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『omm...』

 指先で何の感慨もないまま、呟いた言葉があるとする。それはどこかの誰かの共感を誘い、本人が想定していない規模の人数を巻き込んだりする。だが、真摯に考え、なるべく相手が傷つかないようにラッピングし、贈った言葉に限って、当人には届かなかったりもする。
 そんな経験があったからこそ、彼は彼女に、なるべく剥きだしの言葉を、脊髄の段階で掬い取った言葉を、躊躇なくぶつけてやりたかった。

「コンポタだろ?」
 彼女が黙って頷く。

 無人駅のホームで彼と彼女は二両しかない私鉄を待っている。
 傘を差そうかどうか迷う小雨が降っていて、彼が履いてきたスニーカーのつま先は濡れていて、彼女が引いてきたキャリーバッグの取っ手に細かい水滴がついている。触るとしんと冷たい。電車の到着までは、後、二十五分もある。
 駅前の駐車場には、彼が祖父から借りてきた軽トラックが停まっている。
 彼女が帰省していたことを知ったのは今朝で、知る前の彼は家から全く出ずに、ビールでも飲みながら炬燵を出してうたた寝する予定だった。そんな彼を動かした理由は、駐車場の料金が30分以内なら無料であることと、幼馴染がやはり心配だったからだ。

 彼女が小学五年生の頃、父親の浮気が原因で両親が離婚した。以来、彼女は母に育てられてきた。そんな時、父親の転勤で彼が彼女のクラスに転入してきた。
 小学六年というタイミングで転入してきた男子生徒と、周りが多感な時期に片親になった女子生徒。
 居場所がないのは彼や彼女だけでなく、親も一緒で、まずは互いの母親同士が仲良くなった。それから彼と彼女の仲も深まっていき、周りにはカップルだと囃し立てられた時もあった。
 だが、ふざけて唇を重ねた瞬間の後、お互いに顔を見合って、どうにも居た堪れなくなって笑った放課後、二人の中でコイツとはそうじゃないんだなという共通認識が生まれた。それでも大切な人であることは変わらず、彼と彼女は互いの存在を、恋人を越えた拠り所とした。

 それから彼は地元の大学に進み、彼女は都内の大学に進んだ。彼にはやがて彼女ができ、彼女はやがて都会に魅了されていった。
 活発で足が速く、モテそうな小学生男児みたいだった彼女が少しずつ変貌していく。ネオンライトや屋外広告の光を受けた彼女は熱帯魚のように夜を泳ぐようになり、あっという間に男に捕まった彼女は狭い水槽で飼われ始めた。
 彼はその様子をSNSで見かけた時、彼女に忠告した。だが、彼女は無視した。彼女が大人げない対応をしたのは、まだ学生だからということもあったが、それよりも、彼の前なら大人として振舞わなくてもよかったからだろう。だが、それが仇となり、二人は半年間連絡を取らなくなった。
 大学二年の秋の終わり、突然かかってきた電話に出ると、彼女は泣いていて、彼は初めて東京に行った。彼女は付き合っていた彼氏から言葉で殴られ、心身ともに病んでいた。
 数日間、彼は彼女のアパートに居座り、介抱に当たった。付き合っていた彼女には一人旅ということにして、無理やり東京の観光スポットに足を運び、アリバイ工作のために写真を撮って逐一報告した。彼の努力の甲斐あって、彼女の心身状態は改善された。
 だが、彼女は似たような男にまた尾びれを摘ままれ、水槽に投げいれられた。そして再び、地べたに捨てられてしまうと彼女は同じように病んで、彼を再び呼ぶこともあれば、呼ばないこともあった。罪悪感で彼の連絡先を消そうとした深夜、SNSで知り合った仲間がやっていたことと同じことをした。鱗の隙間からぬらりと零れて漂う赤が水槽を濁らせた。

 その時、彼は付き合っていた彼女と別れたばかりだった。彼はその年の年末年始を彼女のアパートで過ごした。正月特番を見ながら、ふたりでポテトチップスとミカンを摘まみ、餅を頬張った。
 三が日が終わり、明日の昼には帰らなければならない夜、互いの瘡蓋に触るように二人は炬燵の中で身体を重ねた。中学の時のような強烈な違和感はなく、二人は互いを男女として意識し、遠距離恋愛を始めた。彼にとっては胸の中に密かにしまい続けていた初恋だった。だが、3か月も持たなかった。

「どうしてこうなっちゃうんだろう」
 木でできた電柱に括りつけられた拡声器が間もなく電車が到着することを報せる。
 彼女が立ち上がり、彼も立ち上がる。覗いた線路の奥、霧を照らしながら光る車両のヘッドライトが眩しい。彼は彼女が今、男に捨てられ、傷心中なのは尋ねずとも分かっていて、彼女も彼が理解っていることを分かっている。

「日頃の行いじゃね」
 つい、彼は悪態をついてしまう。
 言わなければいけないことがもっとあるはずなのに、推敲していない言葉が口からこぼれて、目の前にはもう車両が停まっていて、彼は言葉を費やしてしまったと思った。返事の代わりに彼女の肘が彼の脇腹を小突き、電車の扉が開く。
 だが、彼女は皮肉屋なところも変わっていない彼を見て、本気で足が止まりかけている。この人のとなりにいたらきっともっと飾らずに。予感が過る。とっくに褪せたはずの初恋が今更になって色を取り戻していくが、発車のベルが鳴っている。 

—――お前今までそうだったんだから、今もそうなんだよ。

 彼女が飛び乗り、扉が閉まっていく。 彼女が飛び乗り、扉が閉まっていく。突然、頭に浮かんだ罵倒でもあり、切望でもある一言を彼は伝えようとした。だが、「おまま、」と言いかけ、彼は言葉に詰まってしまった。
 閉まったドアの窓越しに見上げた彼女は空になったコーンポタージュの缶を握りしめたまま、何かを言おうとしていた彼を見下ろし、笑っていた。電車が動き出した。
 少し先にいた彼女が車両の速度と共にどんどん遠ざかっていき、ホームには彼だけが取り残された。

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