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人魚の肉を食べた



数十年ほど前に人魚の青年が人間に殺された。

人間の使った刃物と共に夥しい数の彼の鱗と髪や表皮が漂って来たらしい。以来人魚たちはその浜に近づかないようにしていた。
しかし書物を持たない人魚たちは口伝えにそれを伝えたので、どの浜なのか正確なところがわからなくなり、全ての浜に上がることを控えるようになっていった。
なので無邪気な少女にすると、「その人間が恐ろしいだけで陸が全て忌むべきものではない」ことになり、あまり人間がうろついていなさそうな岩肌の海辺にこっそりと顔を出した。
「あ」そこでふたりの声が重なった。
彼女が顔を出したすぐそこに人間の青年が居たのだった。彼はすぐに彼女の手を取ると「僕と生きてくれ」と言った。

攫われていく間も人魚は自分が殺されるのかと思ったが、人間はとても彼女を大切にした。
彼はいつも一人だったが様々なことを知っていて 色々なことができた。料理も工作も、彼女に語り聞かせる話も、人間の短い生と欲に振り回される性分の中でよくぞここまで多くを得たと、人魚が感心するほどだった。そして彼は穏やかで、優しく、人魚がそばにいることが嬉しくてたまらないように話かけ、沢山構った。だんだん人魚は彼への警戒を解いた。
彼がお金を貯めて庭にプールのある家を買った時、人魚はこの人と一緒に生きていこうかという気になった。彼は「まだ君を人間にする算段がつかないんだ。もう少しこの狭い庭で我慢してくれ」と言った。

庭からは外の世界は見えない。しかし人魚にとっては、庭にあるものだけでも陸の世界は目に新しく、いつまでも眺めていた。
ある時一人の子供が庭に迷い込んできて、人魚はこの辺りに彼以外にも人間が居たことを知った。子供が深い茶色の目をしていたので珍しく思い、人魚はじっとその目を見つめた。
上半身だけをプールから出していたので、少年は人魚を人魚と気付かず「すみません!」と焦ってどこかへ行こうとした。それを人魚は青年と話して覚えた人間の言葉で呼び止めた。
「君はここの家の彼を知ってる?友達になってあげてよ」
少年は目を丸くして振り返り、一度うなづいた。

彼はたまに人魚をプールから出して、研究室で身体を診た。他にも尾鰭に触れたりキスをした。少年と人魚が出会ってからも彼の様子に変化はなかった。少年と交流を持たなかったのだろうか。
人魚は特に何も訊ねなかったが、ふと研究室の隅にある骨格標本に気づいてそれを訊ねた。「あれはなに」
「あれは骨だよ。君の体にも入っているものだ」
「…あれは 人魚の骨?」
「…」そうだよ と彼はうなづいて微笑んだ。
「本物?」
「そうだよ。…<彼>があれをのこしていってくれてよかった。おかげで君の今の体のことも、よくわかる」

それからしばらくして彼は人魚を人間にする算段が立ったといって、準備をするから待っていて と伝えてきた。
夜だった。人魚は庭で空を見上げていた。星たちの煌めきをうっとり眺めていた時、ふと影が差し込んだ気がして、人魚はそちらを見た。
そこには一人の老人が立っていた。老人は驚いたように目を見開いて人魚を見つめていた。その目は美しい深い茶色で あの日の少年と同じ虹彩をしていた。
老人は人魚の方へ歩み寄ろうとしたが、そこで彼がやってきた。
「ああ、もう来るなと言ったろうに」と彼が言って、老人をどこかへ引っ張っていってしまった。

海辺で出会って10年、家に住み始めて20年、少年と出会って40年。彼の見目は、出会った時から変わらない青年の姿だ。

戻って来た彼は「準備ができたよ」と微笑んだ。抱き上げようと手を伸ばされて、人魚はそれを一度躱した。
「どうして私と生きたいと?」人魚は訊ねてみた。
青年は一度黙ったが、また静かに微笑んで答えた。
「僕は人と違う時間の流れで生きているから いっとき言葉を交わしてもそれっきり。でも君となら、共にいられるだろう」
「もし私が拒絶したらどうするつもりだった」
「…君に逃げることができるか?陸を動けない尾鰭で」
ふ、と彼は言葉を切ってもう一度手を伸ばしてきた。
「君は逃げられない。もし人間になってもその時には君は僕と同じ、誰とも生きられない、僕以外とは。海にだってもう戻れない。…共に在りさえすればいい 意思も情もなくても 悠久の時の中でそんなものはいずれ超越されていくさ」

人魚が彼に抱き上げられていくと、そこには人間の少女がいた。どことなく面差しが人魚と似た、美しい少女だ。目を閉じて横たわっているが、呼吸に合わせて体が動いており、生きているとわかった。
「この子に君を食べさせる」
彼に告げられて、人魚は驚き、暴れ狂った。「共に生きると言ったのに」と、青年を罵り泣き叫んだ。「嘘吐き!」
けれど青年はそれを甘んじて受けながら全く動じずに「嘘じゃない」と答えた。
「嘘じゃない。この人間が君の肉を全て食えば、いずれこの人間の中で君は目覚めて 僕と同じ時を生きることになる」
「……中で、目覚める?」
「そうだよ。僕が<彼>の中で目覚めたのと同じように、目を覚ます。君に似合う健康な人間を一生懸命探したんだ。君がこれの中で目覚めるまで、必ず守るから、ね。長い時が掛かるけれど、大丈夫さ、僕らには悠久ほどの豊かな時間があるのだから」
青年は人魚を見つめ、笑顔を浮かべた表情の眉を下げて、すがるように抱きしめて言った
「お願いだ。僕はもう人魚に戻れない 人間の中にも交われない …僕をひとりにしないでくれ」



それから 

茶色い目をした老人は、いなくなった孫娘を見つけられないまま亡くなった

人魚たちは、少女がまた人間に殺されたのだろうと噂した。

彼と彼女は、今もどこかで 寄り添って暮らしている。








『寄生する人魚のはなし』

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