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◆“正義”とは常にろくでもない論理であり、敵を増やし、暴走するものである

 現実的に、文明の進化が必ずしもすべての人々を幸福にするわけではないし、平和をもたらすわけでもないのだということは歴史をさかのぼればわかることであり、現代においてもそうであることがわかる。

 今からおそよ45億年後、太陽の膨張により地球は飲み込まれ消滅すると言われているけれども、そんなに先の話でありながら、すでに地球脱出を計画する話が宇宙開発界隈では進んでいる・・・?

 仮に火星に大気を生成することができたとして、人が住める環境になるには膨大な年月がかかる。最低でも200年は必要らしい。

 地球の役割とはなんだったのかを考えてもよくわからない。未だに人類は無数に生み出された思想や正義を掲げ争いを続けている。

 人が信じている正義が本当に正しいかどうかなんて誰も証明できないはずだろう。あくまでも正義とは、それとは異なる正義、相反する正義を掲げる存在にとっては悪でしかない。

 世界中の誰もが、敵対するあらゆる存在の持つ力を互いに共有するようになれば、きっと文明の進化は加速するに違いない。

 しかしその進化を減速させる大小様々な規模で展開される争いや足の引っ張り合いが減らない限り、それが実現することは永劫あり得ない。

 誰が悪いのか、責任はどこにあるのか、誰が代償を払うべきなのか、そんなことばかりを議論している者たちは、それぞれに正義を掲げているのかもしれない。

 世界を不幸に導く最たる要因は何か。おそらくそれは、人々が好き勝手に掲げる正義なのではないか。そんなことを思うと同時に、心底バカバカしいとさえ思う。

 「勝った者が正義」という考え方がさも当然のように語られることが非常に多く散見されるものの、その思想こそ、必ず誰かを虐げることになっている。そのことに気付いているのか気付かぬフリをしているのか、集団で石を投げて気持ちよくなっている種類の人間たちで溢れ返っている。

 この100年で人類は進化したのだろうか。もしそうなのだとすれば、どういう部分で進化したと言えるのか。文明の進化と共に人類は退化しているのではないだろうか。

 他人の過去をめくって晒しては火に油を注いで騒ぎ立てることに一生懸命になっている現代社会のどこがまともだと言えるのか。私にはどうも理解できない。

 誰でも叩けばホコリが出るもので、人に知られたくない過去の一つや二つはあるとも言う。しかし実際は、全く関係ない人まで投石に参加して、石を投げている自分の姿を一切顧みようとしない。

 個人的に、香川照之さんやその他スキャンダルで吊し上げられ叩かれまくった方々については、復帰できる環境を社会が用意すべきだと考えている。

 実際、世間のネット上での集団投石は、裁判における判決の何倍ものダメージを与えるもので、果たして一般市民にそこまでしていい権利があるのだろうかと思えてならない。表現の自由だったり、知る権利だったりの暴走ではないのか。

 インターネットがもたらした人々の幸福についてはもちろん称賛する部分は大きいものの、非常に気味の悪い社会になってしまったなというのが本音。人の感情がここまで可視化されるとなると、社会がバランスを保つことも難易度を増してしまうということが実証されたのが現代ではないかと思う。

 何かあるとすぐに拡散、炎上。正義の暴走は何も生まないということをもっと正しく認識する必要があるようにも思う。

 何をした人でも、その人のすべてを否定していい理由はない。日本の死刑制度は世界でも少数派のものとなっているけれども、死刑判決後すぐに刑が執行されないのは、死刑囚を知るための期間でもあるのだろう。社会復帰は許されないとしても、それでも社会のために残すべきものを残してもらって成されるのが死刑だと私は認識している。

 ただ、実際には、人が人を罰するという前提を疑う余地はある。正義の下であるならば人を罰し命を殺めることが許される、そういう思想が時に誤った判断による行為を生むこともある。

 大っぴらに叫ぶ正義とは、常にろくでもない論理でしかないのかもしれない。ひょっとすると、それを鵜呑みにして信じてしまう側もろくでもない思想の持ち主なのかもしれない。

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