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◆知の特異点は無である

 極端な話、全知全能の域に到達したとしても、それ以上のことを知ることができ「無」いため、知の特異点は「無」であると考えることはできると思います。

 現代では、一般的に流通しているあらゆる知識の中には、基礎的なものから専門的なものまで幅広い知識がネット上を始め、誰もがそれらを共有できるようになった時代ですが、もちろん中にはガセネタ、ウソ、陰謀論など科学的根拠もなければ事実でもない情報も多く紛れ込んでいるということも事実です。

「あなたは何を知っていますか?あなたが知っていることを教えてください。」

 と問われたとします。あなたはどう答えますか?何についての質問かが欠落しているため、答えるにしても多少躊躇うかと思います。人は一体何を知っているのでしょう。

◆歩き方、走り方、道具の使い方、言葉の遣い方、運転の仕方、モノの構造、ゲームのクリアの仕方、人の騙し方、人から好かれる方法、人から嫌われる方法、暴力の方法、殺人の方法、お金の儲け方、お金の奪い方、人の助け方、字の書き方、人を喜ばせる方法、人を悲しませ方法、人を驚かせる方法、人をガッカリさせる方法、人を失望させる方法、人を誤解させる方法、人を裏切る方法、人を洗脳する方法、料理の仕方、恋愛の仕方、結婚生活の秘訣、離婚の仕方、仕事上の知識、会社の辞め方、会社の作り方、納税の方法・・・。

 「人のため」という知、「人のためではない」という知、そして「自分のため」という知、に大別することができるのが知識ではないかと思うのですが、こうして見てみると、知は人間のその時々の意思によって自由に扱われるものであって、必ずしも知そのものがすべての人たちにとって有益であるというものではないことがわかります。

 何かに人一倍詳しい専門知識を持つ人物のところには、現代の評価経済社会においては人が集まりやすい傾向にありますね。特に、統計データから導き出される考察を好む人が目立って見える。というのも、統計データとは想定可能ないくつかの事象において人々がどのような反応を示し、どのような結果を、どれくらいの割合でそれぞれ示すのか、ということを数百人~数万人といった幅広い母数によって集計されているため、多くは母数となる検証人数が何名であれ、統計データがどうであるかによって導き出される考察を信じる人たちです。

 人を納得させるためには数字を用いた論拠というのが効果的であるとされてはいるものの、実際には実態とは異なる説明をしてでも契約件数を稼いで実績を積み上げたり、売り上げを伸ばしたりするために利用されるものでもあるのが統計の利用価値でもあると思います。表示されているグラフの割合と記載されているパーセンテージが不釣り合いな表記をされていてもパッと見はほとんど気付かない、そういう視覚的なトリックも使われていたりもします。

 言葉が巧みなだけではなく、目で見て納得させるための手法というのも付帯した上で、説得力を強めた説明をされれば、どんな商材であれ信じる人は信じてしまうものなのかもしれません。そういう意味では、百聞は一見に如かずという諺を悪用し、ウソや偽りであっても人は自分の目で見て耳で聞いたことなら信じてしまうということが証明される、そういう現実も起きていると言えますね。

 では、もう一度尋ねます。

「あなたは何を知っていますか?」

 私なら、「私のような凡人が知っているようなことは、大抵多くの人々も知っている程度のことですから、これと言って何を知っているかを示すものはありません。」と答えるかもしれません。

 文明の発展途上であるならば、もしかしたら自分しか知らないこと、極めて少数の人たちしか知らないこともあったかもしれませんが、現代社会においてはなかなかそれほどの稀な知を個人が知り得ているというのは考えにくく、一方でウソやガセネタなどといった事実とは異なる科学的根拠のない情報を信じてしまっている人たちも多く存在していると言えます。

 例えば、昔は100円なんかでは購入できなかったようなものが、今ではダイソーやSeriaなどの百円均一ショップで誰もが安く購入できるものが増えました。そんな感じで、人々の生活水準が向上していくと共に、人々が知り得る知の最低水準も時代の変化と共に底上げされてきたように思います。

 先日「中学生なのに掛け算九九ができない」といった炎上騒動の渦中の人物となったゆたぼんと父親の幸也さんについて、彼らのアンチたちは言いたい放題に叩きまくっていたようですが、ゆたぼんくんが九九ができようができまいが、この先の人生において苦労することはほとんどないと考えられます。

 言うほど難しいことでもないですし、必要となればどのタイミングでも覚えられるシンプルなものですから、「中学生のくせに九九ができないのはヤバい」などと言ってしまっている人たちについては、本当にそう思っているのだとしても、事の本質を見誤っているような気がしてなりません。

 知と年齢とが相関関係にある、という検証結果があるか否かを私は知りませんが、「小学2年生で掛け算九九ができないのはヤバい」という先入観のほうがヤバい気がしますが、皆さんはどう思いますか?

 そもそも、日本の教育制度において小中学校は義務教育とされていますが、9割方が座学で無駄に宿題だのテストだのと要求された覚えしかありませんし、知に興味関心を持つための機会というのはほとんどなかったように思います。そんなことよりも、学校教師は毎年自分が担当した学級の生徒たちに毎年同じことを教えることで給料をもらうわけですから、どこかのタイミングで心底飽きても不思議はないのではないかというのが教育現場の実態ではないかとも言える気がします。

 この担任がした行為そのものは社会的にも絶対に容認できないことだってことはわかりますよね。教員免許を持つ者としてあるまじき行為。でも、防げなかった学校側にもいくらかの責任はあるだろうと見るのが適正だと思いますね。

 林真澄死刑囚の起こしたヒ素混入カレー事件をフラッシュバックさせたこの事件は、YouTubeで最近「過去の事件を調べてみた」みたいなニュース番組がアップロードされていたため、これを見て模倣的に犯行に及んだ可能性が考えられますね。

 教育現場の腐敗が進んでいるような気がしますね。今回は生徒たちに被害が及ばなかったようで。

 自ら資格を取得して飛び込んだ環境で、納得がいかないことが起きたり、不満が溜まりに溜まって我慢ができなくなってしまう人たちが全国的に増えているのでは?早く理想と現実の乖離をなくさないことには、こういう事案が次々に起きてしまうような気がします。

 愛知県でも警察官が未成年との淫行で逮捕されていたり、同じく警察官が刑務中に副業でスマホを触っていたとかで懲戒処分になったりするような報道が続いていますね。

 公職に就く人たちが置かれている状況は、加速的に悪化の一途を辿っているのかもしれませんね。今後も続くでしょうから、しっかり見ていきましょう。

 資格を取得するために必死に勉強して合格し、実務も何年も取り組んできたのに、行き着く先が刑務所とは、虚無感に苛まれても不思議はありませんよね。日本の資格制度はそういう人たちを量産しているのではないでしょうかね。

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