風俗嬢に人生を救われた話(7)
<冷笑>
約束を取り付けてから数日、何度かLINEのやり取りを繰り返した後。
一通の連絡で、状況は一変した。
「この間は思わず外で会う、なんて言っちゃいましたけど、すみません。
やっぱり、お店に来られないなんて辛すぎます」
――さもありなん、である。
当然、落ち込んだ。だが、彼女の気持ちはおおいにわかった。
ロングタイムで入るものの、行為はスローで摩擦・消耗が少なく、そのくせ月辺りで入る回数は多い。自分が”割のいい客”である自覚はあったからだ。
彼女にとって、あくまで自分は客なのだ。その立ち位置から外れること、関係を崩して太客を逃がすことを、警戒するのも当然だろう。
だが悪いことに、この時この客は、ちと舞い上がり過ぎていた。
「望まれるなら残り2~3ヵ月、可能なだけ入ることはできる」
「無理に会う必要などない」
本来、これだけを伝えればよかった。それが、彼女の示した意思に対し、自分ができる一番の
「相手を想った行動」
だったはずだ。
しかし、なまじ彼女からの誘いに対し、喜びが大き過ぎた影響だろう。あれやこれや長々と、本音を喋りすぎたのである。彼女に「気付いてほしい」「伝わってほしい」という自分の都合を優先し、彼女がどう受け取るか。それを考えずに返信した。
水商売の経験がある方、あるいは一方的な「片思い」に辟易した経験がおありな方なら、それがどれだけ有害か。手に取るようにおわかりいただけると思う。
「客」と「コンパニオン」以外の意味を含む長文のメール(LINE)ほど、活力を奪う連絡はない。ましてや内容は混沌としており、文脈がまるで読み取れないタイプの「毒文」である。
今ではそのことを、痛いほど自覚している。しかし、この時はまだ絶対的に、それを考える余裕、冷静さが不足していたのだ。
しばらくして、返事が来た。シンプルに一通、
「すみません。やっぱりもう、会わない方がいいと思います。
今までありがとうございました」
――そんなような文面だった、と思う。
ショックだった。自分では、
「望まれるなら残りの時間、客として入るのみ」
「彼女自身の意思が最優先、自分の希望とすれ違ってもそれはそれ」
を、重ねて強調してきたつもりだった。(前述の通り勝手な独り相撲で、適切な意思伝達ができてはいなかった訳だが)
しかし、それすら拒絶されたということ。これはとどのつまり、出禁宣言のようなものではないか? としか、受け取れなかったのである。
頭がクラクラした。
視界が歪んだ。平衡感覚が失われ、ベッドに倒れこんだ。自室で連絡を受け取れたことは、不幸中の幸いだったと思う。
また、やってしまった。
自分が今、一番心惹かれていた相手に、恩を仇で返す。
これはまさしく、過去の過ちの焼き直しではないか!
断じて、許されない。謝らなければ、伝えなければ……
……ここで自分は、致命的な愚を犯した。LINE通話を申し込んだのだ。
しかも悪いことに、既読が付き、返信が来たのだ。内容は
「いいですよ!どうぞ」
とある。記録はもう、消去してしまったが、確か……どうぞの後ろに、笑顔かなにかの絵文字がくっついていたように思う。
ともあれ、希望が繋がった。
まだ、LINEがブロックされていない――かつての恋人とは違う。断絶された訳ではない――状態なことが確認できた。
感情が溢れ出す寸前だった。
間髪入れず、通話ボタンを押す。何度目かのコールの後、スマートフォン越しの聞き取り辛い、くぐもった声が聞こえてきた。
もしもし、と。
――あぁ。
よかった。拒絶された訳ではなかった。
まだチャンスはある。今度こそ、伝えるのだ。
『正しい失恋』の、チャンスを逃してはいけない。
一見して支離滅裂なようだが、この時は本当に、ひたすらこればかりで頭がいっぱいだった。
恋愛対象にして、求愛対象にあらず。その歪みが、決定的な過ちを引き起こした。
――好キナンダ。
付き合いたいと、……無論、何割かは、そういう思いがなかった訳ではないが……歪な告白をした。
望んでいた「最高の失恋」は、影も形もなかった。あるのは「形式」に囚われた、自分勝手なエゴだけだ。相手の事情も、気持ちも考えず、一方的に自分の好意と事情を押し売りした。
……フウッ。
――ため息が聞こえた。小さな音だった。
だがそこには、明確な意思が感じ取れた。一聴しただけで、7月だと言うのに、全身に冷や汗が走った。
侮蔑。
落胆。
冷笑。
たった一息、である。たった一息で、彼女はそれら全てを伝えてきたのだ。
肌が泡立った。
ようやくこの時、自分がいかに冷静さを欠いていたか、取り返しのつかない過ちを犯していたかを自覚した。しかし、完全に手遅れである。
声が聞こえた。
店の階段の下で、ベッドの上で耳にしてきた声とは、明らかに違う。
低く、怒りを含んだ声だ。
「……私の、何がわかるんです?
私と○○さんは、エッチしただけじゃないですか。私の何を知っていて、好きなんて言えるんですか……?」
――震えた。
深淵を覗いた気がした。
それは、決して開けてはならないパンドラの箱だ。
彼女が必死の思いで作ってきた、繕ってきた「コンパニオン像」が、とうとう崩れた。被り続けてきた仮面を、自分が剥ぎ取ってしまった。
しどろもどろになりながら、必死で話し続ける自分に、彼女は言う。
「……私、忙しいんですよ。勉強は大変だし、体調を整えてお店に出て……この2つだけで、手一杯なんです。
だから、付き合おうにも、とても会えそうにないんです。もっと私を知りたければ、お店に来てください。長い時間でなくてもいい、短い時間でもいいんです。
お店に、来続けてください」
――ああ。
伝わって、いなかったのだ。この時初めて、全てを理解した。
完全に、自分の失敗だ。
伝えられるチャンスは、いくらでもあったはずなのに。これまでは、”客としては”憎からず思われていただろうに。
最高の失恋は無理でも、最高の客として、最高の「さようなら」ができたかもしれなかったのに。
全部、ぶち壊したのだ。自分が。
全部。全部!
俺 の せ い だ !!
――彼女は最後まで、「店に来、金を落とすことが、唯一無二の望み」という意思を隠さず、淡々と通話を切った。
通話が終了した後は、しばらく身動きが取れなくなった。
呼吸が苦しい。自分がひどく、汗を掻いているのがわかった。
一人、自室で泣いた。
取り返しがつかない過ちを犯したことと、どうしようもない罪悪感で、いい歳になった男が、みっともなく泣き続けた。
後に残ったのは、強烈な後悔と、罪悪感だけだ。これからどうすればいいのか、めちゃくちゃになった頭で一晩考え続けたが、結局答えは見つからなかった。
一つだけ、確信があった。
彼女とは二度と、以前のような関係には戻れない。
<笑み>
――その後も何度か、LINE上で連絡を取った。しかし当然、以前のような甘い会話ができる訳はない。
彼女は、本気で怒るようになった。怒りをもって、自分を糾弾した。
自分が客であるからか、罵詈雑言という形を取ることはなかったが、
「自分のことをどれだけ褒めてくれるお客様でも、皆が皆、結局は離れていく」
「自分は働かなくてはならない。どんな感情を、苦痛を抱えようと、こうして生きていくしかない!」
そんな激情を、ぶつけられることが増えた。およそ客に対する態度ではない。
その事実が、痛かった。どうしようもなく、身に沁みた。
彼女はここに至って、自分をまた店に来させようと、あの手この手で籠絡するような……器用な真似ができる人ではなかったのだ。
彼女は本心から、失望していた。怒り心頭だったのだ。
一言、言ってやらねば気がすまない。顧客を失おうが気にするものか。
接客用の仮面ももういらない。スマートフォンの向こうにいる、あの男に感情を叩きつけねば収まらない!
……そんな意思が、画面越しに伝わってきたように感じた。
8月。意を決して、予約を申し込んだ。最長時間だ。
隔週で1回、2回、3回。それでようやく、彼女は笑ってくれるようになった。
以前と同じく……否。以前と違い、満面の笑みで。
少し寂しげで、儚げな印象は、もうない。
ようやく、また客として自分の下を訪れるようになったと、心から祝福してくれたのだった。
――当初の理想は、既に失われた。
もはや修練でも、トラウマの克服でも、何でもなかった。
快楽でもない。恋愛でもない。
これは、ただの懺悔だ。
犯した罪の許しを請うクソガキを、とびっきりの笑顔で教師が迎える。さあ、おしおきの時間ですよ? ……と。
そんなあの日の焼き直しだ。
自分が望み願った、尊び続けたものは、全て狭い客室から消え去っていた。
許されないことを承知で、必死に通い続けた。
自分自身に夥しい消耗を課すことが、この時の自分にとっては、もはや唯一の行動理念になっていた。
来店前に頭痛がする。言いようのない倦怠感を覚えた。寒気を感じることもあった。
様々な不調が、自分の身に起きるようになった。しかし、キャンセルだけは死んでもごめんだった。これ以上迷惑をかければ、今度は自分の心が壊死しかねない。そういう感覚があった。
「出勤するのが困難だが、一度出勤してしまえば何となく一日を流せるというのは、”風俗嬢あるある”なの」
そう教えてくれたコンパニオンがいた。自分もこの時、まさに
「来店までが困難だが、一度部屋に入ってしまえば、なんとか笑って過ごせる」
状態になっていた。
なんとも、皮肉な話だった。
……会っている間、ふと考える。
自分はまだいい。彼女へのかつての恋慕と、贖罪の意思が支えてくれる。彼女は清潔であるし、美麗であるし、乾いた快楽も与えてくれる。
しかし、”意に沿わない相手”との、これ以上厳しい時間を、朝から晩まで続けなくてはならないというのは……
風俗嬢というのは、どれほど心身を痛めつければならない仕事なのだろうか、と。
そして、迎えた9月末。
彼女との、別れの日が来る。
<続>
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