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おばさんは温顔になりたい

父が亡くなった年が去り、新しい年が来ました。年始の挨拶や抱負などを書きたい感じでもないので、年末年始に見聞きした言葉で印象的だったものなどメモしておくことにします。

「しょうがない」

年明け、帰省から戻る飛行機が欠航になりました。振り替えた便も遅れに遅れ。しかし原因は羽田衝突事故だし、事故の背景には能登地震(で緊急フライトが多く発生していたこと)がある。そう思うと航空会社へはもちろん、家族の間でも不平不満を言う気にはなれません。伊丹空港の9番ロビーはため息と「しょうがない」の輪唱でした。「しょうがないね」と東京弁で妻に言う夫がいたり、「しょうがないねん」と子どもに諭すお母さんがいたり。

ところでうっかりすると標準語のことを「東京弁」と言ってしまうの、大阪と兵庫ぐらいでしょうか。京都もかな。

「おばさん」

暮れに古巣の忘年会に出ましたら、いつも多めにお金を出してくれる重役の人が、わたしの容姿いじりを始めて難儀でした。やめませんかとわたしも周りも言うのに「新しい髪型も似合ってるよ。でも前と違うんだから新鮮だねという意味で話題にするのは自然なことで、別に悪口じゃないんだからいいでしょう」と言い訳してまで続行するのです。

彼はハラスメントのそしりを免れる範囲でいじりを楽しもうとしていましたが、かなり最初のほうで一度「おばさんくさいっていうか」と口走ってしまっていました。それを指摘し、「確かにおばさんなのでそう言ってもらっても構いませんけど、さすがにしつこいですよ」と苦笑いしたら、今度はそれを言質のようにして「本人も納得なら『おばさん』は悪口ではない」というようなことを主張し始めました。

中年女性に「おばさん」と言うことは、中年男性に「おじさん」と言うことより、意味が重たいとわたしは思います。わたしたちの住むこの日本社会では、女性が年を取ることを、さんざん否定的に扱ってきたからです。男性が年を取ることに対してもからかいや嘲りが浴びせられることが確かにありますが、中年女性が受けるのとは質も量もまるで違います。

その質量差を知っているのに、そもそも言葉の意味や社会通念とは別に自分の悪意の存在も知っているのに、彼はそれをわざと無視して「俺たちだって『もう、これだからおじさんは』とかよく言われるし、なんでもないことではないか、だから言わせろ」と主張するので、なかなか無理筋だと思いました。

翌日には謝罪メールを受け取り、わたしは許したかのようなメールを返しましたが、おそらくもう会うことはないと思います。彼は年若い人を探して楽しい宴会をすればいいし、わたしは精神が年寄りでない人と酒を飲みたいと思っています。

先週から人気ドラマ「おっさんずラブ」の続編が始まりました。「おっさん」は「おじさん」よりも、じじむさい感じが軽減されているような気がします。少し乱暴な呼び方ではあるけど、その分、ライトでポップ。上手い名称を思いついたものです。「おっさん」に対応する、中年女性の呼称はありません。それは決してたまたまのことではないと、おばさんたるわたしは思います。

「温顔」

グチはこれぐらいにして。感心した言葉、触れて楽しくなったりうれしくなったりした言葉もあります。

新聞の一面左下コラムでは数日に1回は、自分の語彙にない言葉が出てくるので、ありがたいです。「温顔」も「凜冽」も意味は分かっても、自分が話すとき書くときには出てきません。ニュアンスがわずかに違うけど意味が似ているポピュラーな言葉で済ませてしまう。本当は、一年に一回使うかどうかの言葉をたくさん取り揃えている人になって、それをしかるべきときにさっと取り出したいものです。

「無防備な恋愛映画」

単語と単語のつながり方が面白いなと思ったのは、今年5月に公開されるという映画について監督が言った「無防備な恋愛映画です」。ずっと前から構想しながらも半ばボツに近い格好になっていたのを、今回かなりの覚悟で撮ったということです。そういう背景が紹介されていたので、これは「無防備な恋愛を描いた映画」ではなくて「無防備につくった恋愛映画」のことを言っているのだろうと思いました。

おそらく、恋愛映画が興行的に成功しないという近年の傾向があったり、恋愛映画を観るときにも現代的なコンプライアンス感覚が持ち込まれる世の中になっていたり、そういうことに対して無防備にいくと決めましたという意味の“無防備”なのではないでしょうか。取り違えているかもしれませんけれど、少なくとも「感動的な恋愛映画」や「みずみずしい恋愛映画」などより、わたしは見たいと思いました。タイトルは未発表。松井大悟監督です。

ちなみに、よく合わせられるのとは違う語句と結びついた形容語の例でいつも思い出すのが、美智子さまが清子さんの結婚を前に、まな娘の幼少期を振り返ったときの「のどかな『ドンマーイン』」です(宮内庁のページ)。ときどき読み返します。

「深い」

Twitterで悩み相談を受け付けているお笑い芸人の九月さんが、「深い」という言葉についてツイートしていたのも面白かったです。あ、正確にはXで、ポストしていた、めんどくさいですね。

「深い」って言い切ってしまうと、それ以上「深そうな何か」を掘り下げられなくなるようなもどかしさを感じる。

九月の読むラジオ

わたしたちは自分が使い慣れた言葉に、なんでもかんでもカバーさせすぎているのかもしれません。オーバーワークな言葉たちにはここらで五連休とか飛び石ながら八連休とかあげられるといいのですが。

「三部作の四作目」

12月にユーロスペースで観たアキ・カウリスマキ監督の『枯れ葉』は、ほの暗いようで明るくて全てがかわいくてちょっと小津で、観た後しばらく幸せでいられる映画でした。この映画について監督が言った「愛を、もう一度勝たせてやろう」は映画と共に記憶に残っていく気がするし、「実は三部作の四作目なんだ」もたぶん忘れないと思います。劇中に出てくるフィンランドの姉妹デュオが歌う「Syntynyt suruun ja puettu pettymyksin」という曲もいいです。機械翻訳にかけると「悲しみに生まれ、失望を身にまとう」になります。

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