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タイム・ウィル・テル

 マスクをして出掛けることが、すっかり当たり前になった。
 政府は屋外であればマスクをとってもいいと言っていたが、街行く人々は今日もマスクをして職場や学校へ向かっている。
 テレビコマーシャルでも、ドラマでも、マスクをしている描写が増え続けている。そんな生活様式は今、ニュースタンダードと呼称され、日常として受け入れられ始めている。

「だからトイレは座ってしてって、何回も言ってるよね」

 年明け一発目にした妻との口喧嘩を、彼は職場の最寄り駅の改札を抜けながら思い出す。
 定期が切れていたことを忘れていたせいで、ICカードの検知部が赤く光り、警告音とともに通勤ラッシュが滞った。
 最悪な仕事始めだ。
 そう思いながら、彼は後ろの人々に頭を何度も下げ、横にずれて駅員に運賃を支払うと会社へ向かった。

「もう、がんばるのやめよ。二人で家族。それでいいじゃんか」

 去年の聖夜の晩、いつもよりこだわって飾り付けた部屋で彼女は夫にそう言われた。
 ベッドの脇にはそこそこ高かったもみの木が飾ってある。部屋の中の凍てついた空気を気にすることなく、もみの木に飾られたオーナメントはイルミネーションの光を受けて煌びやかに点滅している。
 彼女はそれでも夫の股間に掌を当てがった。
 あたし、馬鹿じゃんと思った。
 彼女の掌を夫は優しく振り払い、ベッド脇の間接照明を消した。
 結婚してから約三年半、彼女は夫と性行為をしていなかった。ほかに魅力的な女がいるならば、まだ体を蝕むような失意も底に辿り着いただろう。
 だが、彼女の夫はマメに連絡をしてくるタイプで、仕事が終わるとすぐに家に帰ってくる。結婚して半年が過ぎた頃、彼女は一応探偵を雇い、夫の身辺調査を依頼した。そして病気を疑ってお互いに診断も受けた。
 結果は夫の身の回りも、互いの身体も正常。それでも、彼女の夫は勃たなかった。

「味噌汁作るけど、キャベツと白菜どっちがいい?」

 喧嘩した日の晩こそ、互いに言数の少ない食卓となったが、一晩寝れば互いの機嫌は持ち直しているものだ。
 付き合った当初のように仲直りしようという言葉を交わすことはない。憤りも、後悔も、全ては時の経過とともに薄れていく。そして良きタイミングで、どちらかが相手に喋りかければ、また夫婦の会話が平常運転を再開する。
 彼は妻の一言に対して、歯を磨きながらキャベツを指差す。再び洗面所に戻り、口をゆすいでいると、まな板の上でキャベツが刻まれているのがわかった。
 リビングに戻ると彼の妻がキッチンに立っている。曲の入り前にドラマーがカウントしているように、まな板の上から食卓への助走が響いていて、妻が開けた炊飯器から白米の微かな甘い香りがして、彼の鼻先をくすぐった。

「会社の先輩が飼っている大きい犬がさ、子供を沢山産んだらしくてさ、」

 味噌汁を啜りながら彼女の夫は言う。
 食べるか喋るかどっちかにしなよ。という言葉が出掛けたが、彼女は味噌汁と一緒に火種を飲み込んだ。

 親の期待に対して、二人は今すぐ応えられない。互いの関係性にもはっきりとした答えも出ない。それでも彼は彼女に、彼女は彼に、歩み寄ろうとしている。

 実態の見えない問題は時に委ねてしまおう。
 二人の中にそんな暢気な想いが、産声を上げた。

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