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面倒臭いとき

「面倒臭い」は高校生のあなたの口癖。
「やる気になったら」「気持ちが向いたら」って…。
その気持ちを分からないでもないけど「意欲」は待っていたら勝手に湧くものではないんだよね。

あなたたちは母がよくフルマラソンにチャレンジしてたのを知ってるよね。楽しそうだったでしょ?でも、実は母は長距離走が大嫌いなんだよ。

なぜ母が嫌いなマラソンを始めかというと、39歳の時に
「やったほうがいいんだろうな…と思っているのに39年もの間、手をつけなかったことは何か?」と考えたんだ。その際に出てきたことのひとつがマラソンだったから。

それまで全くチャレンジしなかったわけでもないんだけど、やってみては3日坊主の繰り返し。39年もやりたいと思いつつやらなかったということ自体、相当なエネルギーの無駄遣いでしょ。だから、そんなエネルギーの無駄遣いにいい加減区切りをつけたいと思ってね。

「嫌いなことを楽しもうキャンペーン」を自分の中でやってみた。
何かしないとエネルギーの無駄遣いは死ぬまで続くと思ったのよ。ここで出来なければ、「やりたい」とは考えないようにしようとも思った。
重い腰のまま39年も経ってしまったからこそ区切りをつけるキャンペーン。ワクワクすればどうにか乗り切れるかもしれないと、ハワイ旅行を兼ねてのホノルルマラソンを目標にした。結局、いろんなところを旅しながらのフルマラソンは楽しくてロサンゼルスや北海道、静岡に沖縄と色々行った。そのうち仲間もできて楽しさの質が変わってきた。だからって元々走ることが好きなわけじゃないから100 キロマラソンを完走して母のチャレンジは終了。区切りはついたよ。

なんて書くと、最初からスイスイやれたように感じるかもしれないけど、やり始めた当初は「なぜ、やろうなんて決めてしまったんだろう…」という後悔ばかり。雨が降ってたりすると、自分の意思に関係なく走らなくていいから最高に嬉しかったな♪
寒い冬だと布団から出ることだけで一苦労。だから、がんばって着替えたもののもう一度布団に!なんてことも1回や2回じゃない。そんな自分にがっかりよ。

誰と比べるではなく、この「現実の自分」と「嫌なことでも果敢に頑張る自分」といった理想のイメージとのギャップに人は落ち込むんだよね。
リアルな自分を許せない。そのうち現実の「だらしない自分」を見たくなくて、チャレンジそのものをやめてしまう。チャレンジしなければ「やればできるはず」といった可能性の中に居続けられるからね。

嫌いなことをやるにはね、だらしない自分を許しながら、うすーい階段を何段も何段も登るほうが結果、高いところまで登れるの。

着替えても寝てしまった自分を許す。仮に外に出れても走らない自分を許す。ほんの100m 走っただけで息が上がると「こんなんでフルマラソンとか走れるの?」と厳しい声をかけてくる自分を「まぁまぁ」となだめる。
だって、そもそも走るのは嫌いなんだから。

でも、形からは入るのは好きだからやる。
シューズやウエアー選びに始まり、走る際の音楽や距離やスピードを測定できる装備。あらゆるグッズを買い求める。そんなグッズをただただ使ってみたくて外に出る。そうこうしているうちに昨日よりもすこしだけ遠くまで走れたりするとうれしくなってくる。

何が嬉しいって本当は「ストレスに負けてない自分」に出会えたことが最高に嬉しい。決してストレスに勝ってはないんだけどね。

もう、こうなると意欲を止めるほうが難しくなるんだよね。当時、39 年生きてきて初めて長距離を走ることに意欲的な自分と出会えた。

つまり嫌なことに手をつけるには情けない自分を自分がどう取り扱うかが肝なんだよ。

母はだらしない自分を許すことで未開発だった部分の新たな自分と出会えた。嬉しかったなぁ。

まずはやると決めること。それで充分。工夫はそのあとの話。
覚悟さえ決まれば今の時代、情報はいくらでも見つかる。
しかし、決めないことには自分を攻略しようがない。

覚悟というと、大そうに聞こえるかもしれないけど
「よし!」という一声のこと。

「よし!」が出ると「じゃぁ」に繋がる。

自分を誤魔化しているのは誰にもわからないけど、自分だけは知っているんだよね。逃げてるなぁ…って。

せっかくだから、今まで誤魔化していたものをちょっとだけ見てみようよ。朝早く起きること?勉強?課題?自主練?
何でもいいのよ。まずはやると決めること。「よし!」と声に出してみること。

始めれば、始まる。
「始めない自分」より「始めた自分」の方が「こんな自分が好き」と思えるはずよ。