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そーいう経験、現代の芸術シーン

愛されるがどうたら、愛着がどうたら言う現代だけど、そこ柔軟に考えて決め打ちしないといつまで経っても議論止まないし悩み止まらないですよね、私たちみたいなうだうだが趣味なら

愛された経験っていうのは、ある。確実に。でも「この人に愛されたい!」と思った人に愛されたことがないからこんなに私は拗らせちゃったんじゃないのかな?

自分の行動では相手に好意を持ってもらうことができないという諦め?的な
だってそんな経験ないんだもーん当たり前だよね

てか自信がないからなんだけど全ては。
嫌われるかもしれなくてもとっかかりがなくちゃ好きにも嫌いにもなってくれない。
そういうことを無意識に気づいた私みたいなやつが、急に突飛で目立った行動をしだす。
風流もわからないような奇抜なことに手を出す。「私は視野が狭いですし、それを誇りに思っています!」とでも言うように色々やりだして、結局そんな大きなことを抱え込みきれる器がないから破滅する。

そういう人を最近のSNSでよく見る。
私は破滅寸前で予備校の先生たちの教えをちょっとだけ実行したから助かったけど、もう承認欲求の壁打ちがやめられなくなってる人がいるのを目にすることがある。

そういう人になったことがあるから言えるけど、あーなったら冷静じゃいられない。「激情」っていう言葉が本当に似合うように、ノーマルじゃない心持ちのまま今を生きるしかなくなる。
というか、ノーマルだと思ってたものがそうじゃなくなった時に始めて「やばい」って思う。そうしたらもっともっと焦って、冷や汗かいて頭が熱くなって、なのになぜか手だけは動いてる。そういう状態になる。脳みそが言うことを聞かなくなって、視界に自我が混ざり過ぎて混乱する。本当に混乱する。

でも私は、現代の芸術界にそういう人がいていいと思ってる。

繊細で、冷静で、風流なものはそういうのができる人に任せる。
情熱的で、大きく動いて、奇抜なものはそういうのができる人に任せる。
そうすることで、現代芸術シーンの幅がどんどん広まるから、どっちが悪いとかではない。

私は、どっちも行ける人が最強だよなとは思う。最強というのは、有名人になれるとかではなくて、生きやすい方の最強。
そうなりたいなら頑張ってなればいいし、別に今のままでいいならそのままでいい。

でも、与えられた場所に胡座をかいているなら、ちょっと嫌だなとは思う。いてもいいんだけど。多分その人には何言っても通じないから。
そうしたら私の存在が無いみたいになっちゃって、win-winな関係にはなれないから。なんで存在感が欲しいのかまではまだよくわからないけど、蔑ろにされるのはなんだか嫌だから。

というか、芸術なんか別にやりたい人以外はやらなくていい、当たり前だけど。

クリエイティブな人材が良いよーって世間が言い出して結構経ったんじゃないかなと思うけど、なんか、それは違うんじゃないと思う。上手くは言えないけど。

とりあえずこの世には、余計なことで争う人から何されても怖いくらい関さない人までいて、なぜかクリエイティブなことをしだす、くらい。

クリエイティブ信仰によって歪で奇抜な人が生まれて、つらそうに芸術やってやめていく。別に大きな問題じゃないとは思うんだけど、なんかね、うざいよ。

ものづくりは正直誰にでもできるし、センスとかも本見たらある程度のところまで持っていけるし、なんだかな、という印象。

まあ人間なんだから少々歪なジャンルがあるくらい別におかしなことじゃない。歪な穴に落ちた人を救おうとかも思わない。ただ、そういう人がいるっていうのを無視してるなあ〜と感じることもちょっとだけある。
歪な人、面白いんだけどね。視野狭窄に陥らないようにだけ注意。

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