理想の暮らし

ベッドの枕元の目覚ましが鳴った。
まだ早い時間だったが、休みの日こそ有意義に使いたい。となりでいびきをかいている夫を置いてベッドから出た。
洗面所で顔を洗い、パジャマから部屋着に着替え、化粧する。今日は休日、ウイークデーと違う、薄化粧に見える化粧をしなくちゃ。
朝食はフレンチトーストとコーヒー。お気に入りのダイニングテーブルにはクリーニングしたてのテーブルクロスがかかり、その上に昨日生けた花が飾ってある。今日は晴れてマンションの最上階から見える景色も気持ちがいい。小さなステレオのスイッチを押すと、静かにモーツァルトが部屋に満ちた。テレビもあるけれど頭が痛くなるからわたしは好んでは見ない。
わたしは、大好きなものに囲まれてゆっくりと朝食を食べるこの時間が好きなのだ。
さあ、フィットネスジムでさらに自分に磨きをかけよう。わたしの人生は完璧。たったひとつをのぞいて。

わたしは、フィットネスジムから自宅に帰ってきた。マンションのドアを開けると、テレビの音が聞こえてきた。靴を脱いで上がり、ダイニングに近づくにつれテレビの音が大きくなってきた。頭が痛くなる。夫が起きていた。
そう、彼がわたしの完璧な人生のたったひとつの汚点だった。
「ただいま」
声をかけると、でっぷり太って無精ヒゲの夫は下着のまま、くだらないテレビ番組から目を離さずに返事をした。汗くさい匂いが鼻をついた。座っているわたしのお気に入りのソファは大丈夫だろうか。
「おかえり。昼ごはんはなに?」
テーブルの上には夫のために置いておいたフレンチトーストの残骸がテーブルクロスに染みをつくっている。部屋の空気はよどみ、花瓶の花さえ元気を失っているようだ。
わたしは、内心の腹立たしさに笑顔を貼りつけた。
「すぐつくるわね。パスタでいいかしら」
夫はやっとこちらを振り向いた。
「大盛りにしてね」
言うが早いか、またテレビのほうに向きを変えた。

わたしは夫のためにパスタをゆでながら具材を刻んでいた。まな板の上のベーコンが夫に見える。
夫も結婚前はもう少しまともだった。スタイルもよく、清潔で身だしなみにも気を使っていた。だからわたしは、
『きみがいないとぼくは生きていけない。死んだほうがマシだ』
そう書いた手紙を夫からもらい、のぼせあがって結婚したのだ。わたしの完璧なくらしに、彼がきっとピッタリだと思ったのに。

わたしはダイニングの窓からベランダに出た。小さなテーブルの上に二人分のパスタを乗せる。ワインも用意した。
「晴れてるし、今日はこっちで食べない?」
わたしは二人分のワイングラスを手に夫に声をかけた。夫はそれを見て笑った。笑い顔がまるでカバみたいだ。わたしは気付かれないように、小さくため息をついた。夫はベランダへ足を踏み出した。
わたしは、一方の手で自分のワイングラスに口をつけながらベランダの手すりの上に彼のグラスを乗せる。
無精ヒゲの目立つ顔に、下品な笑顔を浮かべ、夫は勢いよく手すりのワイングラスに手を伸ばした。わたしは夫の下に潜り込み体全体で夫の体を持ち上げた。夫は悲鳴もあげずにベランダの手すりを乗り越えた。

刑事が、わたしの目の前でお気に入りのソファに腰をおろしていた。向かい側に座るわたしに話しかける。
「これは自殺ですね。遺書もある」
刑事が封筒から夫が書いた遺書を取り出した。
「奥さんが別れ話を切り出したんですか」
わたしはおそるおそる頷いた。
刑事が、わたしにその鋭い目を向けた。
「きっとそのショックでしょう」
わたしはうつむき、肩を落とした。
「そうなのかもしれません」
わたしは涙ながらにそう答えながら、頭の中では別のことを考えていた。
『保険屋さんに連絡しないと。そうだ。フィットネスジムの解約をしなくっちゃ。もうわたしには必要ないんだもの』
刑事が続けた。
「奥さんのことを、愛されていたんですね」
刑事は声に出して遺書を読んだ。
「きみがいないとぼくは生きていけない。死んだほうがマシだ、か」

※この作品は、イトウカヌレさんのエッセイ、「理想の暮らしに、殺される」のタイトルのみからインスパイアされて制作いたしました。この作品とイトウカヌレさんのエッセイとはまったく関係ございません。
ちなみにイトウカヌレさんのエッセイはこちら

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