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ドライアイス

 マイナス79度の二酸化炭素は空気に触れると昇華され、大気中の水分を逆に凍らせながら、白い煙となる。

「なんで、まだあの男と付き合ってんの?」

 喫茶店の窓際の席、外気と室内の温度差でガラスは結露している。
 彼女には付き合って6年の彼氏がいて、向かいに座る彼女の親友は結婚して三年目だ。親友の夫は馬車馬で、ファミリーカーであり、もはやレジャーシートだ。そんな親友のことを彼女は心から尊敬し、常に正しいと思っていた。
 それでも前髪を真ん中で分け、耳のあたりから鎖骨まで緩く巻いたセミロングは未だに変えられず、すっぴんの方が可愛いねと褒められた時のナチュラルメイクも毎日精密に再現し続けている。彼女の普遍さは最早、国民的女優並みに徹底されている。
 そんな彼女の彼氏が、先週付き合ってから3回目の浮気をした。
 ホテルに入っていく浮気相手がボブヘアーで、パーカーやバギーパンツの似合う女なら、まだ理解できたと彼女は言う。だが、彼の右腕に絡みつく女は彼女によく似ていたのだ。それは彼女にとって猶予であり、絶望でもあった。

「わたしのどこが好き?」

 そう聞いてくる女を彼は軽蔑している。彼はまだ独り立ちしていないフォトグラファーで、世間に対しての波及力や、実力こそないが、自分が特別だという自意識は森山大道が切り取りそうな鉄塔のように勃っている。
 彼は魅力や価値を他人に委ね、社交辞令で言われた可愛いや、綺麗という言葉で自己を保とうとする女が嫌いだった。
 だが、彼女は付き合いはじめてから禁句を1度も口にしなかった。彼はその点に関して彼女を評価している。だが、別にそれだけで、彼女も大概、健気で退屈な女であることには変わらなかった。

 カメラを手に昼過ぎの商店街通りを歩いていた時、彼は彼女に出逢った。
 季節は秋で、彼女は白衣の上に黒のカシミヤのカーディガンを羽織っていて、肉屋の前においてあるベンチの端に座り、メンチカツを頬張っていた。口が大きく開いて、メンチカツを頬張る彼女の姿が無邪気に見えた。
 彼は思わずレンズを覗き、瞬きをするようにシャッターを切った。すると彼女が彼に気づいて、何となく話さないといけなくなったため、天気の話をした。
 それから彼は気になると肉屋の前のベンチを覗いた。彼女はいつも寒さで身体を丸めながら、暖を取るように両手でメンチカツを大事そうに持ち、頬張っていた。
 レンズ越しに見た彼女は得難い幸せを噛みしめているように見えて、リスみたいな人だな、と彼は思った。
 それから彼は二、三点容姿を褒め、自宅に招き入れると、彼女が自宅に通うようになった。
 そのうち彼は、自分の顎の下ぐらいに収まる身長を愛でるようになり、汗ばんで震えている華奢な喉にかき立てられ、彼女の旋毛から爪先まで自分のものにしたくなった。
 久々に彼は恋をしていた。
 持続こそしなかったが、それでも彼にとっては、それなりに新鮮だった。

「あなた達、なんだかんだあったけど、案外いい夫婦になりそうね」

 夕暮れ時、買い物から帰ってきた彼は、マンションの守衛の女性から声を掛けられた。
 五十代ぐらいの壮年女性で、太ったハゼのような顔をしていて、勤続歴は長い。そのため、それなりに二人のことも傍観し続けてきている。
 感謝を告げ、頭を下げる現在の彼の自意識は等身大程に縮んだ。
 彼は今、自分が住んでいる町のタウン誌で地元民が通う喫茶店の内装、マスターや、名物のカラメルプリンを撮りながら生計を立てている。
 来年には、有楽町のギャラリーで個展が決まっており、夜は作品の編集や、撮影を行っている。
 夜撮りばかりしていたが、いつの間にか夕暮れを眺めていると、少し物悲しくなり、昼過ぎの公園に行くと自然とシャッターを切るような感性になっていた。
 右肩に掛かるエコバッグからは葱が飛び出ている。
 グループ展で一緒になった友人の個展にふたりで寄った帰り、海が一望できる公園があった。そこで彼は彼女にプロポーズをした。はめた指輪の号数は彼女の薬指より一回り大きく、薬指用の指輪は中指に移動した。彼女は笑っていた。
 彼女の笑顔は筑前煮のように素朴だった。そんな笑顔が今の彼にとっては、
 そんな素朴さこそが魅力だと彼は思っている。
 どんなに自分がぞんざいに扱おうとも、彼女だけは傍にいてくれ、どんな時間でも電話に出てくれた。
 これ以上の人はもう現れない。
 そう思っていた。

 枕元のデジタル時計は5時40分を報せていた。
 背中に肌寒さを感じ、窓の方を見るとベランダに彼女がいた。室外機の前に置いてある木椅子に座って彼女は明けていく空を見上げている。
 真っ白なスウェットが薄っすらと浅葱色に染まっていた。彼もベランダへ出た。
 使っていなかった灰皿から白煙が昇る、というより湧いているように見える。
 それは昨日買った冷凍食品についてきたドライアイスだった。彼は昔、よく水の張った容器にドライアイスを入れて遊んでいたなと懐かしみながら彼女の肩に手をかけた。
 俯いているため横顔は見えず、彼は彼女の前髪を耳にかけた。彼女は白煙を吐き出し続けるドライアイスを見ている。グラビアの撮影でグアムに行った帰りに買ったサンダルから出た指先は白い。
 中に入ろうと彼が声をかけようとして、彼女が先に口を開いたので譲った。

「わたしね、私を好きじゃなかった時のあなたの方が好きだったんだ」

 彼はドライアイスを目で追う。
 ドライアイスは灰皿の表面を滑り、出鱈目に移動しながら、固まった二酸化炭素を大気中に吐き出し続ける。その様子がどこにいっても文句を言ってばかりで、二人で出掛けても、喫煙所探しに躍起になっている自分そっくりだと彼は思った。
 彼女が立ち上がった。そしてベランダの窓を閉め、鍵をかける。
 彼はロクでもない男だった。
 だが彼女にとっては、それでよかったのだ。
 今の彼は献身からくるやさしさを持っている。だが、以前の彼は優しさの皮をはぐと欲望が必ずあった。どうしようもなく求められると堪らなく気持ちが良かった。
 彼女は親友に慰められる時間が好きだった。浮気を許した晩、やたらと温もりを求めてくる彼が愛らしかった。
 彼女は彼に変わって欲しくなかった。
 ずるい男として絶えず自分を弄んでほしかったのだ。

 彼は結露した窓に手を押し当てた。

 身勝手な人間が愛した相手もまた、身勝手な人間だった。

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