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【#差別とは】この世界から差別はなくならない

 まず辞書の意味を見てみる。

🔷差別(さべつ)とは、特定の集団や属性に属する個人に対して、その属性を理由にして特別な扱いをする行為である。 それが優遇か冷遇かは立場によって異なるが、通常は冷遇、つまり正当な理由なく不利益を生じさせる行為に注目する。

🔶二律背反的な思想が存在する限りこの世界から差別はなくならない

 優等生がいて、劣等生がいる。優秀な人間が優遇され、そうではない人間が冷遇される。これは当然か否か。当然だと主張する人はこれを差別ではないと認識し、当然ではないと主張する人はこれを差別だと認識する。

 人種差別も、宗教的差別も、性別的差別も、相反する立場があり、「〇〇だから差別されて当然だ」という解釈の下、傷付ける者と傷付けられる者とが存在する。

🔷優生思想とは、身体的、精神的に秀でた能力を有する者の遺伝子を保護し、逆にこれらの能力に劣っている者の遺伝子を排除して、優秀な人類を後世に遺そうという思想。優生学の成果に立脚する。人種差別や障害者差別を理論的に正当化することになったといわれる。

 生まれながらに自身が親から受け継いだ遺伝子が優れていれば保護され、そうでなければ排除される、そういう思想。では、優生学の起源について見てみる。

🔷生殖管理により人種を改良する、という発想は、プラトンにまで遡ることができるが、優生学の直接的な起源は、1865年のフランシス・ゴルトンの報告である。 彼は従兄弟のチャールズ・ダーウィンが1859年に著した『種の起源』から影響を受けた。

 1865年に生じた優生思想は、156年経った今でも世界に影響を与え続けていると言える。

 企業の人材採用や従業員の定期考課は、実のところ完全に優生思想に基づいている。優秀だと判断された人は採用され、実績が優れている従業員には役職が与えられ、月給、賞与、トータルの年収も増額する。

 しかしながら、現代においては、正社員が優秀で、派遣・契約社員やアルバイトが優秀ではないと判断するのは間違いであり、学歴では人の優秀さは測れないことにも気付いている。

 危険運転過失致死罪の上級国民も再三ウソを吐く。

 部分的不能をその人の全てと誤認しやすいのが人間社会で、それをうまく包み隠すことのできるものが肩書であり、過去の功績であり、知名度や名誉だったりする。

🔶メンタリストDaiGoさんに対して優生思想肯定論者だと批判した東国原氏とオリンピック

 東国原氏はDaiGoさんをそのように批判をしたわけだが、彼も同じくこの社会が容認してきた優生思想の中で生きてきたのではなかろうか。もちろん、批判をするのは自由だが、この世界に存在する優生思想をどれほど否定しようとも消し去ることはできない。

 オリンピック開催の意義はどうかというと、世界各国を代表するスポーツ選手が様々な競技で身体能力の高さを競い合い、1位から3位の選手には金銀銅のメダルが贈呈される。これも立派な優生思想の下に開かれているイベントなのではないか。

 甲子園、春高バレー、インターハイなど、日本国内でも優秀な高校生のスポーツ選手を選抜するための大会として長年続いている大会。秀でた選手をメディアが取り上げ、スカウトを専門にしている人たちが挙ってアプローチをかけに行く。

 スポーツ業界だけではなく、その他さまざまな分野・業界においても企業や団体は優秀な人材を欲している。そして誰もがこうした事実を当然のことだと認識しているにもかかわらず、ホームレスの人たちや生活保護受給者に対して「必要のない存在」と発言したDaiGoさんに対しては、全力で批判が殺到した。

 ボクらが生きているこの社会は、学校時代から社会に出て働き始めてからもずっと、優生思想の下に動いているのではなかろうか。

 西村ひろゆきさんが「企業は無能な人間を切って捨てることをしない限り存続は難しい」と提言していたことについて炎上しなかった理由はそこにある。これもまた優生思想の観点ではあるものの、批判が集まった様子は見て取れなかった。

 なぜDaiGoさんだけは批判を浴び、企業案件から複数撤退され、提携していたアプリに表示されていたDaiGoさんの名前が削除され、動画の背景に移っていた本棚のメーカーから配信時に本棚を映すなとクレームが入ったのか。

🔶全ての人々の人生を「平等」にすることは不可能

 法律でさえ平等については部分的明記に留めている。基本的人権の尊重とか生きる権利とか、人としての尊厳を守るという意味では平等であると。

 では、過去に罪を犯した人たちが刑務所から出所して受ける社会的差別は正当かというと、これも法律上は人権侵害に抵触する場合がある。彼らは、裁判で受けた判決に従い、更生し社会復帰するために刑に服すわけで、出所する時には更生したと認められて刑務所を出るわけだ。

 よくよく社会で取り沙汰される平等や差別に関する様々な出来事に目を向けると、人は常にその場その時に合わせて都合の良いように解釈しているに過ぎないことがわかる。

 我田引水という諺があるように、自分に都合の良いように事を動かそうとする人は、自身が持ち得る人脈を駆使して根回しをし、とある決定事項の決議の際に味方を増やしておくなどして、自分の田んぼにより多くの水が流れてくるようにする。

 こういう人間はどこにでもいるもので、コネを使って出世したり、上のポジションに就く人がいるということは、そのせいで全うに実績を残す人間が出世街道において先を越されるなんてことも起こる。

 特に、会社組織では、上に行けば行くほど椅子は数が少なくなっていくわけで、取り合い奪い合いの世界。そこで生じる優劣というのは、必然のものであって、不平等が生じるのも当たり前。過程がどうあれ上に行けるのはごくわずかな人間だけ。

 そういう世界に足を踏み入れたのであれば、結果がどうなろうと受け容れるしかない気がするけれども、中には、納得がいかなくて足の引っ張り合いをする人たちも少なからず出てくる。非常に醜い世界に映る。

 DaiGoさんが運営するDラボを始めとする様々な事業は、月収約9億円、年収およそ100億円という莫大な収益。これに対し、やってらんねーよと文句を垂れる報道番組の司会者は、きっと自分の優秀さと年収を彼のそれと見比べて納得がいかなかったのかもしれない。

 年収と優秀さは必ずしも相関するわけではない。というのも、優秀さと言っても数ある業界や分野において要求される難易度やユニークさは異なるもの。簡単なところで言うと、偏差値の低い高校でトップの学生と、偏差値の高い難関高校で最下位の学生とでは同じ天秤では測れないということ。

 もう一つ例えて言うとするならば、今注目を集めているメジャーリーガー大谷翔平選手は、現在43号ホームランを叩き出している状態だが、サッカーをやればJリーグのストライカーには歯が立たないということ。

 世の中には、いくつもの分野でマルチに活動をされていて優秀な実績を残している人も存在する。

 つまり何が言いたいかというと、土俵の異なる世界で生きる者同士を優劣一本で比較しても意味がないということ。

 自分が今、どんなことにおいて優秀で、どんなことにおいて劣等であるかは、今後自身が行く先々ではまるで関係がなかったりする。これはボク個人として仕事を転々として気付かされたこと。今までやったことのない業種職種で働き始めれば当然のように素人で、経験者より劣るのは当たり前。

 頑張り次第で優秀になれることもあれば、頑張っても歯が立たず退くこともある。そういう経験を繰り返すことで、自身の適性が見えてくることもある。だから、何でもやってみればいいだけで、他人と自分をわざわざ比較して劣等感を感じる必要は全くない。

 それでも差別を嫌い、平等のみを求めるのであれば、何かの宗教に入信する外ない。宗教信者こそ皆平等なのだから。しかしそれでも、宗教間で差別や紛争が起きている人間社会はよくわからないところがある。信じている神が異なるというだけで、なぜ他の宗教と争わなければならないのか。異宗教同士で平等を求めるのは無理があるし、思想や観念が異なるのだから共感し得ない部分も多々あるだろうに。

🔶この世界から差別は「絶対に」なくならない

 その最大の理由は、「幸福な人生とは何か」については人によって捉え方が異なることにある。SNSで言うところのTwitter、YouTube、TikTok、Instagramなどでのべつ幕なしに横行する幸せマウントがまさにそう。

 「他人が幸せそうに見えると僻む人間がいる」ということを知っていて一生懸命に幸せアピールをしているSNSユーザーは、おそらく自分が誰よりも幸せであることを知ってもらうことで優越感に浸るのかもしれない。

 よく見る「今日のお弁当画像」。なぜ作った弁当の写真をアップロードするのか。家庭的で家族愛に溢れている妻であることをアピールし、コメントやいいねなどの反応を欲しているからではないのか。

 これも、自分が優れた妻であることを示す優生思想に基づいていて、これに承認欲求が掛け合わさったもの。それがお弁当写真投稿ではないかと察せられる。

 しかし、そうではなくて、ただの思い出として残す意味で投稿している方もいるかもしれないので一概には言えないが、第三者として見る限りその行為には幸せマウント以外の意義を見出しているようには感じられない。

 それに、「幸福な人生とは何か」「どうすれば幸せになれるか」「どうすれば自分が幸せであることを知ってもらえるか」といったことに心血を注いでいる限り、幸せを実感することはないだろうと思われる。

 個人的には、何も考えていない時、気持ちいいと感じている時、美味しいものを食べている時、お酒を飲んでリラックスしている時、そういう時に小さな幸せを感じている。でもそれを、誰かに知ってもらいたいとか理解してもらいたいなどとは全く思わない。

 幸せなんて自分がそうと感じることが全てで、そこに第三者が介入すべきものではないから。

 だから、第三者がいくら差別してきたり、足を引っ張るようなマネをしてきたり、マウントを取ってきたりしても、そういう種類の人間たちはその行為に及んでいる時点では不幸の中にいるのだと思えばいい。

 差別は絶対になくならないのだから。ボクらはそれを大前提に生きているということから目を背けてはならない。

 あなたがもし優生思想論者であるのなら、論じてはならず、思うに留めておくべきと肝に銘じておいてほしい。論じれば必ず、大前提を見て見ぬフリをして批判してくる人たちが湧いて出てくるのだから。

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