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優しい軍人

祖父のことはよく知らない。
陸軍の軍人で、祖母と出会う前に妻がいたが、その妻は病弱で里に返されたと聞いている。それが、私の母が生まれる前だったのか、後だったのか。祖母も母も他界した今となっては詳しく知る手だては、もはや無い。

ほんのひと時、親子三人、東京で何不自由なく暮らした時期もあった。
優しい人だったらしい。
妻が娘に手を上げると、泣かんばかりになって庇ったという。祖母がその様子を思い出し
「女みたいに女々しいところがあった」
などと言うのを聞いたことがある。
もし祖父が生きていたら、母の人生は大きく違っていたかもしれない。

太平洋戦争の末期、祖父はビルマで戦死した。あの悪名高きインパール作戦でだったのかは分からない。
軍から遺骨として送られてきた箱には、丸い石が一つ入っていた。それが、娘である私の母の、ほぼ唯一の父の記憶だったという。母は4歳だった。

幼い母に
「世が世なら、あなたは“おひいさま”なのに・・・」
と言う人がたという。
しかし現実は、何の後ろ盾もない戦争未亡人とその娘の、凄まじい日々が始まったのだった。

戦後の激動期。同じような母子家庭が巷にあふれる中、この親子も必死に生きぬいた事は間違い無い。
ただ母と子の互いに対する思いは、母親81歳にして互いを死が分かつまで、遂に交わることができなかった。

母親は娘のことを「オムツかぶれ一つ作らないように大事に育てた」と言った。
娘は「私はお母さんから、死ぬんじゃないかと思うほど叩かれながら育った」と言ったのだった。


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