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日記やめたよ日記


日記

最近の活動報告〜。
2024年だけでも『note→手書き+Instagramストーリー → 手書きのみ →手書き+note → note』という取っ散らかり変遷を辿っている日記ですが、ここ最近はジャーナリングに落ち着いています。

あちこちで話には聞いていたジャーナリング。ただ調べてみても実践している人の記事を読んでも、その実態はぼんやりしていた。そして実際にやり始めてみた今でも「よく分からんな〜」というのが本音です。
そもそもジャーナリングとは、自分の頭に浮かんだことをありのままに書き出すこと。書く瞑想とも呼ばれているらしい。そう言われるとなんだか高尚なものに思えてくる。
が、なんにしたってよく分からないので、私は勝手にジャーナリング=日記でも感情でも何でも好きに書いていいよタイム と定義付けている。

そもそも何故ジャーナリングを始めたかについて。
今年の1月にInstagramの読書アカウントとnoteを始めて、自然な流れで日常の記録も垂れ流すようになった。もちろんこれらは私自身がやりたくて始めたことなのですごく楽しいし、もっともっとやりたい。ただ同時に、初めから公開する目的で書いた文の比重が大きくなりすぎていることも感じていた。
ありのままの日常を記録した (つもりの) 日記でも、公開できることには限りがある。読書記録だってエッセイだって、いざ公開するとなればそれは真っさらの本音ではない。

他人が見る可能性のある場所では、人間はどうしても「表現」をしてしまう。閲覧数やいいねの数、周りからどう思われるかをまったく気にせずに投稿できる人は100%いない。それは本音ではなく、本音風にデコレーションされた歪な表現でしかない。

星野源「いのちの車窓から2」より

表現ではないものも、記録しておきたくなった。
ーーと、今こうやって表現している。
公開するための表現と、公開しない本音。どちらも手放さないですむように迷いながらでも足掻いていきたい。

ジャーナリングに使っているのは、無印良品で買ったA5サイズのノート。日付、だいたいの天気、時間と場所をページの上に書いたら、あとはもうなんでもOK。
1日の中でいつ書くかを決めたり、書くのにかける時間を固定する方法もあるみたいだけど、私はどちらも決めていない。朝、目が覚めてすぐに書き始めることもあれば、カフェに寄ったときに書くこともある。5分ほどで終わらせてしまうこともあるし、20分近くかけてじっくり書くこともある。 

果たしてこれをジャーナリングと呼んで良いのかは不明だし、正統派ジャーナリンガー(?)に怒られるような気もするけど、このぐらいの適当さが私にはちょうど良い。


そういうわけで、
またしばらくはこのスタイルを楽しみます。




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