かいるつもりなんでしょ」
はち切れそうなまでに膨れた腹をさすりながら顎をしゃくった。
相変わらず自己中心的な考えを隠そうともしない底辺の女だ。
「私、用があってきたの。それが終わったら、すぐにでもあっちへ帰る」
「弟の顔ぐらい見てから帰りなさいよ。お医者様ももうじきって言ってたし」
誰が見るものか。あんたの子供なんか。
腹の底でそう呟いてここは何とか乗り切る。
「性別わかってるんだね」
「あんたと違ってね。姉さんはかわいそうよね。女の子って言われてたのに、産んでみりゃ、どっちでもないんだもの。ねぇ?」
腹に向かってそう話しかける。
「こら。やめないか。胎教に悪いだろう」
父も父だ。自分の実の娘だというのに、他人事にも程がある。
「私、あなたたちの家族じゃもうないんだね」
「今さら何を言ってるの?あなたがここを出た時からそうに決まってるでしょう?電話をかけてるのは同情の余地があるってだけよ。赤の他人にだってもう少しましな扱いするわ」
推測通りにこいつは私を人間だとも思ってはいなかった。
「そう言えば、まだフリーターやってるの?ご近所さんに言えるくらいの職業に就いて頂戴。お願いだから」
他人と言ったり、親の面を被って説教したり忙しい人だ。
父は俯いたっきり何も言わない。
それもこれも今日で片付くと思うとほっとした。
「私ね。今画家の手伝いしてるの。と言っても、別に画家になりたいわけじゃなくって。モデルの真似事みたいなことをしてるの」
「それでちゃんと食えてるのか」
「もちろん。ちゃんと人間の肉を食ってるから腹は膨らんでる。叔母さんほどじゃないけど」
言葉を吞みこむのを待たずに父の首にナイフを認識させる前に素早くつき立てた。
頸動脈を切ってしまったのか、血が噴き出て頭から被ってしまった。これでは風呂に入って服を洗わなければいけない。また、面倒事が増えた。
「な…にやって……。ひぃっ。こっちこないで!人殺し!」
私が一歩踏み出した途端に傍にあった置物を鬼の形相で投げてくる方がよっぽど人殺しらしい。
「この子だけは!この子だけはッ!!助けてやって?ね?あなたの弟でもあるのよ?」
私の弟など知ったこっちゃない。叔母の子供なんかには一生かかっても情はわかないだろう。
「お金なら持ってるわ!!ほら!持って行って!早く出てってよ、もう!!!」
「金なんていらない。私、早く死体を集めなきゃならないの」
叔母が何かを言いかけたが、父同様にナイフをつき立てると、えっという短い断末魔を残して死んだ。
これで私を縛る過去は跡形もなく消え去った。
心置きなくよしのの作品に貢献できる。そう思うと、身体がぶるぶると震えた。
二人分の返り血を浴びているからか、どこもかしこも乾く。
しょうがないので着ていた服を洗濯機に入れて回し、風呂を沸かして入った。
皮膚に染みこみそうになった血を念入りに落とすと、風呂場の床が薄紅色になってしまった。
風呂から上がると、洗濯はできていたが、乾燥はできておらず着る物がなかったので裸で家中をうろうろした。
自分の部屋が物置になっているのを確認すると、父と叔母の死体があるリビングへと戻る。
すっかり死体が板についていて誰しも死ねば自然と似合うのだなと思った。
叔母の服をめくり、腹をゆっくりと撫でる。すると、とんと生命のいる音がした。
まだ、生きていたか。弟よ。しぶといやつめ。
叔母に刺さったままだったナイフを引っこ抜いて真一文字に叔母の腹を切り開く。中ではまだ子宮が血を送り込むことを止めない。仕方ないので、子宮が身体と繋がる管だけを切り取った。流石に虫の息にまでなったが、いつも通り、手で潰すと薄まった血が溢れてきた。零さないようにじゅるりと丹念に飲み干して子宮を丸ごと頂いた。
中に身が詰まっていると普通の空っぽの子宮よりも美味しかった。
洗濯機の乾燥終了を知らせる音が鳴ったので、父と叔母の死体を細かいパーツに分けて提げてきたボストンバッグに詰め、服を着て実家を後にした。
バッグの中には死体が入っているということに、私の傍を通り過ぎる人間たちはこれぽっちも思わないだろう。
ここで死体をばらまけば人間たちは顔を歪ませて逃げ叫んでくれるだろうか。それとも、ポケットの中に忍ばせいるナイフで一人一人殺していくか。老若男女問わず誰でもいいから殺してしまおうか。
ああ。脳内で人を殺すのって気持ちいい。
私は道すがら通行人を脳内で殺してしまうのが完全に快感になってしまっていた。
あの男は焼いたらいい叫び声をあげてくれそうだな、だとか。あの老人は力が有り余っていそうだから溺れさせるのがよさそう、だとか。
妄想にふけっていると、ふいに女が通りかかった。出産を経験していそうな腰回り。気弱そうな眉。ありふれた鞄。いたって普通の格好をしている。しかし、強烈などこかで嗅いだことのある臭いを香水に紛れてさせていた。―腐乱臭だ。
女が気になって後をつけると、よしののアトリエへとしれっと入っていった。
私も少し間を置いてから続けて入る。
「これでいいですか」
「ああ。よくやってくれた。これだけ死体があれば、助かる」
「よかったです」
女は鞄ごとよしのに手渡していた。その中からは手が一本つき出ている。
「あの、その女性って……」
「ああ。言ってなかったっけ。新しいモデル雇ったんだ。ついでに死体収集もしてもらっている」
「私はもう用済みですか」
「そう。用済み。よくわかってんじゃん」
自分で言ったことでも十分に突き刺さる。
「あんた全部遅いんだよ。死体だって傷つけて持ってくるし。こっちの方があんたなんかよりずっと優秀だよ」
女はにこりと私に笑顔を向けた。
「女がよかったなら、私を使わなきゃよかったじゃないですか」
「あんたが勝手にいて勝手に動いたんじゃん。何勘違いしてんの?」
女は笑顔を崩さない。
「私のどこが悪かったんですか」
「全部だよ。全部が悪い。生まれた時から」
私を否定していたのは私だったが、両性具有はまだ認めてもらえていると思っていた。
視線を滑らせると、女の絵が二、三枚既に立てかけられている。
「私、何でもしますわ。だってもう何にもないんですもの」
この女には躊躇と言うものがない。完璧に仕事をこなしそうだが、その分少々危なっかしくも思えた。
「本当に有能だ。この人はきちんとした女だしね」
「……私も女です」
「ふふふ。おかしな人。両性具有の分際で何を言ってるの?」
よしのはこの女にまで私のことを吹き込んだのか。
「私が穢れてしまったのはどう責任を取ってくれるんですか。私もう、何人殺したか覚えてない……」
それぐらい自分でどうにかしろとよしのは大笑いし、女も一緒に笑う。
「警察へ行きます」
「そんなことしたってあんたが死刑になるだけだよ。両性具有が人を殺しまくったってマスコミが大騒ぎするな」
「あんたたちこそ化け物だよ」
まぁ。化け物に化け物って言われちゃったわーと言う女の声が無性に腸を煮えくり返らせた。
「さ。死ぬか殺すかのせめぎ合いだ。どうする。死ぬ?」
「冗談ですよね」
「冗談なのはあなたが生きているってことだけにしてくださらない?」
女同様に私にも何も残ってはいない。
手元に残っているのはナイフ一本のみ。一方を殺せばきっと私が殺される。この空間では私が死なない未来はもう残っていないというのか。
「どうせいつかはみんな死ぬんだ。だったら楽しいゲームでもして誰が死ぬか楽しもうじゃないか」
よしのは一人で淡々と話を進めた。
「ゲームのルールはいたって簡単。まず、三つのコーヒーカップのうち二つに毒を仕込む。次に二人が目隠ししている間にどれが毒入りかわからないように一人が入れ替える。残りの二人も同じようにして入れ替えたら、全員が目の前のカップのコーヒーを飲む。いいね?」
子供騙しのゲームに付き合う義理もなかったが、逃げるのも性に合わないとそのゲームに挑むことにした。
女がよしのの言いつけ通りに見分けのつかないコーヒーの入ったカップを用意し、ゲームを開始した。
一番目に混ぜたのは女だった。私とよしのは目を伏せる。それをよしの、私と繰り返し、コーヒーに口をつけた。
口につかないように、しかし、飲んでいる風に見せて数分経つと、よしのがぱたりと倒れた。女もよしのを起き上がらせようとし、力が入らない様子で倒れた。
赤子の手をひねるよりも拍子抜けな結果に失笑した。
よしのと女を横目にドアへと向かった瞬間、背中に鈍い痛みが走った。
背後に誰かいる。振り向くと、死んだはずの女がナイフを私に刺している。よしのもゆっくりと立ち上がる。
「そんな馬鹿っぽいゲームするわけないでしょ、俺が。下手な演技も信じちゃってまだまだ青いよ君は」
そこでやっと気が付いた。私は調子に乗って裏をかいたつもりがさらに裏をかかれていたのだ。
「よかったねぇ。背中で。すぐには死なないよぉ。いや、死ねないっていう方が正しいのかな」
正面に床が迫って身体がぶつかる。
よしのは嫌な笑いを浮かべて私を仰向けにして女からナイフを受け取った。
背中の痛みに気を取られていると、下腹部が一気に裂かれて手で傷口をえぐられた。
「痛いのかしら。それとももうそんな感覚も残ってないのかしら」
女はさらに足で上から傷を踏みつけた。
自分の身体に起こっているのも分からなくなってくるほど朦朧としてくる。
「気は失わないでよ。面白くないから」
よしのはそう言って私の頬を叩く。
もう一度痛みが走ると、私の縮んだままだった子宮が目の前に差し出された。
「ほうら。これがあんたの子宮だよ。ちっさいねぇ。本当はもっと大きいんでしょ」
「ええ。女性本来の子宮はもう少し大きいですよ。なんせ、ウメコさんは両性具有ですから」
二人の笑い声だけが届く。
いっそ殺してほしい。死ねないのはなぜ?
「子宮大好物だったよな?ほら食えよ」
口に押し付けられる。口を閉じていられる力ももう残っておらず、口に押し込まれる。
肉の感触。血生臭さ。これが私の子宮。
愛おしい。私を悩ませたものの一つであったとしても愛おしい。
吞みこんでやりたい。でも、私には時間も残ってはいない。
せめてもの一噛み。
これが私の精一杯の女であった。