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エイプ! エスケープ! エイプ!

2023/11/17 21:00
[From] yanagi sawa
[Sub] Re:Re:「この庭から、星へ」


0.

 生まれた時から土踏まずがない彼は幼い頃、かけっこが嫌いだった。
 走るのは疲れる。歩けばいいのに。
 そう思っていた彼は、足の速い同級生を皆、カッコつけと決めつけ、オッフェンバック作曲の天国と地獄を心底嫌った。さらに、その人間の内面がどれだけ優しく、立派だとしても、リレー選手に立候補した人間との会話を顕著に避けた。

 そんな彼は、今、全速力で山道を下っている。

 どれだけ下ったのだろうかと思案する暇もない。靴裏越しにアスファルトを掴んでは蹴る。前に足を振り出す。一連の動作を繰り返し、繰り返させていく。
 疲労で姿勢も、フォームも崩れており、実に無様な走り姿だが、彼は山を下っていく。足を着くだけで踵に激痛が走り、膝にも響く。それでも走る。
 足がもつれ始めた頃、右足の小指が異常に熱く、おそらく出血しているのだろうと思ったが、もちろん立ち止まっている余裕などなく彼は走る。走る。

 走るのが大嫌いな彼が何故、必死に走っているのか。

 それはひとえに、生きるためだった。
 生き存えるためだった。
 彼には初めて抱いた夢があったのだ。
 それは彼にとって何よりも尊いものだった。

 であれば、何が彼の生命を脅かすのか。

 それは、彼を今、追いかけている。
 雄叫びをあげながら彼を追うのは、森の獣だった。




1.

 ギネス記録保持者、スルタン・コーセンの身長は2m51cmだ。トルコで兼業農家をしている彼は脳下垂体から成長ホルモンが過剰分泌される「下垂体性巨人症」が原因で、サッカーゴールを超す身長にまで達した。
 だが、森の獣の身長は3mを超す。自動販売機の高さが獣の腰丈くらいだ。もはやそれは人間ではない。顔貌からしても猿に近くもっといえばにオランウータンだ。
 赤茶の毛を持つ3m級のオランウータンを想像してほしい。そんな化け物に遭遇し、追いかけられれば、逃げるしかないだろう。
 ちなみに彼の身長は1m69cmだ。後輩には1m70cmと見栄を張っている。そんな嘘が起因だとしたら、代償があまりにも大きすぎやしないだろうか。
 そんなのあんまりだ! と思いながらも、彼は山を駆け降りていく。

 だが、森の獣の身体能力は人智を越える。
 獣は体勢を落とし、四足歩行で彼を追い始めた。するとすぐに差が縮む。二輪駆動と四輪駆動では馬力も速度も違う。当然、数秒もかからないうちに獣は彼の真後ろにまで近づいた。
 そして獣は跳んだ。高さ3mの獣が全力で跳んだ。その跳躍力で獣はすぐに彼に追いつき、空中で頭上を追い越し、目の前に着地した。
 2度目の遭遇に彼は慄き、回転させ続けていた足を止めようとしたが、失敗した。勢いを殺せないまま、彼の身体は前へ飛ぶ。宙を舞う。真っ直ぐな山道。彼の軌道もまた、真っ直ぐに獣へと向かう。そして彼は獣にキャッチされた。

 霧がかった明け方の山中に弱い雨が降り出す。
 むせかえるような獣臭で彼が胸から顔を上げると岩のように大きいオランウータンの頭部が眼前にあった。まるで傘のように視界を覆う獣は彼を見ている。真っ黒で澄んでいる瞳に自分の姿が映り、彼は悟る。

 あ、終わった、と。

 彼は獣に顔を覗き込まれながら、気を失った。

2.

 誰も歩いていない明け方の山中を獣が行く。彼を抱きかかえた獣は山道から外れ、藪を掻き分け山を登っていく。
 さっきよりも雨脚が強まり、気温は4度。彼の頬は真っ白に染まり、上下セットアップのスーツは雨雫を含んで重くなり、彼の体を冷やしていく。  
 刻々と冷気が生気を奪っていく中、一方、森の獣は踊り出したくなるほど浮かれていた。

 森の獣は自分がいつ生まれて、なぜ生まれたのかわかっておらず、どんなに遡ったとしても山中にいた記憶しかなかった。
 獣はこの山の中で一人で暮らしていて、現代人とまではいかないが、原人程度の知能を持っていたため、兎を罠に引っ掛け、捌き、火を起こし、焼くことができ、暮らすには困らなかった。

 冬の晩、あまりにも壮大な星空に感動し、森の獣はこの景色を誰かと分かち合いたいと思いながら、割った薪を炎に焚べていた。

 すると、一匹の狼が現れた。

 狼の足取りは不確かで、傷のせいで目も殆ど見えていなく、その存在に気づいて近づくと、ひとりでに狼は右へ倒れた。
 何が起きたのか理解できず、森の獣は倒れた狼の匂いを嗅いだ。饐えた血の臭いがした。饐えた息を短く吐いて狼は動かなくなった。
 森の獣は狼の傍で夜空を仰いだ。
 相変わらず、満天の星空は眺めていると吸い込まれてしまいそうな感覚があった。

 それから、森の獣は他生物に興味を持つようになった。
 今までは食料としか思えなかった兎も、なんとなく殺しづらくなり、捨てられた廃材でカゴを作り、一匹飼育してみたが、その種が何を食べて生きているのかわからず、三日も経たないうちに亡き骸になった。

 そこから森の獣は、魚を食べるようになった。
 すると、今度は狐の親子がやってきた。森の獣は彼らを驚かさないよう、ゆっくりと振り向き、焼けた鱒が刺さった串を狐の親子の前に置いた。すると、親狐の方がまず匂いを嗅ぎ、離れると子狐が鱒の腹に齧り付いた。小さな歯で齧り付く姿を見て、森の獣は感動した。
 もう一匹、鱒を目の前に置くと今度は親狐が食べ始めた。それを見て、串を手に取り、森の獣も食べ始めた。
 火を囲うように刺さっている串の数は全部で16本。朝食の分も考慮しての数だが、森の獣は親子狐が食べ終えるまで焼き鱒を食らい続け、無くなってしまった。
 その日は山らしい天気だった。それでも彼らとの食事は、満天の星空の感動を超えた。

 森の獣は、多生物とのコミュニケーションに飢えていた。
 そんなこともしらず、大樹の幹の硬さを感じた彼はやっと目を覚ました。

3.

 跳ね起きた彼は、額に銃口を押し付けられる夢を見ていた。

 吐く息が白く、寒さが骨にまで達している。彼は自分の指先を見ると、抑え込めないほど震え、真っ白だった。
 大樹の葉から落ちた雨雫が彼の旋毛に落ちる。ひぇあと声をあげそうになったが彼は口を噤んだ。なぜなら、数m先に肩を埋め、背を丸めた巨大な影がいるからだ。

 洞窟の側で、森の獣は火に薪をくべている。雨の湿気を含んだ枝が燃え、中の湿気が破裂してパチパチと音が鳴っている。森の獣は寒いのか、両掌を炎の前にかざして暖をとっている。
 目を覚ましてから彼は考え続けていた。
 今、なぜ自分は生かされているのか、どうやって逃げようかを考えていた。だが彼は大樹の幹に背を預けたまま、両足を広げ、人形のように静止しているしかなかった。
 シミュレーションを行うには、あまりにもそれの大きさは規格外だ。
 そもそも彼は賢いわけでも、勘が特別鋭いわけでもない。
 幼い頃、彼はかけっこ以外に大嫌いなものがあった。それは九九だ。彼は中学に上がってもまだ、7の段から怪しげになり、笑いながら誤魔化していた。今は流石に言えるようになったが、小数点が計算に関わってくると、途端に発狂してしまいそうになる程、頭が悪い。
 知能指数で比べれば、二人は同列か、もはや、森の獣の方が賢いかもしれない。

 物音に気付き、森の獣が振り返る。彼と目が合うと獣は立ち上がった。そして彼へ近づいてくる。

 二足歩行の生物に遭遇するのは初めてだ。獣の心は踊る。

 そうだ。死んだフリだ。
 兄貴も言っていた。
 とにかく死んだフリ・・・

 どうやればいいんだよ!

 と、思いながら顔を顰めた。彼の顔も、瞼も小刻みに震えていた。
 目の前が真っ暗になり、重たい足音だけがゆっくりと近づいていく。それはそれで恐怖であり、彼は目を瞑ったことを早速、後悔しながらも目を開けずに待つ。
 一方、森の獣は親子狐に近づいたときと同様、ゆっくりと、恐れられないようにゆっくりと、あくまで自然に、親しげにと意識しながら近づいていく。
 獣の臭いがだんだんと彼に近づく。目を瞑っている彼は、そうしているが故に、森の獣の実際の体躯がわからない。恐怖のせいで彼の中で森の獣の身体がどんどんと大きくなっていく。足首に生暖かい息がかかる。膝が震え、後退りしようとしたが、もう手遅れだ。

 森の獣は彼の匂いを嗅いでいた。
 以前、川の下流に向かってひたすら歩いていたとき、野犬同士が互いの尻の匂いを嗅いでいたのを眺めながら、あれは彼らなりの挨拶なのだろうと考え、森の獣は今、その挨拶を実践しているのだ。
 一方、彼は自分が食されることを前提に獣の行動原理を考えていた。試行の結果、彼は、腐っていないか確認しているのだろうという結論に達する。
 彼は消費期限の切れた肉を食べられるかどうか、匂いを嗅いで判断する癖がある。消費期限を過ぎているため、その判断基準は結局はあてにならず、時折トイレから出れなくなることもあるが、その経験則から彼は鮮度チェックを行っているのだろうと考え、慄いた。

 森の獣に足首を掴まれた彼はそのまま宙吊りになる。
 彼は頭から丸呑みされる自分を想像した。
 そして、その前に暴れてやろうと思ったが、両足首を掴んでいる握力が、人間の力ではなく、もう抵抗しても無駄だろうと思ってしまった。

 彼の頭の中に走馬灯が流れる。

 体を折り曲げて眠らないとならない程に狭い二段ベッドと名簿。怒号。
 これは、罰だ。
 そう思った彼は半生を反省した。だがその時は訪れず、尻のあたりに生温かい空気を感じた。

 暗闇の中で小刻みに呼吸音だけが聞こえている。彼は尻を嗅がれていた。

 森の獣がそうしているのは野犬同士の挨拶を真似ているだけだ。森の獣は良いコミュニケーションを行うにはまず、相手を敬うことから始めなくてはならないと思っていためまずは挨拶から入りたかった。だが、彼はそこまで食材を入念にチェックするのかと、驚愕している。

 宙ぶらりんになっていた身体が雑に降ろされる。彼はもう、訳が分からなかった。そのため彼は、一度だけ、薄目で、目を開けてみようと思った。

 眼前には森の獣の肛門があった。

 少し湿気を含んだ赤茶の毛が周りに生えており、茶色なのか灰色なのか形容できない皮膚と、真ん中にその栓はある。彼は訳もわからず必死に後退りをする、森の獣は彼に肛門を向けたまま追いかける。
 逃げる彼と追う肛門。
 彼は生存本能、森の獣は真摯な気持ち。
 両者とも共通するのは純粋な意志を持っているということだ。

 彼の掌は血だらけだった。傷口ができた側から砂利が入る。それでも彼は必死で肛門から逃げる。こんな時に限って、頭の中ではオッフェンバックの天国と地獄が流れる。どちらかといえば断然、地獄だ。
 乱立する木々の中で後ろも見ずに後ずさっていた彼は幹に後頭部を激突させた。
 もう、成す術がなかった。
 潔く、彼は肛門を受け入れる。頭部が森の獣の尻に埋まった。

4.

 彼には7歳下の妹がいる。現在、彼は27歳のため、妹は20歳だ。
 彼の妹は、彼と違い小学1年の段階で九九が9の段までつっかえずに言えた。それだけでなく、中学の段階で高校の数学を塾で習っており、頭の出来は雲泥の差だった。そんな妹が彼にとって誇りだった。
 だからこそ、地元の農業高校に当時付き合っていた彼女が在籍していたが、彼は食品工場に就職した。
 なぜ、彼の家はそれほど貧しかったのか。
 それは、彼の父親のせいだった。

 彼の父親は医療機器メーカーの営業マンだった。人付き合いがよく、勤勉な父親は成績が常に優秀で、その成績に甘んじることなく、粛々と働いた。
 だが、働き過ぎたせいか胃に穴が空いてしまった。それでも彼の父親は休めなかった。休みたくなかった。なぜなら、幾つも系列病院のパイプを持っている大病院との交渉が待っていたからだ。
 俺には中学に上がった息子がいる。小学校に上がった娘がいる。妻がいる。守るべき家族がいる。
 それでも痛みには耐えられず、二週間入院し、彼の父親は現場に復帰した。
 すると、彼の父親が座る椅子は、もうなかった。厳密に言えばオフィスの端に事務作業机はあるが、そこへ座っても彼は社員から認識されなくなってしまった。
 そこからでも彼は争った。
 だが、そんな日々の中で悟ってしまったのだ。

 たとえ、今まで真面目にやってきたとしても、
 会社が求めているのは過程ではなく、結果だ。
 もっといえば、金だ、と。 

 そして、彼の父親は退職願を出した翌日、取引先の院長のスキャンダルを全て週刊誌に売って、自分が契約を結ぶはずだった大病院の屋上から飛び降り、死んだ。

 彼の父親が持ち込んだスキャンダルがきっかけで、いくつかの病院が潰れた。だが、政財界にコネクションを多く持つ病院が訴訟を起こしたことにより、損害賠償請求が彼や彼の母親に降りかかった。
 不当な請求に彼の母親は裁判を起こしたが、弁護団の壁は厚かった。再審するにも資金がなく、こうして彼と彼の母親は、多少減額されたが父親の負債を背負うことになった。
 あいつの父ちゃん、自殺したらしいぜ。
 そう、噂される日常生活の中で彼を労ってくれたのは二歳上の従兄弟の姉だった。彼女の献身のおかげで彼は不登校にもならず卒業できた。それでも、彼は彼女が待つ高校へ進学できなかった。

 全部が捻じ曲がった。
 彼の中にそんな感覚が芽生えた。

 それでも彼は、家族の生活のために、妹の学費のために働いた。
 ドベだ。バカだ。と罵られようとも働いた。シフトだけはたくさん入れられたので、班長にはよく気に入られた。それがさらに同僚から受ける暴言、暴力を増長させた。それでも彼は働いた。

 だが、ある時、彼女の浮気が発覚した。
 ガラス窓をハンマーで割り、飛び込んだリビングにあった写真立てには四人家族が身を寄せ合い笑う姿が飾ってあった。男は既婚者だった。リビングに置いてあるということは、彼女は男の境遇を知った上で交際しているということだ。
 寝室へ向かうと男に縋る裸の彼女がいた。
 彼は男を少しだけ痛ぶり、彼女に近づくなと言いたかっただけだった。だが、彼女がいたのだ。そして押し入った自分を見て、目出し帽を外してもなお、彼女は男の身体に縋っていた。
 彼は男の部屋にあった液晶テレビを持ち上げ、そのまま投げつけた。そこからは彼もいまだにはっきりと思い出せないでいる。
 頭痛が止み、見渡してみると、散乱した部屋の中で、彼女が頭から血を流して倒れているのが見えた。怖くなった彼は逃げ出した。

 そこから彼は、他人と心を通わす事をやめた。

 それでも、父親の負債の支払いと、妹の学費、諸々の生活費は月々、のしかかってくる。男を半殺しにした翌朝、退職願を社長の顔に思い切り貼り付けてしまったため、仕事がなかった。そんな時に彼はバイクを通じて知り合った友達から、暴力団員にならないかと誘われた。

 幾つか金払いの良い仕事をもらい、やってみると、あっという間に今月分の支払い額に達した。一気に働くのが馬鹿らしくなった。

 振られる仕事の内容のほとんどは喧嘩だった。だが彼の身体は細い。そのため彼はない頭を捻りに捻った。なぜなら、考えなければ殺されてしまうからだ。組の人間が使えない駒を容赦なく捨てていくことを、彼は最初の仕事で見ていた。
 殴打が通じなければ、獲物を使った。獲物が使えなければ、火炎放射器で焼いた。彼は自分が生きるために人の命を否定することを厭わなかった。むしろ進んで行った。
 痩せていて頭が悪そうな第一印象を抱かれるため、敵は常に油断した状態で彼の懐に入ってくる。所詮、初見殺しだが、彼はその策を使いここまで生き延びてきた。

 こうして彼は母親には悟られず負債分を完済し、やがて妹は研究職についた。成果とともに風俗街のひと区画を任されるようになると、彼は母親に車を買い、妹には限定20品しか出ていないシリアルナンバー付きのブランドバッグを送った。
 だが暴力団に入ると決めたその日から、彼は実家に一度も帰っていなかった。

5.

 ぼやけた視界から森の獣の尻が遠ざかっていくのを眺めながら、彼は尻のポケットを探った。指先に当たったのは、封の切られていない少し潰れたピースの箱だった。もうこれ以上、焦っても仕方がなく、どうせ死ぬのならせめて一服がしたいと思ったのだ。
 彼はビニールのフィルムを剥がし、1本摘んで、咥える。そこで彼は気づく。

 火がない、と。

 立ち上がると、頭部の右側に激痛が走り、一瞬よろけたが、彼は点いていないタバコを咥えていることも忘れ、歩き始めた。森の獣はその前を歩く。理解するのをやめた彼は改めて足跡の大きさに気味悪がりつつも、ついていった。
 森の獣はやっと挨拶を済ませたのだから次は住処を紹介しようと張り切っていた。猿型の獣のため、木の実などを取る際に鳥の巣をいくつも見てきたが、獣は自分の住処を多生物に見せたことがなかった。

 こうして、森の獣によるルームツアーが始まる。森の獣の住処は雨風が凌げる洞窟を中心にしている。人間の尺度でいえば寝室兼、リビングだ。そしてキッチンもとい、薪の焚べどころはオープン型で、開放的なスペースとなっている。
 訳もわからず彼は、森の獣に身振り手振りで住処を紹介される。彼は生返事をしたり、それなりに感嘆してみたりしながらルームツアーに付き合う。

 彼は森の獣の住処を見渡し、
 火、あるじゃんと、思った。

 切り落とされた大木が四角形に囲う炎に湿気った枝を焚べると火の粉が舞う。
 少し尻込みしながら、下顎をしゃくらせながら、揺れる炎にタバコの先を掠めて火をつける。見開いていた目は乾燥し、瞑りながら大きく吸い込むと煙が空の体内に流れ込んでいくのがわかった。息を吐くと再び身体が伽藍の道になる。
 いつこの化け物に殺されてもおかしくないくせにタバコは美味いのか、そんな新発見を口に出さず、胸に秘めながら1本吸い終わり、もう1本取り出す。渇きを潤すようにニコチンとタールを吸う。今度はさっきよりも短い時間で火をつけられた。

 そんな彼を森の獣は見つめている。炎を挟んで向かい側にしゃがみ、両膝の上に両肘を置き、手のひらを下顎の置き場にして、まるで乙女のような視線を送る。
 気味悪がりながらも、3本目が、4本目になり、5本目になる。
 朝方の雨模様が嘘のように晴れており、風だけが少し強い。頭上で揺れる大樹の枝葉のさざめきを聴き、樹の肌を登っていく黒蟻の行く末をただ眺める。 
 ほぼ無意識で、彼は葉の隙間から覗く太陽に向かって手を伸ばしていた。その動きを森の獣も真似る。

 二人はまるで祈りを捧げるように天を仰ぎ、隙間から降り注ぐ陽光を浴びる。

 森の獣が自分を真似ていることに彼は気づいたが、否定する気にはなれなかった。なぜかその瞬間、あれだけ脅威と感じていた存在が、まるで旧知の友人のように感じた。

 彼は涙を流していた。
 彼の視界に映る光はゆらめき、煌めいている。今の彼にとってそれは唯々、ひたすらに、眩しかった。
 彼と獣は本当に久々に、誰かと意志を通わせていた。

 その時、遠くで銃声が鳴った。

6.

 関東連合会の傘下にある「山谷組」は鶯谷を拠点に活動している暴力団組織だ。
 そこで彼がちょうど風俗街のひと区画を任された時、初めて舎弟ができた。彼も相当阿呆だと自覚していたが、その舎弟、ドンピンは輪をかけて阿呆で、そもそも日本人ではなかった。
 ミャンマー人のドンピンは故郷で暮らしていたのだが、生活が苦しく、夢と金を掴みに日本へやってきた。
 そこでドンピンを待っていたのは過重労働と低待遇だった。そして、ドンピンは裏バイトで何件か強盗の手伝いをし、そこから山谷組へ入った。

 とにかく、ビックになりたいと四六時中言い回っており、歌舞伎町を通るバイト斡旋のトラックの如く五月蝿く、彼は手を焼いた。

 新人はまず、独居老人の名簿リストの上から順に電話をかけ続け、振り込め詐欺に引っ掛ける。通称、掛け子を覚えさせられる。だが、ドンピンは日本人でないため、どうしても不自然に鈍ってしまう。当然、ドンピンは掛け子に課されたノルマを達成できず、その責は彼に求められた。
 彼はドンピンを叱り、殴った。電話に失敗すると椅子の背を容赦なく蹴った。そうでもしないと上に示しがつかないからだ。

 彼は他人の命がどうなろうが全く構わないと思って生きてきた。だが、一度家族になってしまえば情が湧いてしまう性格をしていた。そのため、躾をし終えて部屋に返すとひっそり新人の相部屋を開けてはドンピンの姿を窺った。ドンピンの身長は180cmだ。新人の部屋の二段ベッドには収まりきらず、窮屈そうに体を折り曲げ、眠っていた。

 俺が、どうにかしてやると彼は思った。

 ある時、彼はドンピンの顔面を机に押し付けながら、自分は何をやっているのだろうと思った。思ってしまった。
 その違和感に気づいた時、一瞬だけ父親が病院の屋上に一人で立っている姿が浮かんだ。目撃してもいないがやけに鮮明に浮かんだ。

 そんな時、彼の元に幹部に上がれる好機がやってきた。上野で勢力を伸ばしつつある、組織の幹部を一人殺して欲しいという命令だった。
 彼は標的の行動パターンなどを懸命にノートにまとめて、組の幹部に連絡し、定めた決行日まで四日間あった。

 彼はその時矛盾を抱えていた。
 ドンピンや、家族を大切に思う自分と、他人の命を容易く握り潰せる自分。両者は今更になって混ざり合おうとしていて、そうなってくると家族と他人が同列の命となってしまう。つまり、彼は今更、他人の命を奪うのに怖気付いていた。

 決行日の前日、彼の手に組から、50万が手渡された。
 幹部を銃殺した後、彼は刑務所に送られる。そして出所後、幹部の椅子に座る手筈になっているため、ソレは今のうちに娑婆の空気を堪能しておけという意味の50万だった。
 だが、分厚い封筒を幹部から貰い、握った瞬間、彼の頭の中に過ったのは、幼い頃の夢だった。
 決行は明朝の5時だったが、彼はもう夜を迎えた段階で高速に乗っていた。そして深夜、峠道を登り切り、道の駅にレンタカーとスマートフォンを捨てて、山中に入ると森の獣と遭遇したのだ。

7.

 雷が落ちるように銃声が近づいたり、遠かったりしている。
 森の獣は聞いたことのない音に驚き、すぐに拳をついて臨戦体制に入る。獣は周囲を見回しながら気配を探る。歯を剥き出している獣のそばで彼は一服を続ける。

 レンタカーこそ足がつかないが、スマートフォンにはGPSが仕込まれているのを彼はすっかり忘れていたのだ。つまり彼がいなくなった地点、この山にいるということはもう、組織側にバレていた。
 痛恨すぎる凡ミスだ。
 俺らしいなと思いながら、彼は炎に吸い殻を焚べた。短くなったタバコは無音で塵になった。

 彼はゆっくり立ち上がると、森の獣が振り返る。彼は獣に近づき、抱き抱えるように頭を両掌で挟んだ。彼が地面に向かって力を込めると森の獣は体勢が落とすと、彼の額と森の獣の額が同じ位置になった。
 彼は自分の額を、森の獣の額につけた。
 森の獣の頭の中には、自分を見つめ続けながら倒れていく狼が浮かんでいた。

 わからない。
 わからないが、これが別れなのだろうかと森の獣は思った。

 それから彼は銃声が鳴り響いていた方へ走っていた。

8.

 夜になり、山道の真ん中で2トントラックのライトがつく。照らされる黒い物体は、簀巻きにされた彼だ。

 鼻は根本から曲がり、前歯が殆どなく、顔は血と傷で覆われている。身体の方がどうなっているのかなんて、想像もしたくない。

 しゃがんだ組織の幹部の一人が、彼の頬を何度も叩く。5回ほど叩き、3回ほど腹に蹴りを入れたところで、彼の意識がやっと覚醒する。
 顔とも呼べない顔を覗き込みながら組織の幹部は、なぜこんな事をしでかしたのかと問う。
 が、彼は口を噤んでいる。
 合図とともに、2トントラックがゆっくりと動き出す。無音の鉄塊が近づく。簀巻きにされた彼の頭に右足を置いたままの幹部が眩いライトに照らされ、片目を瞑る。
 彼の左の尻ポケットには一本だけ残っているピースが入っていて、右の尻ポケットには残金の49万5000円がある。
 男は簀巻き状態の彼を解放してやった。糸の切れた操り人形はアスファルトに大の字になる。

 男を見つめながら、彼は儚い夢を告げる。

「俺、ジャズピアニストになりたかったんすよ」

 彼の指は完全に、全て、折れていた。

 アップライトピアノの鍵盤の上で偶然、重なった真っ白な手と恥ずかしそうな笑顔を、彼は無い歯で噛み締めた。
 口から血が溢れ、その血でうがいをしている。身体は音を立てて、確実に軋み、潰れていった。



process

今回は・・・

「言葉以外のコミュニケーションでやりとりする2人。2人の間には会話・文字無し、とにかくちょっとしたやり取りにもなんが生じる2人」

というお題でした。

お題をいただいた時から、どちらか一方だけ一番最後に喋らせようと決めていて、そのセリフが決まってから書き始めました。
やりがいのあるお題でした。
躓くと「とにかくこのラストシーンを書くんだ」と、自分を鼓舞しながらやってました。本当にやりがいのあるお題でした。楽しかったです。


person




「あなたのために、物語書きます。」

オーダメイド型のショートストーリー作っています。
リクエストお待ちしております。

⬇︎


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